トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2012年01月

「新・人体の矛盾」の「7 耳の歴史」を読みました。(小林教室収蔵

これまで触れてきましたのは中耳が中心でしたが、耳の本体と言うべきところは内耳です。聴覚の蝸牛管と、平衡感覚の半規管・球形嚢・卵形嚢という部分から成っています。

魚には蝸牛管が無いのですが、聴覚が無いのではなく、球形嚢が聴覚も兼ねているようです。高等脊椎動物の蝸牛管は、そもそもこの袋の一部が伸びてできたもの。

ヒトの発生段階で、将来の外皮となる上皮から内耳が作られることから、魚類の側線器官がそもそもの由来と考えられます。

側線器官は体壁だけでなく頭にも配管されており、このなかの感覚細胞は、水の味、水流、水圧、振動、電流まで感知しています。耳であり、鼻であり、舌であり、皮膚なわけです。

水流の変化に合わせて、体の向きを瞬時に変えている魚の動きを見ていると、水流等を感じ取る側線器官と平衡感覚がくっついているのは、当然と言えます。

《つづく》

人間の体というのは飢餓状態を想定しているようで、常にエコ(省エネ)を目指しています。

私が一番ビックリしたのは、筋肉を減らそうとするらしいということ。筋肉はあるだけでカロリーを消費するので、なるべく少なくして脂肪に置き換えようとするのではないかと言われています。脂肪はカロリーを消費しないし、筋肉よりも(比重が)軽い。これは骨や軟骨・靱帯などの組織にも言えるようで、脆くなって軽くなろうとするらしい。

要するに、強い身体を作り維持するにはコストがかかるから、なるべく弱い体になろうとするのです。

さらに悪いことに、こうやって節約して捻出したエネルギーを蓄えようとします。脂肪の形でとにかく蓄えます。他の組織には軽量化を強いているくせに脂肪組織には上限がないようです。

それで、逆に体重が増えてくるわけですが、重くなると疲れるから動きたくなくなる。動かなければ食べなくても良さそうなものですが、食欲はなくならないようにできているようです。

身体は太ろう、太ろうとしています。太るのはその衝動に素直に応じているからなのです。

この衝動を食い止めるには、動かなければいけません。動く癖がつくと、身体もいつも動きやすいように血中や筋肉にエネルギーを配備するようになり、食欲が緩和します。脂肪を蓄えるスピードも遅くなります。動くことで、骨や軟骨・靱帯などの組織に衝撃が加わり、丈夫になろうとします。筋肉も必要だということになり、維持もしくは増えていきます。

健康な身体を作るには、飽くまで太ろうとする自分と闘う必要があります。

《つづく》

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K教材の160番まで終わりました。

『井筒』『忠度』『日本永代蔵』を読みました。時代は室町から江戸。

『井筒』『忠度』は、いずれも世阿弥謡曲の代表作ということです。足利義満など、将軍家をパトロンとして創り上げられた文化のようです。一般大衆を対象にしているわけではないでしょうから、マニアックに深淵に作りこまれているようです。

能は敷居が高いという印象がずっとあって、一生その深みなど分からないだろうと思っていましたが、教材は結構分かった気になれるように仕上がっていると思います。

音読してみると、その読みやすさはすぐに分かります。音の多様性や意味の多義性など、二重三重に重ねられた構成は凄いんですね…。ハマったら抜けられなくなりそうなくらい魅力がありそうです。

『日本永代蔵』も当然名前は知っていましたが、これほどのものとは思いませんでした。近世初期に富を築いた町人の例が30話あげてあるとのこと。教材では三井九郎右衛門の話が取り上げられています。今の三越ですね。

商売も一つの取引で大きな利益を上げることができなくなってきた時期(現在に酷似)に、九郎右衛門は売り場を大きく取り、現金取引で薄利多売にし、呉服の種類別に専門の店員を配置、しかも一反売りにこだわらず高級布地も切り売り可、急ぎの客にはその場で仕立てられるように裁縫する人も置いていたという…

