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仏教が伝来したころ、全てのものが「仏教」に包含されていたことでしょう。呪術、哲学、弔い、建築、美術、その他もろもろの生活習慣などなど。当時は、「呪術としての仏教」を最も強く求めていたのではないでしょうか。

新しく興り、急速に広がっていく宗教は、呪術なのだと思います。霊感とカリスマのある人を中心に人が集まり、その人の言葉を大切にし、(比較的短期的な目先の)現世利益を実現していきます。

…尤も、それで本当に羨ましくなるほどの幸運(現世利益)に恵まれている人を、私は見たことがない。「そんなに忙しく信仰しないといけないんだったら、何か仕事してたほうが幸せなんじゃないの?」と思える人ばかりです。

だから、というわけでもないのですが、そういう初期の勢いが無くなった「古典としての仏教」を勉強する、「哲学としての仏教」を修める、ということを今年は頑張ってきました。

真言密教大乗起信論について、初歩の初歩の初歩をかじったところでしょうが、哲学として非常にしっかりした奥の深い内容であることがわかってきました。哲学として仏教は何になるのか?どういう意味があるのか?今の私の考えを書いておきます。

それは「外側から降りかかる災難や、内側から突き上げてくる煩悩に対して、なるべく動じない心を養う」ということではないかと思います。

外側から降りかかってくる災難を取り除くこと、これが「呪術としての仏教」の役割だと思います。でも、それはどうかな?と思っています。災難に遭う確率を下げることなんてできるのかな?と。少なくとも、そんなことを仏教に求めてはいけないと思っているからこそ、「哲学としての仏教」を望むわけなのですが。

内側から突き上げる煩悩も修行をすれば無くなっていく…というのもどうかな?と思っています。欲望を失った人間なんて、結局のところ腑抜けじゃないか。少なくとも現世に生きる以上、煩悩は消せないし、消してもいけないんじゃないか。

じゃあ何も意味がないじゃないか!と思う人もいるでしょうが、内外から襲ってくる艱難辛苦に対して、あたふたと右往左往するか、しっかり受け止めた上で対策をこうじるか、では雲泥の差があります。

「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。その宇宙観・人間観を思い出し、なるべく自分をその中に置くための作業が読経なのかな、と。108の煩悩を取り除くというよりはしっかり受け止めるつもりで、除夜の鐘を聞きたいと思います。

皆様、良いお年をお迎えください。