トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2012年08月

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少年を乗せて、私は車を走らせていた。前方には夕日。少年が言った。
「北極の夕日はね、横に沈むんだよ」
意味が分からない。私は返事に窮した。
「白夜とか、ずっと夜も明るい時があるらしいから、きっと夕日を違った見え方をするんだろうね」

少年は小学一年生。彼が宇宙に興味があることを、先日の天体ショーの時に知った。それからというもの、彼は地球の自転とか、太陽と地球の関係とか、おそらくはお父さんかお母さんかお兄ちゃんから仕入れたばかりの知識を、私に話してくれる。

彼は地上の常識が通用しない宇宙というワンダーランドに魅せられているようだ。私は、またひとつ、彼に不思議の種を蒔いてみることにした。

「アインシュタインて、知ってる?」
「あー、何かガリレオとか載ってる本に載ってた。」

「彼は、時間の進み方が場所によって違うってことを計算だけで発見したんだよ。光の速さくらいスピードを出してる宇宙船の中は時間の進み方がゆっくりになるんだって。」
「へー。」

今度会った時、彼が何の話をしてくるか、楽しみである。その日まで、私は、北極の夕日を見ておくことにした。北極に行かなくとも見られるのは、とても便利である。

【ビデオ】夕日を眺めて10時間―北極圏の壮観な光景

(2012/7/20記)
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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第五章 ディオニシウス・アレオパギタ」(p91〜109)を読みました。

《以下引用(p94)》
「すべては神の美から造られ、その中にある」とディオニシウス(ca 5〜6世紀)は言う。あなたも例外ではない。神はあなたの中に、あなたは神の中にいる。神の美が究極の原因であり、すべてのものの目標なのだ。しかもその美をあなたは自分自身の内側に持っている。従って、あなた自身が究極の目標なのだ。これはよく理解されねばならない。どんな人も、いつの日か神の美へと帰ってゆく。究極の原因であり、目標である神の美の中に造られたものが、その他のどこに永遠の安らぎの場など見い出し得よう。
《引用終り》

「ディオニシウス」でブログ内検索をしましたら、「龍樹」(中村元 著)からの引用部で見つけました。

wikiで調べましたら、3人のディオニシウスが混同されていた時期もあったようです。龍樹に関しても、数々の功績があるけれども同一人かどうかは分からないということのようです。

ディオニシウスは、『天上位階論』で、天使の世界の九つの位階について述べているとのこと。仏教にも悟りの階梯のような考え方があります。

別々に発生しても似た内容になってしまうものなのか、真実はひとつということなのか、互いに影響しあっていたのか…これは、ロマンをかきたてられるところでもあります。

《インデックス》

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「ちょうどなど、ない。ちょうどにするのです。」(p154〜165)を読みました。(小林教室収蔵

「先生、ちょうどの学習かどうか、どうしたらわかりますか」という質問に対して、斉田先生は答えたそうです。
「ちょうどなど、ない。ちょうどにするのです。」

《以下引用(p155)》
生徒が知らせるのは学習がむずかしい、くるしい、やさしすぎてかったるいといった兆候だけである。この兆候を見れば、生徒がいまの学習を順調に進めていないだろうということはわかる。しかし、「ちょうどの学習」がどこにあるか、何が「ちょうど」なのか、これを教えてくれることはない。

斉田先生はどうするか。教材から聞く。教材に表れたまちがい、そして、その訂正、また、これをふくんだ教材学習にかかった時間、さらに生徒の学習態度の形成の仕方というシンプルな兆候を見る。しかし、これはあくまで兆候にしかすぎない。生徒を呼んで、直接、指導して、そのときの生徒の学習への向かい方を看る。「ちょうどでない学習」にある生徒をまえにして、斉田先生はどこにその原因があるのか、何が不足しているために「ちょうどでない学習」になっているのかを究明する。この究明は指導者がしかけることによって浮き出るものである。見ているだけでは表れない。そして、自学自習が可能になるまで指導を徹底する。いわば、生徒の「ちょうどでない学習」を、「ちょうどにする」のである。こうした指導のなかで、生徒の「ちょうど」が見えてくる。
《引用終り》

「成らぬは人の為さぬなりけり(上杉鷹山)」とか「鳴かぬなら鳴かせて見せよう(豊臣秀吉)」を思い出したのですが、こういう能動的な意気がなければダメですよね。「ちょうど」が自然に訪れるのを待っているようでは指導者とは言えない。家康も積極的に画策していたわけで、ただ待って成功したわけではない。