九郎右衛門の知恵もさることながら、ビジネス成功の理由を分析して紹介しています。これが、1688年に成立していたというのですから、日本て凄い国だなとつくづく思いました。

今回、この教材を勉強して思い出したのが、サミュエル・スマイルズの「自助論」(1858年)。ヨーロッパで困難に負けず頑張って事業等で成功した人の話がたくさん紹介されている本です。明治維新直後に「西国立志編」として翻訳され、明治期の事業家たちはバイブルとして読んだと言われています。これと似た物が約二百年も前に日本に成立していたというのですから…すごいな。

【グラス片手に大人の公文】国語〔K-160〕

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第三章 隠れた宝」を読みました。

さて、いよいよ「私とは誰か」という最初の問に入っていくようです。

「生きる」ということを考え始めると、落ちるところまで気持ちは落ちていくし、そこで死ぬわけにもいかないとなると、どこかでふっ切って、その追求を保留にしなければ何ともなりません。

《以下引用》
気づいたらわれわれはこの世に存在していた。しかも、それはいつかは終る有限の生であると知る。ここから人間は「なぜ」と独り思考することを余儀なくされる。パスカルは、その時、彼を捉えた言いようのない不安を「誰が自分をそこに置いたのか、自分は何をしにそこに来たか、死ぬとどうなるかをも知らず、あらゆる認識を不可能にされているのを見るとき、私は眠っているあいだに荒れはてて怖ろしい島に連れてこられて、目覚めてみると、そこがどこかわからず、そこから脱出する手段もない人のような、恐怖におそわれる」と言った。わずか三十九年という短い生涯であったが、彼を死ぬまで悩ませたこの問題に粘り強く立ち向かう人は少ない。もちろん、そういう問があることを人は知らないわけではないが、それには容易に解答が見つからないために、いつしか忙しさの中で忘れ、波々として生を渡る。…

しかし、ナグ・ハマディ文書はそんな人間の無関心と怠慢をよそに、われわれ人間の出自はプレーローマ(充溢)であると言う。そして、プレーローマから流出した人間が行き着いたところが欠乏(貧困)からなる地の国、すなわち二元葛藤する幻影の世界であったのだ。
《引用終わり》

パスカルもそうだったとは、何だか自信が湧いてきそうです。

はて、プレーローマ、充溢とは何でしょう…

《つづく》

あもん:GV15(督脈

〈取穴〉:後正中線上で、項窩の中央、風府の下5分に取る。
〈標準〉:後頚部、後正中線上、第2頸椎棘突起上方の陥凹部。



〈筋肉〉:項靭帯、棘間筋

〈運動神経〉:脊髄神経後枝
〈知覚神経〉:頚神経後枝

〈血管〉:頚横動脈上行枝

〈主治〉:後頭痛、失語症、脳性麻痺、鼻血。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」

2012/01/08 18:46:13
以前から気になってますサザエさんの頭のシラミですが、東芝のテレビよりパナソニックの方が見えにくいことがわかりました。映像処理の違いでしょうね。


上のようなツイートをしましたら、「シラミ大好きの○○です。いろいろお話したいのですが、仕事の都合でツイッターを解約しなければならなくなりました。良かったらxxx@xxxx.xx.xxまでメール下さい」的な、以前にもブログに書いた的なダイレクトメッセージが何通も来るようになりました。

シラミって流行ってるんですか?

それとも、何かの暗号?麻薬か何か?

ツイッター続けられなくなるような仕事って、どんなヤバイ仕事?

