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「意識の形而上学」第一部「存在論的視座」の「.真如という仮名(けみょう)」と「.言語的意味分節・存在分節」を読みました。

《以下引用》…東洋哲学の諸伝統は、形而上学の極所を目指して、…日く「絶対」、日く「真(実在)」、日く「道(タオ)」、日く「空」、日く「無」等々。いずれも、本来は絶対に無相無名であるものを、それと知りつつ、敢えて、便宜上、コトバの支配圏内に曳き入れるための仮の名にすぎない。《引用終わり》

言葉では表せないものだけれども、言葉にしないと始まらないから、敢えて別物への置換をせざるを得ない。

《以下引用》…対象を分節する(=切り分け、切り取る)ことなしには、コトバは意味指示的に働くことができない。絶対無分節的な「形而上学的なるもの」を、例えば「真如」と名づけたとたんに、それは真如なるものとして切り分けられ、他の一切から区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。だからこそ『起信論』は、「真如」という語を使いながら、それをあくまで仮名にすぎないと強調し、仮名だ、仮名だ、本名と間違えてはいけない、とあれほど繰り返すのだ。《引用終わり》

確かに形而上学のキータームであれば尚更でしょうけれど、日常的にも、言葉を重ねれば重ねるほど嘘っぽくなるもどかしさを感じることはあります。ラブレターなんかそうじゃないかな。少なからず伝えることと伝わることは違ってしまうものだし、聞き手によって受け止め方が全然違います。恋愛なんて、うまくいくも壊れるも、この誤解の産物ではないでしょうか?

宗教を説明することは、自分の崇高な愛情を伝えようとするラブレターのようです。『起信論』も、一切衆生を暖かく包んで守ってあげようというラブレターに見えなくもない…

《つづく》