トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2012年03月

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第七章 単独者」を読みました。

グノーシスの宗教では、人間が存在する場所として、この世、中間、復活の三態が考えられているそうです。

《以下引用》
…復活には二つあることになる。一つは永遠のいのち(霊のからだ)に蘇り、本源の世界(プレーローマ)へと繋がる「第一の復活」であり、キリスト教(だけではないが)が勧めている真の意味における復活である。もう一つは、死はすべての終りと高を括っている愚か者も含め、死しても本源の世界(永遠の故郷)へと辿り着くことができず、無知ゆえに、真に悪しきものから「中間の場所」へと入って行く「第二の復活」である。
《引用終わり》

「復活」は解脱、「中間」は輪廻を繰り返している状態、と置き換えれば、インド哲学と同じになるかもしれません。

さらに、血肉のからだ(肉体)を脱ぎ捨てても、復活を成し遂げずに(つまり霊のからだを得ずに)中間世界を彷徨っているからだを考える必要があると指摘しています。

《以下引用》
人間はその本質において、霊的、心的、物質的の三種類に分かれて、存在するようになった。(『三部の教え』)

…現在のわれわれが知っているのは一番外側にあって物質からなる身体の次元である。その内側に心(魂)からなる身体(次元)がある。生と死、闇と光、神と悪魔、あらゆる二元対立はその中にあり、天国と地獄もその心に属している。肉体を脱ぎ捨てて「中間の場所」を彷徨う者はこの心からなる身体を纏っているのだ。そして、さらなる内側に究極の次元である霊からなる身体がある。それはもちろん、真理の身体(真なる肉)と呼んだものであり、完全に満たされたプレーローマの次元なのだ。その真理の身体はイエスの場合と同様、われわれが本来そうであったところの身体であり、真の復活を通してわれわれが再び回復することのできる身体と言ってもいいし、また世界(次元)と言ってもよい。そして、前の二つはいずれもこの真理の身体の模像であり、それらは真理の影、つまり幻影の世界をなしているのだ。
《引用終わり》

緻密な論理を積み上げた結果、霊とか魂に到達しました。

昔、オーラカメラをいじっていた頃、オーラの本も読みました。その時は、七つくらい自分の身体があって、重なっているというような考え方だったと思います。

でも、3つくらいで充分だと思います…

《つづく》

これまでの内容をまとめます。

普段の日常動作を、無駄に力を入れてやってみると、いいことがあるんじゃないだろうか?無駄な運動どころか、し「無」いと「駄」めな運動なんじゃないだろうか?というのが、そもそものスタートでありました。

まず、余計な力を入れるわけですから、ダイエットになると思われます。

昔の不便な生活では、こういう余計な力が必要とされたのではないだろうか?とも思いました。

仕事では一部の筋肉を酷使するでしょうから、そのアンバランスを是正することも期待できそうです。

体は放っておくと脆くなって、カロリーを節約し、それを脂肪として蓄えようとします。ですから、日常的に力を入れて、脆弱化を防ぐ必要があります

腰痛とかひざ痛とか、予防のための体操ということで筋肉を鍛える体操を薦められる場合があります。しかし、その時だけ力を入れても、日常的に力を入れなければ余り効果は期待できません

体に余計な力を入れると言うと、苦痛を伴うように思われるかもしれませんが、体を伸ばすのに似ていて結構気持ちがいいものです

力を入れるということに関連して、低周波治療器操体法について考察しました。

日常的に筋肉に力を入れておきますと、スタンバイ状態の筋肉になって、いざという時に「イタタタ」ということが起きにくくなります

ずっと座ったままとか、ずっと立ったままとか、動きが無い時も筋肉が痛くなることがあります。これは最も効率のよい姿勢(いわゆる正しい姿勢)を維持するよりも、姿勢のバリエーションを増やして、負担を分散させた方が良いと思います。そのためにも、日ごろからいろんな筋肉に力を入れる癖をつけておくのが良いと思います

このバリエーションを探す方法として、傾いてみることを紹介しました。

《最初から読む》

治療法が効く理由は、すべて解明されているわけではありません。解明されているようで、実は単なる仮説に過ぎないというのが殆どかもしれません。ただ、その仮説にも説得力の有るものと無いものがある…。操体法に関しては、よく分かりません。

操体法の考え方を改めて読ませていただいて、やはりよく分かりません。「からだの設計にミスはない」という本は以前読ませていただきましたが、解剖学等の勉強をすればするほど、人体は矛盾だらけで「失敗の進化史」だという捉え方のほうが自然だと思えるからです。

