トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2012年04月

「新・人体の矛盾」の「9 胎盤の出現」を読みました。(小林教室収蔵

単孔類(カモノハシ、ハリモグラなど)と有袋類(カンガルー、コアラなど)は、卵生と胎生の間をうめるような、原始的な哺乳類です。

単孔類は哺乳類でありながら卵を産みますが、乳を与えて子どもを育てます。カモノハシは地下にトンネルを掘って巣を作り、ここに卵を産みます。ハリモグラの方は腹に袋があって、この中で卵をかえします。生殖方法は爬虫類と変わりません。

単孔類は、最初の原始哺乳類である原獣類の生き残りと考えられています。原獣類から有袋類と有胎盤類(ヒトを含む)が進化しました。

有袋類の雌の生殖器官は変わっていて、卵巣や卵管はもちろんのこと、子宮と膣までが左右に二つあります。二つの子宮はその基部で一部が連結しており、この部分から第三の膣ができています。左右の二つは雄のペニスが挿入され精子の通路となり、真ん中の一つは産道専用です。

余談になりますが、ある男性医師が「膣は入口」と表現したのに対し、ある女性医師が「それは男性目線であり極めて不愉快。私たち女性からすれば膣は出口である」と猛反発したという話を思い出しました。有袋類に関しては膣は一方通行ですから、この点でもめる心配は無いようです。

ヒトのように左右が合体した子宮と膣にならなかったのは、腎臓から膀胱へと連絡している尿管が左右の膣の間を通っているからではないかと考えられます。ヒトをはじめとする有胎盤類では、尿管が生殖管の外側にあるのです。

有袋類はたいへんな早産です。目が未分化であり、顎も頬もなく、肺は単純なのっぺりした袋なので呼吸の大半は皮膚呼吸です。これは胎盤の発達が悪いためだと考えられます。卵生の名残である卵殻膜が胎盤の発達を妨げているため、胎児に充分な栄養を与えられないようなのです。

栄養不足に耐えられなくなり、唯一発達している前足を使って、母親の袋まではい上がり、オッパイを吸おうとするのです。

《つづく》
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L教材の160番まで終わりました。

『杜甫』は「国破れて山河在り…」の人です。

当時の中国の知識人は、科挙を受けて官職に就き、政治の世界で活躍することを志しました。しかし合格できない場合は、時の有力者からの推薦してもらうしかありません。そこで、有力者に詩を贈るというのが流行っていたようです。杜甫もそういう人の一人でした。

しかし、低い官職には就くことができたものの、青雲の志を満足するような職に恵まれることはなく、安史の乱に巻き込まれ家族とも離れ離れの生活をおくったりします。そんな境遇を嘆いている詩が多いようです。

ただ、そんな苦労をしたから歴史に残る詩を作ることができたと言うこともできます。生前の栄誉と後世の栄誉と、選べるとしたらどちらを選んだことでしょうか。

『柳宗元』は学生時代に読んだかどうかわかりません。

この人は科挙に21歳で合格した秀才。順調に出世しますが、権力争いに敗れて永州に左遷されます。この永州はとんでもない僻地でしたが、自然が素晴らしい。この自然の美しさを文章で記述しています。

形式が自由な古文で書かれていて、美しい風景を詩的に表すというよりは、大きさを数字で表したりして地形をそのまま書いています。現代の観光ガイドに近い文章です。

客観的な描写ばかりかと思っていたら、哲学的な思索も書かれています。創造主たる天はあるやなしや。

このように美しい自然を国家の中心に創らずに、その有難味も分からないような蛮族が住む辺境の地に創るのは、天が存在するならば辻褄が合わない…というような思考パターンです。

哲学的水準は低いですね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-160〕
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「自己認識への道」(法蔵館)

興味深い記述がたくさんありましたので、後半は細かく区切って引用させていただきました。今回で読了とします。

二つになったわれわれ人間がそのプロセスを逆修して一つに帰っていくこと、それが悟りということになるかと思います。

二つになるということは男と女に限らず、長い短い、黒い白い、高い低い、いろいろな座標軸が考えられます。前に読んだ『中論』の縁起説がこのようなことを話題にしていたと思います。「浄に依存しないと不浄は存在しない」というような論理展開で、一つの座標軸上で相対立していることが縁起だというようなこと。

