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大乗起信論(岩波文庫版)
第三段「解釈分」の第二章「誤った見解の克服(対治邪執)」まで読みました。以下、自分なりにまとめてみます。

誤った見解(邪執)はすべて、ものの実体視(我見)にもとづいている。我見には、人我見(個人存在の実体視)と法我見(客観存在の実体視)がある。人我見は五種類に分類できる。

1.「如来の法身は究極において寂漠としている。それはちょうど、虚空の如くである」という経典中の説明を読んで、おおぞら(虚空)こそが如来の本性だと誤解する人がいる。


これは、実体はないが遍くゆきわたっていることを、大空に例えたものである。

2.「世間の諸存在は畢竟じて実体はない(体空)。ないしは、涅槃とか真如とよばれるものもまた畢竟じて実体はない。それらは、そのはじめからそれ自身実体なく(自空)、あらゆる特質づけ(相)を超越している」という経典中の説明を読んで、涅槃とか真如というのは本来何もないのだと誤解する人がいる。

前項同様、実体視する恐れがあるので、それを避けるためにこのような説明をしている。真如とか法身は無量の徳性を備えており、決して無内容なものではない(自体不空)。

3.「如来蔵は生滅を離れているので本質的に不増不減であるが、しかも、それ自身に如来のもつ一切の徳を具備している」という経典中の説明を読んで、如来蔵には物質と精神の両面にわたって種々の異なった特質が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵とはただ衆生の心の真実のあり方(真如)をさして説いている。そこに物質的・精神的な種々相が現象しているのは、無明にもとづく心の生滅において染汚しているからである。

4.「世間のすべての生死輪廻に伴う汚れの現象は、すべて心の真実のあり方たる如来蔵において有る。それ故、一切の諸現象は真実のあり方(真如)と別に独立して(離)存在するわけではない」という経典中の説明を読んで、如来蔵自体に本来、すべての世間的な生死輪廻にかかわる諸現象が具わっていると誤解する人がいる。

如来蔵は本来、無量の清浄な徳性のみが、真如と離れず断絶せず別異ならざるものとして具わっている(不離不断不異真如)。無量の煩悩の汚れた諸現象は、ただ根元的無知によって仮構された存在で(妄有)、本来あるものではなく、決して如来蔵と本質的に結びついたものではない。

5.「如来蔵にもとづいて生死輪廻もあり、如来蔵にもとづいて涅槃もある」という経典中の説明を読んで、輪廻する衆生は如来蔵の上にあるとき突然現れるという形で始まり、始めがあるから涅槃にも終りがあるだろうと誤解する人がいる。

如来蔵の始めは知られないし、その上にそれを隠すように現れている根元的無知の始めも知られない。

虚妄な執着をどうやって最終的に離れるか…

汚れているとか、清浄であるとか言っても、そういう現象はすべて相対的なもので、その固有の特質と言えるものがあるわけではない。一切の現象は本来、物質でもなく、精神でもなく、直観的な知恵でもなく、分析的な認識でもなく、存在でも非存在でもない。いかなる言葉によっても表現できない様相のものである。

それにもかかわらず言葉で説明するのは、これこそ如来の巧みな方便であり、便宜的に言葉を用いて衆生を導くためである。衆生が虚妄な心のはたらき(念)を離れ、心の真実のあり方に帰一するようにしたいと願うからである。

人がひとたび一切の現象を心に思い浮かべるならば、その時はいつでも心が動き、真実の認識(実智)に入るのを妨げる。

《つづく》