おっと、戦国時代の話ではありませんでした。次回は教育理論…。

《インデックス》

げいこう:LI20(大腸経

〈取穴〉:鼻孔の外5分、鼻唇溝中に取る。
〈標準〉:顔面部、鼻唇溝中、鼻翼外縁の中点と同じ高さ。

〈筋肉〉:上唇鼻翼挙筋、上唇挙筋、小頬骨筋。

〈運動神経〉:顔面神経。
〈知覚神経〉:上顎神経。

〈血管〉:眼角動脈。

〈主治〉:鼻の諸疾患、顔面神経麻痺、三叉神経痛。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」

「新・ヒトの解剖」の「解剖の秘密」(p8〜28)を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用(p26)》
解剖実習室の扉をあけると、そこにはシートにおおわれた数十体の遺体が、防腐液の臭いがよどむ部屋のなかに無言で横たわっている。

そのうちの一体に近づき、黙祷をささげてから静かにシートをとり、ビニールとさらしの布をとりさる。そこには、一糸まとわない遺体が横たわっている。人体解剖の経験がない一般の人たちのなかには、解剖台に横たわる人体から、ヌードのようななま肌や、逆に、轢死体のようなむごい姿を想像するむきもあろうが、現実は、黄褐色の皮(皮膚)におおわれた埋もれ木を見るような感じである。…

解剖をやりはじめたばかりのころは、作業がおわると、ブラシと石鹸で、ていねいになんども手を洗い、それでも臭いがのこっているようで(それはおもにゴム手袋の臭いである)、おちつかないものだが、場数をふむと、さっと手を洗ったくらいですますようになる。
《引用終り》

私たちが行った実習は、東北大歯学部で行われている解剖実習の間に、ちょっとだけいじらせていただいたものでしたから、回数も少ないし、ピンセットやメスで筋肉を少し切り取ってみるくらいのもので、切り開いてあるものを取り出して解剖の本と照らし合わせるのが主な作業でした。

医学部や歯学部での実習では、徹夜に近い状態で遺体のスケッチに明け暮れると聞きました。そうやって「場数をふむと」遺体を前にして、コンビニの弁当も平気で食べられるようになるそうです。

何とコメントしていいか、分からない話でした。

《インデックス》

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J教材の200番まで終わりました。

181番からは恒等式・等式、191番からは等式・不等式のそれぞれ証明問題です。

これぞ数学!という感じの問題群です。「証明問題が好きな人こそ、本当に数学が好きな人」というようなことがよく言われますが、こういった問題群を解くと「三角形の合同」なんて証明問題と言えるのか?くらいのインパクト(面白さ)がありますね。

主なテクニックはだいたい取り上げられていると思います。相加相乗平均による証明は、学生時代は騙されたような気がして釈然としないながらもやっていましたが、今はそうでもなくなりました。

世間に揉まれて分かるようになるということが、数学についても言えるのかもしれません。

【グラス片手に大人の公文】数学〔J-200〕

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「ちょうどの学習×ちょうどにする指導」の「これからの教室はどう創るか」(p133〜228)の「幼児教育は幼児期だけのものか」(p145〜154)を読みました。(小林教室収蔵

前回紹介した斉田先生の幼児教室ですが、幼児だからといって特別扱いをしているところがないようです。

《以下引用(p146)》
相手は幼児である。必要なだけ準備がないならば、教材の学習をすることはできない。ふつうの生徒と事情は変わらない。こうした学びの場の掟を教えてでもいるのであろうか。幼児だからといって、これに合わせた幼児教育はしない。学ぶ場への狭き門をくぐろうとするものは、それなりの準備をととのえなければならないのだ。楽しみながら学ぶとか、幼児には幼児らしい行儀作法などをしつけるといった雰囲気はまったくないのだ。ここの幼児教室は子どもをあやす場所ではない。生活に合わせるのではなく、幼児指導から逆に幼児の生活を築きあげようとしている。

こう書くと、なんと殺風景な、と思う方がいるかもしれない。しかし、じっさいは、熱気いっぱいの、じつに活気のある、たのしい教室である。泣く子はいないし、そんな暇などない。年長の子が全体をリードしていく。もし子どもたちだけで遊ぶようにさせたら、こうなるのではないかとも思うような場の雰囲気なのだ。
《引用終り》

幼児教育は、幼稚なレベルに合わせた教育でなければならないのでしょうか?