つまり、無数にこのような座標軸は考えられるのでありまして、私たちは無数の「一つ」を「二つ」にして存在していることになります。性という座標軸は、少なくとも『中論』の中では one of them として扱われているようです。これに慣れ親しんだ形で今まで仏教を考えてきましたので、性という座標軸を殊更取り立てることに若干戸惑いはあります。

ただ、確かに性の違いのもとに人間(の肉体的部分)は生まれるわけですから、男−女の座標軸が最も大きな根本的なものと考えることは何ら不自然ではありません。

《以下引用》
しかし幸いにも、男と女を一つにし、性を超えることができたら生死はもちろん、善悪、愛憎、美醜、因果……すべての二元性を超えて一元性の世界へと帰って行く。なぜなら、性こそあらゆる二元性の根源であるから、性を超える時、人はすべての二元葛藤から自由になるのだ。つまり、「二つのものを一つにする」時、われわれはそこから流出してきた本来の場所、すなわち幸・不幸をも超えた至福の源泉(プレーローマ)へと帰りゆくのだ。
《引用終わり》

ユングの『賢者の薔薇園』の第十図〈新生〉もこのことを意味しているという指摘も、興味深いのでメモっておきます。

劉一明の「凡夫の道」と「仙仏の道」の話も興味深いのですが、この次に読もうとしています『神秘主義の人間学』で取り上げることにしたいと思います。

以前書きました夫婦という立体感というのを思い出しまして、読み直してみました。

いろいろな二元性の座標軸が混在するこの世界は、立体的な世界と見做すことができます。それを感じ取るには、目が二つあるように、耳が二つあるように、少し距離を置いた二点間で観測することが必要です。

夫婦とは男−女の座標軸上で「少し距離を置いた二点」と言えます。二元性の世界を、二元性を保ちながら(凡夫のまま)生きる上では理想的な形態のひとつなのかもしれません。

《最初から読む》
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GV1:長強
GV2:腰兪
GV3:腰陽関
GV4:命門
GV5:懸枢
GV6:脊中
GV7:中枢
GV8:筋縮
GV9:至陽
GV10:霊台
GV11:神道
GV12:身柱
GV13:陶道
GV14:大椎
GV15:あ門
GV16:風府
GV17:脳戸
GV18:強間
GV19:後頂
GV20:百会
GV21:前頂
GV22:しん会
GV23:上星
GV24:神庭
GV25:素りょう
GV26:水溝
GV27:兌端
GV28:齦交

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「3、自信と余裕がない(1988〜1993)」の「5 学年を越えても自習で進む突破口」を読みました。(小林教室収蔵

「自信がつき余裕ができ、高校進学後学校で特別できるようになる」。そのためには「学年を大きく越えて進むことを可能にする突破口」が必要である。高校で余裕をもった生活をおくり、特別にできるようにするための学習において、その過程では、多くの困難がある。そうした困難にぶつかったときに突破口となる力をつけておく必要がある。

《以下引用》
数学は当然ながら、「計算力」が大事である。数と数、式と式だけで考える感覚を十分に身につけていなければ、高校では困る。最近では、分数のできない大学生がいると騒いでいるが、公は、分数だけの問題にしてはいけない、と思う。高校で必要になる最低限の計算力はもっと高いし、必要なのだ。

数学史を知っていることが高校で必要な力なのか。文章題を解く力が絶対にいるのか。三角形の証明問題が必須か。一つ一つ反省してみれば、ほんとうに必要な力が何か、わかってくる。不安になると、ますます人は余計なものをしたがる。しかし、肝心の計算力が不十分であっては、数学は学べない。新しい数学の課題を提示されたとして、計算力があれば、その課題を突破できる道もひらけるが、そうでなかった場合、すぐに学ぶことを投げてしまう。これでは、高校での数学など、できはしないのだ。
《引用終わり》

中学の時、数学の宿題は必ず三角形の証明問題が一題出されました。私も得意でしたから、結構楽しんでやっていたような気がします。論理的に記述して解いていく、これぞ数学の真骨頂なのだろうと思っていました。

でも、これはパズル的な数学であって、少なくとも真骨頂というところからは外れていると思います。図形は解析幾何で解くのがやはり数学っぽいでしょう。

もちろん、三角形の証明問題が不要だと言うわけではありません。高校受験では必ず配点の大きな設問として出題されるようですから、受験勉強には欠かせませんし、論理的思考は鍛えられるでしょう。ただ、数学の中では極めて汎用性の低い、特殊なテクニック(解法)だと思います。

