「近代生物学は競争だけを根本的な活動原理として認め、生きものの根本的な習性として攻撃性だけしか認めようとしない」というダライ・ラマの指摘は理解に苦しみます。ダーウィンはそうだったかもしれないけれど、今は違うと思います。近代と現代の違いなのでしょうか?

ダーウィニズムは、「競争」という要素を取り除くととても面白い考え方になると思っています。経験論的というか、結果重視というか…。現存する種が(現存しているという事実・結果を尊重して)適者だったのだと言い切ってしまうのは、私にはとても画期的に感じるのです。

例えば、「殺人はなぜ悪いか?」という問いに対する答えを私は知りません。「当り前じゃないか!」としか答えられない。「法律で禁じられているから」も根本的な答えにはなっていない。「神や仏が禁じているから」くらいが関の山です。

未だに私はダーウィン的手法でしか答えを見つけられません。つまり「殺人を禁じた文化だけが生き残ったのだ」ということです。

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生物と無生物の違いは何か?エントロピーがひとつのポイントだと思います。無生物はエントロピーが増える傾向があります。簡単に言うと、ほおっておけば部屋はどんどん乱雑になっていくということ。しかし、生物は逆の方向性を持っています。日々の代謝活動でも見られますが、私は進化の流れの中にも見られると思います。

単細胞生物から、個々の細胞がきちんと組織立って機能する多細胞生物に進化している。多細胞生物も更に進化を遂げて知能を身に付けると、社会を構築して大きな組織を作ろうとする。

無生物が生み出したエントロピーを、生物が消し去る役目を負っているようにも見えます。まるで、酸素を生み出す生き物と酸素を消費する生き物とがバランスを取らなければいけないように。

利他主義は、より大きな社会を構築する上で必要なものです。エントロピーを消し去るのに効果的なもの。生物進化の延長線上に位置づけられないものかとも思います。

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ともかく、この章の内容に関してはダライ・ラマと私の意見は正反対のようです。

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