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チャプタ兇痢屐峺沈」を支えるパラドックス」「現実と仮想の際にて」を読みました。

《以下引用》…人間の「個性」とは、他人とのやりとりを通して獲得される共通の基盤の上に構成されるものだ…《引用終わり》

常識というか、基礎知識的な部分で、他人との共通項をきちんと共有していないで、ただ人と違うことをしても「個性」とはいえませんよ、ということです。モーツァルトを例に説明していますが、ピカソの方が分かりやすいんじゃないかな。

ピカソはとっても変わった絵を描きましたが、変わった絵しか描けなかったのではない。写実的な分かりやすい絵も奇麗に描いています。基礎的な技術をしっかり身に付けていたからこそ、「個性」として認められたのでしょうね。

《以下引用》…仮想と現実の相互作用のぎりぎりの際において、邪悪な犯罪者と偉大な表現者を分けるものは、結局そこに「愛」があるかどうかである。陳腐なようだが、私はそのように信じている。《引用終わり》

直江兼続のような意見です…

ゲームをやり過ぎて仮想と現実の区別がつかなくなって犯罪に走る若者が多いのだという説明は、私も間違いだと思います。ゲームとは無縁と思える高齢者の犯罪も増えているように思いますから…犯罪を犯したことがある人とない人とで、ゲーム等の仮想現実に触れる機会にどの程度の差があるのか、調査すべきだと思います。

この議論は、「自然の物なら何でも体にいい、人工の物は何でも体に悪い」的な意見と同根のような気がします。「天然のトリカブトや天然のフグの卵巣なら、口にできるのですか?」とお尋ねしたい。

「愛」という概念も、情念としては自然のものかもしれませんが、ここで言っているのはキリスト教的な理性的な概念だと思います。だから、それは人工的なものであるし、仮想だと思います。

例えば、篤い信仰の下、常に善行を施す人というのは、信仰しているその宗教の世界観・宇宙観にドップリ浸かっているんだと思いますが、これも列記としたバーチャルリアリティですよね。

仮想や人工が悪いとは限らない…

《つづく》