《つづく》
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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「3、自信と余裕がない(1988〜1993)」の「5 学年を越えても自習で進む突破口」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
受験指南だけが目的なら、なにも計算だけ国語力だけにしがみつかなくてもいい。現在の学年の分だけを根ほり葉ほり、教えていけばいいのだ。偏差値はそうした努力の量にあわせて上がるだろうし、内申点もよくなるはずである。…

しかし、そうして高校へいけば、一人脱落、また一人あきらめて、挫折のなかで、「ただの人」の進路をとっていくのである。じつは、ここにこそ、普通教育と高等教育という複線教育が仕組んだワナがあるのだが、子どもたちにはこれが見抜けない。親でさえそう思わないのだから、当然である。成績があがらないのは、自分の努力不足、生まれつきだと思う。

公が高校の内容を教材にしたのには、当たり前と思われていたこの複線教育への挑戦という意味もあったはずだ。なにも全員が東大に行けというのではない。国立大学へ全員合格など、一言も公は言っていない。大学入試ぐらい、何でもないほどの力をつけて、そして、東大には行かない、これでも結構である。
《引用終わり》

この複線教育という構造は、私の場合、公文式に出会って初めて分かりました。公文式でも今は使わなくなりましたが、Iラインのグラフを見ると一目瞭然なのです。Iラインと並んで学年相当のライン(直線)が描いてあったのですが、この直線の勾配が高校に入ると突然急になるのです。つまり、義務教育と高校からの教育はペースが全然違うのです。それまでと同じペース・方法でやっていたら絶対に間に合わないのです。

結局、私も、自分が入った高校が自分にはレベルが高過ぎたのだろうか?とか、まだ努力が足りないのだろうか?とか、訳が分からないまま三年間が過ぎていました。

このIラインは、幼稚園から高校卒業までを同じペースで勉強することを想定して、決めたもののようです。幼児から高校入学まで緩やかで、高校に入ると急勾配になる学年相当のラインの、始点(幼児期)と終点(高校卒業)を直線で結んだもの。

小林教室では、進度の目安として、今も使っております。

《つづく》
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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

「性」の別は、単に自分が持っていないものに対する求心力以上の意味があります。それは「死」が関わってくることです。

《以下引用》
さらに性の分裂は、決して看過することを許さないもっと重要な意味を含んでいた。それは性が人間に死の運命を与えたことである。男女両性具有の完全な人間が二つの性に分裂した結果、それに続くすべての人間が死の支配下に置かれることになるなどと誰が一体予想し得たであろうか。禁断の木の誡めに遵って人間は性に目覚めるべきでなかったのかも知れない。しかし、人間はこの最も哀切な営みから生まれ出たものであり、人間はそこで悩み、挫折しようとも常に喜びと信頼をこの性の中に求めてきたが、その性が人間に死の運命を担わせることの矛盾、どうしても避けることのできない死が何を結果するかを人は知らなくとも、人間に死の運命を与えたものが性(の分裂)であったということは明確に心に留めておかねばならない。性は人間の生命の根源であるとともに、また死の根源でもあるのだ。

イエスのアポクリュフォンはこの分裂の中に死んだ男と女を再び統合し、性の分離を解消することによって、もはや死を味わうことのない永遠のいのちへとわれわれを連れ戻そうとしていることなど人は知る由もない。ここで人は「死者の復活」が性の分裂とその統合に重ね合わせられていることにはっきりと気づくべきである。

あなたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが男と女を一つにして、男を男でないように、女を女でないようにするならば、……そのときあなたがたは神の国に入るであろう。(『トマスの福音書』22)
《引用終わり》

以前にも同様のことを書きましたが、球体だった受精卵がしだいに身体の形をなしていく過程で、全く同じDNAを持った夥しい数の「自分」がアポトーシスしていくわけです。しかし、それは輝かしい成長であって、「死」だとは誰も捉えません。

有性生殖は自分の子孫のDNAパターンのバリエーションを増やして、環境への適応を図る営みでもあります。環境に適応できない子孫が死滅することで、そのDNAパターンを抹消し、適応できるパターンだけが残存することに寄与する…これも「種」を守るためのアポトーシスのようにも見えます。

