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ところが、200字、300字と進んでいくと、だんだん楽になってくる。いくらでも行けそうな気がしてくる。余り入れ過ぎると爆発するんじゃないか?という変な不安を感じるほどでした。
まず、覚えるときは、文字を見て音と意味を覚えました。一日3字のペースで。本を見た直後は覚えていますが、少しすると忘れる。意味を思い出したり、漢字を思い出したりしながら…それでも3字だと思い出すことができました。
そして昨日まで覚えた分を頭にくっ付けて何度も唱えます。運転している時とか、お風呂に入っている時とか、できるだけ何度も繰り返します。そうすると、脳の別の場所で、自分が唱えている音だけを記憶していくような感覚に気付きました。
この場所はテープレコーダーみたいなもので、経文を唱えていると次々と次のフレーズが浮かんできます。ただ、何行か先を頭出しするなんてことはできません。だから、テープレコーダーです。CDとかディスクとは違います。
好きな歌を何度も聴いていると、いつの間にか歌えるようになりますよね。歌詞もいつの間にか入っている。アルバムならば、一曲終わると、次の曲が始まらないうちに前奏が頭に浮かぶようになる。それと同じことがお経で起きているのでしょう。
さて、これはどういうこと?ということなんですが、以前書いたスラスラ演奏と同じなんじゃないかと思ったのです。楽譜を見ながらじゃないと弾けない曲を演奏しているときは左右の前頭前野が働くけれども、弾き慣れた曲を演奏しているときは右脳の前頭前野だけが主に働くというやつ。
テープレコーダーの正体が右の前頭前野なのかどうか…川島先生にでも聞かないと分かりませんが、スラスラ読経のときは全く他のことを考えていてもお経は途切れませんから、スラスラ読経だけではあまり頭は働かないのかもしれない。
1000字分のお経を唱えられるようになったのはいいのですが、「書け」と言われてもほとんど書けません。意味も最初に覚えた方はあやふやになっています。そこで復習を兼ねて、覚えたお経を少しずつ音読することにしました。これだと、文字を認識する中枢も刺激されることでしょう。
でも、要はボケ防止です…
コメント
コメント一覧 (4)
浄土宗は字間の合間に打つ「間打ち」が特徴らしいのですが、まだ違いがよくわからない…いずれ両方の打ち方をマスターしたいと思ってます
因みに日蓮宗の木鉦も持っています。そっちの音の方が私は好きかも。ちょっとうるさいですけれど(笑
口では唱えているのに、頭では全然別なことを考えているということがあります。口が自動操縦で動いている。これは脳もあまり活性化しないし、仏様にも失礼な話ですね
ドラム(木魚)の方は全然やってないので、今後はCD聞きながら練習したいとも思ってます。
結構色々と覚えていますけれど、なんか自然に覚えていたものばかりです。毎朝読むようなものは苦労した記憶はないです…やはり回数ですかねぇ。
いずれにしても、経は暗唱できるようにしても、決して暗誦はするな、と言われます。覚えていても必ず経本を見ろ、ということですが、これは視覚でも読経しろ、ということでしょうね(暗誦していると丁寧さがなくなって、慣れから「流してしまう」ことがあるからでしょう。ボーっとやってると間違えてしまう可能性もありますし…)。