また、実際に治療してもらったことがありますが、「こっちとこっちでどっちに動かすのが気持ちいいか?」ということを何度も聞かれて、患者としてはそれを考えるのに疲れてしまうし、「反対に動かすと余計悪くなる」と言われてしまい、怖くなりました。そもそも「あなたの症状ならこっちに動かす方が気持ちいいはずだ」と治療師の側で言い当てるべきものなんじゃないかと疑問を持ってしまいました。

そんなわけで、基本的なやり方は教わったのですが、自分の治療には取り入れていません。ただ、効果を否定しているわけではありません。

ある筋肉に力を入れるとその拮抗筋の緊張が取れることがあって、これは神経を介した反射であると説明されているのを、以前読んだことがあります。操体法の効果は、例えばこの反射のようなメカニズムで説明するのがいいんじゃないかと思っています。

ところで、この筋肉に力を入れると拮抗筋の緊張が取れるということ…これはそのまんま筋トレでも期待できる効果だと思います。

《つづく》

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L教材の80番まで終わりました。

『荀子』は、諸子百家の集大成を為したと言われるだけあって、思想として緻密な感じがします。これに比べると、孔子・孟子の理論はスカスカな感じがして、後世何故あれほどメジャーになったのかがよく分かりません。スカスカな部分を好きなように肉付けする余地があったから多用されたのでしょうか?

論語では学の必要性を何度も訴えていますが、性善説ベースで説明されるよりも、『荀子』のように性悪説ベースで語られた方が説得力があります。

引用文の中で、「文る」を「かざる」と読んでいるところがあり、「文」を装飾の意味に解釈しているところがあります。私は今まで、文系理系というように、「文」と「理」を対極に置くことに納得できなくていたのですが、これでスッキリしました。一つの事実をより興味深い物語に飾っていくのが文系であり、そういった装飾をどんどん取り除いて本質だけを見究めようとするのが理系だということなのだと思います。

「青は藍より出でて藍より青し」の出典は『荀子』だったのですね。

そして、「矛盾」の出典が『韓非子』です。矛と盾を売り込む商人の話だとばかり思っていたのですが、本題は儒家に対する痛烈な批判だったのですね。

古代シナの論理思想は『荀子』において頂点となり、これに『韓非子』が矛盾律を加えることで完成したという解説文が引用されています。

両者の論理性の高さに比べると、孔孟の論理性の低さは歴然としており、何故「論語」などという名前なのかと不思議に思うほどです。

【グラス片手に大人の公文】国語〔L-080〕

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
自己認識が神認識である(キルケゴール、そしてスーフィズムの思想家イブン・アラビーなどが好んで引用する「自己を知るものは主(神)を知る」というハディースを踏まえた成句)とは、自分自身を知るというのではなく、あなたが無の中に消え去り、神と一つになることによって、自分が神以外の何ものでもなかったと知ることなのだ。…

自己認識への道をわれわれが辿るとき、その行き着いた結論が「自己自身を見出す者に、この世はふさわしくない」というのであれば、宗教がこの世に適応するためにあるのでないことだけは明らかである(私は宗教を自己認識に至る方法論を説くものと考えているから)。自己を認識するに至った完全な人間はもはやこの世には属していないだけではなく、生と死からなる幻影の世界を超えた永遠のいのち(まことのいのち)に到達している。
《引用終わり》

仏教を御葬式の作法としか捉えていない人にとっては、仏とは死んだ人のことでしかないでしょうから、「死んで仏になる」という言葉に何も違和感は感じないでしょう。私も仏教の勉強をするまではそうでした。

その場合、「即身成仏」という言葉がやはり引っかかります。死なないで仏になるというのは言語矛盾でしかないからです。

確かに、ちゃんとした仏教の中でも「即身成仏」に関する議論は続いているんでしょうけど、仏(真の覚者)になど何回生まれ変わってもなかなか成れるものではないという考えから、今生で仏になろうなんていうのはどうだろう?というのが論点なのだと思います。

ところで、「死」の意味が「大死」だとすれば、「死んで仏になる」というのはこれまた全く当たり前な意味でしかありません。

妄念の塊である仮我が死ぬということは、即ち悟りを開くということ(上の引用文で言えば「無の中に消え去」ること)。仏(ブッダ)になることにほかなりません。肉体的な死を意味するわけではないので、「即身成仏」という言葉にも特に引っかかるところはありません。