《以下引用(p148)》
幼児には幼児にふさわしい教育をとなれば、幼児の可能性は閉じられてしまうのではないか。どこまで導こうといった意志が指導する側にないからである。障害児の教育においても事情は同じである。幼児指導や障害児のあつかいを得意とされる人たちほど、失礼ながら、学ぶことより、身辺自立を優先したがるのだ。そのため、その幼児の能力の可能性を見ることなく、幼児に合わせて、教材以外のあれこれを用意したり、教具を作ったりして、シンプルさを失って、複雑な働きかけにおちいる傾向、なきにしもあらず、なのだ。なぜ複雑になるかといえば、大人の考えがそこに入るからである。幼児であれ、ハンディをかかえる子であれ、ひらがなや漢字、足し算引き算の学習の世界への道筋を見出す方向へ指導はさだめるべきなのだ。そうしないため、肝心の学ぶほうはといえば、かえってその発達がそがれる結果になる。甘えるし、すこしの困難にも耐えられない。もちろん、幼児はそのまま学ぶ主体になるものではない。しかし、主体があって場を作るのではなく、場を作りながら主体は発見されていくのである。
《引用終り》

「子どもの主体性を大切にする」という名のもとに、幼児教育に限らず、同じ間違いをしている犯しているような気もします。

《インデックス》

かりょう:LI19(大腸経

〈取穴〉:水溝の外5分に取る。
〈標準〉:顔面部、人中溝中点と同じ高さ、鼻孔外縁の下方。

〈筋肉〉:口輪筋。

〈運動神経〉:顔面神経。
〈知覚神経〉:上顎神経。

〈血管〉:上唇動脈。

〈主治〉:鼻の諸疾患、顔面神経麻痺、三叉神経痛。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」

2000円コースの構成例
〔1〕触察のみ:触察(35分)
〔2〕鍼か灸か:触察(33分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(31分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1743円 (前月比−7円)
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・人数に関わらず:194円 (前月比+23円)

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.6は6月のものです。
※当院の価格に対する考え方はこちら

・8月の価格

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「神秘主義の人間学」(法蔵館)「第四章 十字架の聖ヨハネ」(p71〜90)を読みました。

《以下引用(p85)》
知覚の世界に対して目を閉じ、観想のうちに自己の内奥に入って行くと、初めてそこは広漠たる闇だ。そればかりか様々な思考と記憶が錯綜する闇の巣窟であるだろう。しかしそれらのものから能う限り離れ、内的無為のうちに魂の内奥に隠された至高の宝所に向かって進むべきである。…

(p86)…神を見ようとする人は自分自身闇と化してしまうのだ。さらに観想の深まりにおいては、肉体と魂の間にある調和が掻き乱され、魂は暗闇の深淵(黒暗無明の深坑)に飲み込まれ、肉体から解き放たれてしまうような恐れがある。ここに死を感じとった魂は、その恐怖故に身を翻えそうとする。このように神との出会いは人間が遭遇する最大のカタストロフィーなのだ。

…「壮絶な抗争は闇の中で行われた」というのも、人間が自分の存在のすべてをかけて神の挑戦を退け、神から背を向けようとするのは、神と人間は並び立つことができないということ、つまり神を見ると魂は肉体から解き放たれ、自我は死んでしまうのだ。…これが二人の主に仕えることができないという本来の意味である…
《引用終り》

そして、その暗闇の果てに…

《以下引用(p87)》
観想の暗夜において身を翻えすことなく暗闇に順応するとき、やがて(?)人は神の光が何であるかを知るようになる。…

観想の光が魂に惹き起こす神的歓喜(エクスタシー)は実に驚嘆すべきものであり、神のこれほどの恩寵を言い表す言葉はない。しかしこの照明が如何に優れたものであろうとも、これは魂に何かを付け加えるのではなく、魂がすでに所有しているものを明るみに出し、神において享受するまでのこと。…魂はその本質を変えることなく神の如く見える(deficatio)。魂の内奥に輝く神の美を見るや、魂はこの美に吸収され、この美によって、富されるからだ。そして「私の美はあなたの美、あなたの美は私の美」と聖ヨハネが言うように、自ら移ろう美ではなく、美そのものとなっているのだ。
《引用終り》

アウグスチヌスの章での描写と比較してみて下さい。

《インデックス》

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