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「意識の形而上学」
第二部「存在論から意識論へ」の「11.「空」と「不空」」「12.「アラヤ識」」を読みました。タイトル通り、空、不空、アラヤ識について書いてあります。

「空」について。
《以下引用》…意識と存在のゼロ・ポイントとしての「心真如」は清浄であって、ただ一点の妄染すら、そこには無い。哲学的言辞で言えば、一切の意味分節を超絶しているのであって、それをこそ「空」というのだ。…人間は誰にも「妄心」なるものがあって、時々刻々に存在を「分別」(=意味分節)し、限りない現象的「有」を刻み出して止まない。それらの事物は、どの一つを持ってきても、「真如」そのものとはピッタリ合わない。だから、このように「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を、全部一挙に払拭する(=空じ去る)ために、どうしても「空」という概念を立てることが必要になってくるのである。もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。本来的には、空ずべきもの何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。《引用終わり》

「不空」について。
《以下引用》…「心真如」の本性そのものは常恒不変、不生不滅の「真心」であって、そこには一点の虚妄性も無いが、そのかわり、「真心」特有の玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。それらの「浄法」が、「心真如」の自己分節という形で、限りない現象的存在者として顕現してくるのだ。「心真如」のこの側面を「不空」と名づけるのである。《引用終わり》

「アラヤ識」については、『起信論』と唯識哲学とで見解が違うようですが、このブログでは前者を取り上げます。
《以下引用》…(「心真如」と「心生滅」)の関係は本性的に流動的、浮動的であり、柔軟であって、単純に此処までがA領域、此処からはB領域、という具合にキッパリ区画して固定できるようなものではない。両者は現に、不断に相互転換しているのだ。もともとBはAの自己分節態にほかならないのであるから、Aは構造的に、それ自体の本然的な現象志向性に促されてそのままBに転位し、また逆にBは、当然、己れの本源であるAに還帰しようとする。『起信論』的に表現するなら、AとBとは「非一非異」的に結ばれているのだ。A領域とB領域とのこの特異な結合、両者のこの本然的相互転換、の場所を『起信論』は思想構造的に措定して、それを「アラヤ識」と呼ぶ。《引用終わり》

この状態を略図化しています。集合Aと集合Bとその交わりMを表すベン図のような絵です。A、Bは前出のA、B領域に対応し、Mが「アラヤ識」ということになります。更にこのM領域をM1「如来蔵」とM2「(狭義の)アラヤ識」に分けています。
《以下引用》…M1(「如来蔵」)は無限に豊饒な存在生起の源泉。M2(「アラヤ識」狭義)は、限りない妄念的「仮有」の生産の源泉。この両方が同じ一つの「アラヤ識」(広義)の相反する二つの「顔」をなす。…B領域の存在分節態を、Aの本体そのものの自己展開と見るとき、M領域は「如来蔵」(=「如来の宝庫」、存在現出の限りなき可能体)としてポジティブな価値づけを受け、逆にBを全一的Aの分裂的汚染態として見るとき、同じM領域が、「妄念」的存在世界への第一歩というネガティブな性格を帯びて現れる。そして、およそこのようなものが、『起信論』の考想する「衆生心」の真相なのである。《引用終わり》

とにかく、どこまでも双面的なのですね…(^_^;)

《つづく》