このような生物学的な「死」、アポトーシス。肉体的な「死」にもいろいろあるようです。

《つづく》
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ぎんこう:GV28(督脈

〈取穴〉:前正中線上で、上唇小帯の直下(歯肉付着部)に取る。
〈標準〉:顔面部、上歯齦、上唇小帯の接合部。



〈筋肉〉:

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:上顎神経。

〈血管〉:前上歯槽動脈。

〈主治〉:唇炎、歯肉炎、歯痛、口臭。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」
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「新・人体の矛盾」の「9 胎盤の出現」を読みました。(小林教室収蔵

爬虫類が陸上動物として独立するためには、炭酸カルシウムの結晶でできた固い殻に包まれた、水との縁を断ち切った卵が必要でした。この卵の構造は、鳥類の場合とほとんど変わりがないようです。つまり、我々にとっては一番なじみのあるニワトリの卵をイメージすればいいわけです。

卵黄と卵白があり、卵黄の上にある胚盤が成長して胎児となります。

母親の体内で作られる様子をニワトリの場合で見てみます。まず、卵巣の中の卵細胞自身が大量の卵黄を貯め込みます。こうして成熟した卵細胞は卵巣から排卵され、卵管にすくいとられたところで精子と出会えば受精することになります。受精の有無に関わらず、卵管を下り、そこを進むうちに卵白が添加されます。ついで、その上に殻が分泌されて完成となり、産み落とされます。胚盤と卵黄は、巨大な一個の細胞です。

胎児は、老廃物の貯蔵場所となる尿膜を腹に付けて成長します。老廃物のアンモニアは毒性が強く、尿素は毒性は低くても分解してアンモニアに戻りやすいので、化学的に安定な尿酸の形でこの袋に貯蔵されます。

卵白は大部分が水で、少量のアルブミン(タンパク質)が溶けています。胎児が成長を始めると、卵白を急速に吸収して空洞ができ、成長するスペースが出来上がります。

卵殻には無数の空気穴が開いていて、尿膜(絨毛尿膜)がここにへばりつき、呼吸をしています。また、卵殻を溶かして胎児の骨格を作るために必要なカルシウムも運搬します。成長するにしたがって、殻は薄くなり、誕生時に簡単に突き破れるようになっていきます。

さて、ここから先は本書の内容から離れます。窒素代謝の結果発生するアンモニアを殻の中に保管しておくには、尿酸の形にするのが一番望ましい。ですから、このような卵を産む鳥類と爬虫類の尿は尿酸になるわけです。哺乳類、両生類、軟骨魚類の尿は尿素、硬骨魚類はアンモニアのまま排泄するそうです。

そして、我々人間の場合は、プリン体代謝の最終生成物として尿酸を産生します。尿酸は、ビタミンCと同等の抗酸化作用があるため、腎臓で再吸収され体内を循環します。強い運動をすると尿酸値が高まるようになっていますが、これは酸素を無毒化する必要性が高まるためと考えられます。

尿酸は痛風の原因物質でもありますから、排泄を促す必要もあります。尿酸が排泄される際は、尿酸ナトリウムや尿酸カリウムの形で排泄されますから、NaやKなどミネラル分を多く含んだ水分の補給が必要です。

《つづく》
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L教材の140番まで終わりました。

『世説新語』という書名は全く習った記憶が無いのですが、王昭君の悲しい運命とか、竹林の七賢人とかは頭にあるので、きっと習ったのでしょう。

儒教がしっかりと定着した社会の中で、それを皮肉ったりパロディのように扱ったりというのは文化が成熟したということだと思います。一番最初の引用文、「馬を問わず」で返す話はなかなか面白いと思いました。

儒教が余り好きではないので、この『世説新語』は気に入りました。

『李白』は「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」。これだけはしっかり覚えていました。でも、漢字が並んでいるのを目でなぞった記憶だけで、天にまで届くような長江をいつまでも眺めているイメージはやはり残っていません。漢文として勉強しただけであって、漢詩を鑑賞していたわけではないようです。

漢文と言えば返り点などが重視されていたようで、どこからか持ってきた一文を「書き下し文にせよ」という設問がたくさん並んでいるイメージがあります。公文式の場合は逆で、今回の教材では再読文字を書き下す問題がありますが最小限に抑えられていて、解釈・鑑賞が重視されているのが分かります。

古文の時もそうでしたが、現代国語で漢詩の鑑賞文を読んでいる形です。面白い構成だと思います。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-140〕
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