オカルトという言葉も定義がよくわからないのですが、「理性の光が当たらない分野」と私なりに解釈しています。それは、科学が踏み込めない場所ですから、科学者は太刀打ちできません。ウソとかホントとか議論するのはナンセンス。「怪力乱神を語らず」とした孔子の立場が賢明なのであって、科学者はコメントできない領域だと思います。ある意味で、科学万能の時代に残された夢とロマンの場所と言えるかもしれません。

 だから、Cozyさんが好きだとおっしゃる「試練は自分で計画して生まれてくるのだから、越えられない試練は無い」とか「赤ちゃんは親を選んで生まれてきた」というのも、そう信じるのは自由だと思います。これを証明する科学的証拠は無いかわりに、否定する科学的証拠もないのです。結果として、試練にひるまず取り組めるようになるならば、わが子を愛してやまなくなるならば、その考え方は「良い」考え方だと思います。ホントかウソかにこだわって、試練に挑戦しない弱虫や、子供を愛せない親になるよりはずっといい。

 「千の風になって」という歌がはやっていますが、これも愛する人を失った悲しみ(最大級のストレス)を癒す方便かもしれません。「風とか光とか雪とか鳥とか星になって、あなたをいつまでも見守っていますよ」と言われれば、やるせない悲しみが少しはなんとかなるかもしれない。悲しみが怒りや憎しみという怪物に化けないで、悲しみのまま少しずつ小さくなっていってくれるかもしれない。

 宗教はもともとそういう役割をしていたのではないか、というよりも、そういう必要に迫られて生まれたのではないかと、僕は思っています。○○教団というような組織は要らないけれども、こういう「良い言葉」を集めたようなものは必要だと思います。その役割は、科学には望めないようだから。

 こういう歌がはやるのは、そういう必要性が高まっているということではないかなと思います。

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