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第13章「宗教―自己を高める「努力の価値」を確信するために」を読みました。

《以下引用》…さまざまな宗教は、その形式や礼拝の具体的な詳細、象徴に対する人間的な解釈の面では互いに対立している。だが神の存在、美徳、道徳律については、どれもが一致する。純潔や善、美、信仰はいたるところで敬われているし、こういうものこそがすべてを支配すべきなのである。したがって、物質的な偶然性から解き放たれ、高遠な理想をめざす無私の努力の必要性を認めている教義に対して、非難を浴びせることはできない。人は、自分の内にあるものを発達させ、みずからを浄化し、改善し、キリストという完全な理想へ近づくことが大切だという点を理解しなくてはならない。そのほかのことはすべて二の次なのである。…《引用終わり》

美徳・道徳律などは各宗教とも共通する部分は多いかもしれません。が、「どれもが一致する」というのは言い過ぎのように思います。少なくとも「キリスト」という部分は共通ではない!

《以下引用》…どんな宗教を信じているにせよ、わたしたちは、谷底にいながら、他の峰々を圧してそびえる雪をいただく山頂へ登ろうとする人々に似ている。だれもが同じ目標に目をすえており、きわめるべき山頂が一つしかないことでは一致している。ただあいにく、たどる道がそれぞれに違っているのだ。…宗教は形式がさまざまに異なり、外的条件の制約を受け、風土によっても違いが生じ、土地がらや民族や伝統に適応しているが、そのすべては一つの普遍的な法則のもとにおかれている。超自然的なものから生まれたこの法則が、各宗教の存在理由となっているのだ。不寛容は、無理解の証しである。…《引用終わり》

山の例えに似たものを自分も以前書きました。目指すものが同じであるということについては、少なくとも釈尊はかなり慎重であったようです。みんな同じものを目指していても、その目標がみんなの目に同じように見えるとは限らないのではないか?

この本は、かなり強引というか…不寛容さを感じます。

《つづく》