「他人のなかに存在している自己」という表現に興味を持ちました。これと対極的なのが「自分のなかにあって、本当の自分なんて自分にしかわからないはず」という西欧的で現代的な自己

前者の捉え方の場合、他人との関係において自己が出現してくる。自分というのは、他人の頭の中(心の中?)に散在しているもの。人間を「人の間」と表現するところに、昔はこの考え方が定着していたことがうかがえます。

後者は、自分は自分の頭の中だけに存在しているということ。だから、一人になりたがるんじゃないかと思いました。他人との境界を作りたがる。西洋では小さい時から個室を与えてしっかりとした個人主義を育ませるのだと、昔習いました。プライバシーという概念はこういう文化から生まれるのでしょう。プライバシーの無い日本家屋に住んでいたわたしは、最初はとても違和感を覚えました。(今もプライバシーという概念には疑問を持っていますけど・・・)

前者の場合、利他的精神は自然に生まれてくるように思います。が、後者の場合は利己的に向かうのが自然で、もうひとつ別な道徳(例えば宗教)でコントロール(束縛?)する必要があるのではないかと思います。

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もうひとつ、自己は日々変化していくというのが東洋風で、自己に周囲(自然界)を従わせていくというのが西洋風というのも面白かった。これには仏教が関わっているような気がしました。何度も生まれ変わる中で、徳を積んで、少しずつ仏様に近づいて行きましょう!という教えだから、自分が日々変化しないことには進歩が無いわけです。自己が日々変化するということは養老さんの持論でもあり、僕も気に入っている考え方です。

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やっと、面白くなってきたなと思ったら、対談が終了してしまいました。なんとも残念な本です。

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