「死んで仏になる」という表現が、仏教を単なるお葬式の作法に誤解せしめているとしたら、とっても残念なことです。

《つづく》

しんえ:GV22(督脈

〈取穴〉:前正中線上で、百会の前3寸、前髪際の上2寸に取る。
〈標準〉:頭部、前正中線上、前髪際の後方2寸。



〈筋肉〉:帽状腱膜

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:眼窩上神経。

〈血管〉:眼窩上動脈。

〈主治〉:頭痛、めまい、鼻炎、不眠、高血圧。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」

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公文式に関して、よくいただく質問(FAQ)について、私なりに回答しています。事務局や、他の先生方や、私の妻が回答すればまた違った答えになると思いますので、その辺はおくみとりいただいてお読み下さい…

今回は、「可哀そうじゃないのか?」という質問です。「公文式にはいつごろから通わせるのがベストか?」と尋ねられると、最近は「赤ちゃんから」とお答えするのですが、そうすると大抵尋ねられるのがこの質問なわけです。

小さいうちは好きなように遊ばせてあげたい、せめて学校に入るまでは自由に…という気持ち、私も親ですから充分に分かるつもりです。でもこれは、就学前の幸せと、就学後の幸せと、親として子どもにどちらを贈りたいか、という選択なのだと思います。

人間は、おそらく、一番未完成の状態で生まれてくる動物だと思います。生まれてから完成されていく部分が他の動物と比べて一番多いということです。手とか足とか骨盤とか、生まれてから完成されていくのですが、脳も例外ではありません。

脳神経のネットワークは生まれてからも盛んに構築されていくわけで、「三つ子の魂百まで」と言われるように、脳の根幹部分は就学前に構築されるようです。ゆえに就学前の勉強が重要になってくるわけです。勉強に限らず、音楽や運動の能力も就学前が勝負のように最近は言われてきています。

こういった事実を踏まえると、就学前の数年間にこういった能力開発をさせないのは勿体ないと思うのです。

この時期に能力を高めておけば、余り勉強しなくても分かる、余り練習しなくてもピアノが弾ける、スポーツができる、という人になれるのです。

確かに、小さい子どもが楽しそうに遊んでいる姿はとても微笑ましいことです。しかし、物心つかないうちの楽しさよりも、物心ついてからの楽しさの方が、子どもとしても結局のところ幸せなのではないかと思うのです。

さらに言えば、勉強がつらいというのは大人の思い込みなのであって、子どもにとってつらいかどうかはわかりません。公文式の場合には、童謡を聴くことから始まって、カードを使って言葉を覚えたり、文字を覚えたり、数字を覚えたりします。大人の言っていることが、どんどんと分かるようになるのは楽しいことなはずです。

ものを覚えるのは、小さければ小さいほど実は楽しいはずなのです。「えっ!もうこんな言葉知ってるの?」「もう、こんな字が読めるの?」「漢字が書けるの!?」「九九が言えるの!?」と、小さければ小さいほど、大人は大袈裟に、演技でも御世辞でもなく、驚いてくれます。子どもとしては、こんな愉快なことはありません。ますます、勉強をします。そうして、余り勉強しなくても分かるようになれたなら、ずっとずっと楽しい学校生活がおくれるはずです。

逆に、ものを覚えるのが遅ければ遅いほど、勉強はつらいものとなるはずです。「えっ!○年生なのに、こんなこともわかんないの?」そうハッキリは言わなくても、大人は無意識にそんなリアクションをしてしまうし、そんなちょっとした素振りでも十分に子どもは傷つくものです。

こちらの方が可哀そうではないでしょうか?

《つづく》

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「3、自信と余裕がない(1988〜1993)」の「1 ちょうどのところは、いつでもある」を読みました。(小林教室収蔵

この時期から、幼児教育における歌の重要性を説くようになります。これは公会長が考え出した方法ではなくて、読書好きな子どもを育てた保護者たちの奇想天外なアプローチ法でした。

《以下引用》
じっさい、優秀児の母親たちはみごとに言葉の「インプット」をしていた。それは、乳児期からだけでなく、0歳児、いや、胎児からしていた、若いお母さんたちは涼しい顔をして言うのだった。
《引用終わり》

「education」の語源がラテン語の「E-DUC(ひきだす)」から来ているそうで、そのために教育は「ひきだす」ことであるとよく言われます。それに対して「input」は「詰め込み」という意味に聞こえますが、「詰め込み教育」という言葉には、いい響きはありません。しかし、何も蓄積されていない赤ちゃんの頭から何をひきだすというのか?まず、最初はインプットしなければいけないのではないか?