あまりに怖くて、直接メールなんてできません。わかる方、教えて下さい。

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「現代ソフィスト伝」の第二部「四、学力の外にあらわれる個人差」の「1、教材が進んでも能力が広がらない(1983〜1985)」の「3 学力以外の能力の広がり」「4ちょうどの学習」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
「幼児で方程式」の生徒になれるため三歳以前の幼児教育として心がけるべきもの、また実行しやすい目標は、次のようなものでした。
‘鷓个了に漢字二百(かなも含む)
∋虻个了に磁石すうじ盤1〜100を三分以内
三歳の時に歌を百

公の幼児教育は、まったく幼児教育の名に値しないのか。幼児のうちからそんなにしなくてもと言われる「漢字カード」、盤の上に数字のコマを置くだけの「すうじ盤」、そして、「歌」である。…幼児教育に付き物の、情操の教育、人間性の陶冶といったものは何もない。世間の幼児教育の専門家がバカにするのもムリないかもしれない。…ここでもまた、公は「何を教えるかではなく、何を教えないか」の教育を実践している点に注意しなければならない。幼児の指導では、とくにこの点が肝要になる。余白をのこして、自学自習の遊びをひき出すのが幼児指導のコツなのだ。ゆめゆめ効率性などの問題ではない。

与えるものをできるだけ少なくシンプルにして、二学年先、三学年先に進んだときに見せる能力の発現、すなわち、そこに現われる「学力以外の能力の広がり」に向かって、公の幼児指導は展開していく。幼児教育に必要だといわれている全てをしようとする気持ちはさらさらなかった。
《引用終わり》

『「何を教えるかではなく、何を教えないか」の教育』という点と、『余白をのこして、自学自習の遊びをひき出す』という点ですが、幼児教育に限らず、今現在国語のK教材を解きながらもその配慮を感じます。

教えない内容、つまり余白を厳選している。教材を解いていると、その学習内容に興味が湧くように配慮されていて、教材にはない余白の部分が気になるようにできている。おのずとその方向にアンテナを張るようになるから、それに関連する情報を何気なく目にする、あるいは耳にする機会があったときにはすぐに吸収できるようになる…そんな気がします。

好奇心と作業力を育てることによって、自分の知識を自分で貪欲に補完していこうとさせる。この状態にあって人と接するならば、情操とか人間性は自然と身に着くのではないかと思います。(教室の子どもたちを見ていても、そう感じます)

というか、そもそも情操とか人間性って、外から意図的に働きかけて身につくものではないような気がしますが…。

《つづく》

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第二部 トマスの福音書 真知の覚―自己認識と神認識」の「第二章 神の国・地の国」を読みました。

《以下引用》
イエスが言った、「父の国は、荷物を持っていて、一つの真珠を見出した商人のようなものである。この商人は賢い。彼は荷物を売りはらい、自分のためにただ一つの真珠を買った。あなたがたもまた、衣蛾が近寄って食わず、虫が食いつくさぬ所に、朽ちず尽きることない宝を求めなさい」。(『トマスの福音書』76)

…イエスは、いずれわれわれは知識も物も人も全て後に残して一人旅立つことになる。その時われわれにとって本当に私のものと言えるのはわれわれ自身の内側に隠された、「朽ちず尽きることのない宝」だけであると言おうとしているのだ。…そしてイエスも言うように、「自分のために」というところが大切なのだ。宗教というと自分はさておき、他人を優先してと、ちっぽけな愛を振りかざす人がいるが、そうではない。…あなた自身が自らを整えない限り、あなたは何をやろうとも、無意識の内にこの地上に混乱とトラブルを持ち込むことになるからだ。
《引用終わり》

一見すると、イエスは真珠を買うことを薦めているようです。「真珠」とか「大きな富」というのは例えなわけで、われわれが自身の内に秘めた価値あるものを指している筈ですから、金銭的な価値ある物とは対極にある物なのですが、区別がつきにくい表現です。

しかし仏典でも、たとえば『如来蔵経』でも、「金塊」とか「宝蔵」という比喩を使っております。他の比喩というのはなかなか難しいのかもしれません。

《以下引用》
真珠はわれわれ自身の内側にある。…要は外側に向かっていたあなたの関心をあなた自身の内側へと向けさえすればいいのだ。道元はそれを「回光返照(えこうへんしょう)」と言い、「いかんが回光返照せずして、甘んじて宝を懐いて邦(この世)に迷うことをせん」と言った。内に隠された真珠(宝)を知りさえすれば、われわれは内にも外にも拡がる一なる世界(神の国)を知ることになる。この「一なるもの」こそわれわれが辿るべき道なのだ。
《引用終わり》