《以下引用》
知的教育への偏りすぎを批判する人は多い。しかし、ほんとうに、そうか。知的教育そのものに信をおかない時代の方こそ、おかしいのではないか。今の「知」の有り様に不信をもつのは正しい。それでも、わたしたちは「知」そのものについての考察から逃げてはいけない、と思う。

ふつうの親からふつうの子への働きかけ、ここに学んで、公はさっそく、「生まれたらすぐに歌を聞かせましょう」という標語をかかげるようにした。読書好きをつくるにも、自学自習力をつけるにも、まず「歌」のインプットが一番やりやすい。因果関係ははっきりしないが、どんな関係なのかは、やってみればわかる。幼児たちの反応に学べば、ここには想像もしなかった世界が広がる。
《引用終わり》

公文公氏の素晴らしいところは、まず現場重視ということ。そして現場で集めた「良い」情報はすぐに試してみる。それまでの積み上げとどんなに矛盾しようとも、「良い」ことは即実践する。理論は後からついてくるものだと分かっていても、人間ここまで鮮やな実践はなかなかできないものです。

その実践の結果、見えてきたものが以下のようにまとめられています。

《以下引用》
1.歌を200覚えたら、歌詞とメロディーを覚える能力が急成長する。
2.歌を50覚える過程で、知能障害が激減する。
3.歌を10曲覚えると、よだれが出なくなる。
4.生まれてからすぐに歌を5〜10曲聞かせると、一か月で好きな歌がわかる。
5.生後一年かからないで、歩き出すのが早くなるなど、運動神経が発達し、声もはっきりしてくる。
6.語いが豊かになり、読書が早くできるようになってくる。
7.情操教育よりも知能教育になる。(歌を覚えた結果より、その過程での脳細胞への刺激が大切)
8.ボケ老人にも利用できる。(100人中20人?は記憶喪失から救われる)
9.家族一同が“笑い女”と“笑い男”になって喜んでやる。
10.生まれる5か月前に始めることが大切である。
(『山彦112』1988)
《引用終わり》

《つづく》

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第六章 自己認識と神認識」を読みました。

《以下引用》
彼が言った、「主よ、泉のまわりには多くの人々がおりますが、泉の中には誰もおりません」。(『トマスの福音書』74)

生の源泉(本源)であるプレーローマの周りで人々は自らの個(自我)を保ちながら、多事に明け暮れ、あれこれと頭を突っ込んでは、しばらくは我を忘れて興じる。しかし、その中には誰もおりません、とイエスは言う。…それはただ単に、生の源泉に帰ろうとする人は多くないというだけではなく、その深遠を覗き込むことは、われわれの死(自我の死)を意味しているから、人は無意識の内にそこに帰ることを避けているというのが一つであり、実際、この始めが終りとなるプレーローマへと死のダイブをし、自己が消え去ることを許す勇気ある人しかそこに辿り着くことはできないから、当然の事ながら、そこには誰もおりませんということになる。
《引用終わり》

悟ろうと思えば、なお悟りは遠ざかる…悟りのパラドクス

成就しないことでその純粋が完結する純愛のジレンマにも似ています。

自己を失うことで実現する無自己実現

この失うべき自己(仮我)の消失を、禅では「大死」と呼んでいました

キリスト教でも同様の表現があるということですね。

いのちを救おうと思う者はそれを失い、いのちを失う者はそれを見いだすのです。人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。(『マタイの福音書』)

「ほんの一瞬でも、完全に自らを捨て去る人には、すべてが与えられるであろう」(エックハルト)

一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます…自分の命を愛するものはそれを失い、この世でその命を憎むものはそれを保って永遠のいのちに至るのです。(『ヨハネの福音書』)

等々…

《つづく》

2000円コースの構成例
〔1〕触察のみ:触察(35分)
〔2〕鍼か灸か:触察(33分)+鍼(4本)or 灸(4壮)
〔3〕鍼も灸も:触察(31分)+鍼(4本)+ 灸(4壮)

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で 1737円
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・人数に関わらず:261円

追加項目:
・鍼25円(1本)、灸25円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.3は1月のものです。
※当院の価格に対する考え方はこちら

・3月の価格

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