《つづく》

「新・人体の矛盾」の「7 耳の歴史」を読みました。(小林教室収蔵

「耳の中がけいれんしたことがある」という方の体験談。飛行機に乗って気圧が変化したあたりから耳が変で、何だかスッキリしないなーと思っていたら、突然「バタバタバタバタ」と物凄い音がするようになったとのこと。耳鼻科を受診したら「耳の痙攣」と言われた…。

これは、耳小骨についている筋肉の痙攣と思われます。

音を感じ取るのは鼓膜ですが、この振動は耳小骨に伝わります。耳小骨は、この振動を増幅して内耳に伝えるアンプのような装置です。ツチ骨、キヌタ骨、アブミ骨で構成されますが、てこの原理で増幅するというメカニカルな構造なのです。ツチ骨とアブミ骨には小さな筋肉が付いていて、これがボリュームの働きをしています。大きな音を聞いた後、しばらく耳が遠くなるのは、しぼったボリュームが元に戻るまでに少し時間がかかるから。

このアブミ骨筋は、絹糸の糸くずほどの大きさで、人体の中で最も小さい骨格筋だそうです。

爬虫類(両生類や鳥類も同じ)には耳小骨は一つしかなくて、哺乳類のアブミ骨に相当するものです。では、ツチ骨とキヌタ骨は何だったのか?というと、アゴの関節を構成している骨だったのだそうです。

爬虫類のアゴの構造は複雑なもので、哺乳類に移行する時、単純化するとともに力学的に合理的な構造に進化しました。この時、ツチ骨とキヌタ骨はあぶれてしまったんですね。

ところが、爬虫類は地面からアゴに伝わる振動を音として感じ取っていたので、アゴの骨は骨伝導による耳の働きもしていたわけです。アゴとしては失業してしまった2つの骨は、耳としての仕事に専念することになったわけです。

人間も骨伝導で音を感じ取ることができますが、コウモリやイルカは中耳と内耳が頭蓋骨から遊離しているので骨伝導の音は感じません。その代わりに、かれらは超音波を聞くことができるというわけです。

爬虫類時代には既に耳小骨をやっていたアブミ骨ですが、魚時代は舌顎骨だったようです。これは「さかなにはなぜしたがない」という絵本の紹介記事で触れたものです。

《つづく》

「運動不足なのでしょうね」と言うと、「仕事では動いているんだけどね」という答え。

「仕事と運動は違うということでしょうね…」と問題提起のつもりで言いましたら、「そうか、仕事と運動は別だよね!なるほど!」と、あっさり納得されてしまって、ズッコケたことがあります。

仕事と運動で何が違うのでしょうね…

これは仕事にもよると思うし、簡単な問題ではないです。だから、何かが隠れている、考える意味があるということなのですが。

下手なゴルフを揶揄して芝刈りと言いますが、草刈りだと仕事で、ゴルフだと運動になりますから、ややこしい。

仕事というのは、同じ動作の繰り返しが多いと考えられます。しかも、嫌でも続けなければいけない場合が多いです。

同じ動作を繰り返していると、つまりその作業に熟練してくると、動作に無駄が無くなってきます。力を入れやすい所だけを使うようになり、不必要なところには力を入れなくなります。効率化が進むわけで、これによって疲労を抑えることができるわけです。

使われる筋肉は鍛えられる一方、使われない筋肉は弱くなっていきます。これによって、一つの関節における筋肉の力関係が崩れてくると考えられます。これが、関節の破壊や変形を誘っているケースはあるんじゃないだろうか?

運動とは、この偏りを解消するものではないでしょうか?これは定義というよりも、運動に求められることなわけですが。

ともかく、仕事で動いていても、やはり運動は必要らしい、ということではあります。

《つづく》

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