トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年11月

ブログネタ
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「現代ソフィスト伝」の第二部「三、学習以前の問題」の「2、学習の見通しが立てられない(1978〜1980)」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
一般に、教育はできるだけ幅広く、十全なる基礎力を子どもにはあたえるべきだと考えられている。生活重視の実物教育も、労作教育も、総合教育も、子どもの全体を教育するという発想である。低年齢のときの教育は、かぎりなく自由にして、そして、ゆたかに、「ゆとり」を持って。物心ついたあたり、自覚が生まれるころから、少しずつ目標をしぼって、それぞれの具体的な目標のもとに計画的な教育をおこなう、自立をめざす教育のイメージがこれなのだ。こうした意味の広い基礎力と自由が、そして、愛情が、とくに幼児期、幼いころには必要だとされている。
《引用終わり》

まことしやかに聞こえるので、つい「うんうん」とうなづいてしまいそうな文言ですが…。

《以下引用》
しかし、この考え方はまやかしっぽい。子どもの実際の姿を見ない一方的なものだから、自由だ、自立だと言っても、かえって、不自由感がまといつく。公の考えは、富士山のように上にいくほど狭まるイメージとはむしろ逆である。なにもかもやることなど、もともと、できはしないのだ。幼児教育や初等教育では、むしろ、できるだけ基礎学力にしぼる。子どもに栄養となるものを、あれもこれもあたえるのではなく、何をしないかが大事な要諦なのだ。これがなくては先で困るものだけにして、そして、成長していくにつれて、初めて子ども自身の力で学習の可能性の領域を広げていく。先にいって専門のせまい領域に閉じ込めようとするのではない。そうではなく、むしろ、上にいけばいくほど、子どもを自由の荒野に解き放つ教育の形である。公の教育の仕方は、世間が考える方向といつも反対を走る。第二次性徴はなにも体の変化だけをいうのではない。異性に興味をもつのは、むしろ、子どもたちが異世界への関係性を求めている証拠ではないのか。こうした時期に、あてがった専門の選択をせまり、モノサシを当てた規範のなかに子どもを押し込めようとするのは、新たな関係のなかに見出そうとする子どもの成長、また、子どもの可能性の発現に、むしろストップをかける。
《引用終わり》

総合的な教育を目指した「ゆとり教育」の失敗は、こういうことなのかもしれません。漠然とした「あれもこれも」にこだわって、この先に必要になることをしないまま、小学校時代が、あるいは大切な幼児期が終わってしまう。これは、とても勿体ないことです。

《つづく》

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悟りへの道 に参加中!
「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第五 牧牛」を読みました。

《以下引用》
…思考と思考するものは同じ心であり、思考は思考するものであるのだ。

思考と思考するものの間にある見せかけの距離に欺かれ、思考を追い求めていくこと、それが欲望なのだ。そして生はどこまでも欲望の投影であり、その達成にこそ生の意味はあると見ているのであろうが、欲望の本質は今述べたように、心が生み出したものを心が追い求めるという矛盾なのだ。言うことが憚られるが、人間とは目の前に自分でぶら下げた人参を把えようとして走り続ける馬のようなものなのだ。
《引用終わり》

これに気づくことが「前思纔(わず)かに起これば、後念相い随う」であり、「止」ということなのでしょう。思考(妄想)が消えると、それを生み出していた心も妄りに動くことを息(や)め、無為寂静の本来の心に帰っていきます。

《以下引用》
真源を覚れば「本覚の真心」となり、たちまち六道・四生を出て、真実の自己(仏)に目覚め、迷えば「不覚の妄心」となって、三界虚妄の世界に沈淪する凡夫(衆生)となる。

「覚(さと)りに由(よ)るが故以(ゆえ)に真と成り、迷いに在るが故以に妄と為(な)る」
《引用終わり》

その境い目は紙一重…

《以下引用》
…心は、われわれが経験するあらゆる悲喜劇の創造者であるだけでなく、奇妙なことに、その悲喜劇に一喜一憂しているのもまた心なのだ。このように一切の境界はただ心が妄りに起こるがゆえに存在するのであって、決してその逆ではない。

「境に由って有なるにあらず、唯だ心より生ず」

だから第五「牧牛」では妄りに動く心(牛)をしっかりと捕え、ためらうことなく真源(心源)へと帰っていく様子が描かれているのだ。

「鼻索牢(つよ)く牽(ひ)いて、擬議を容(い)れざれ」
《引用終わり》

妄念を止めれば、心はおとなしくなって、真源へと帰っていく…

《以下引用》
従って、われわれは心あるいは欲望のからくりに気づき、妄動する心をあえて除こうとするのではなく、いわんや、追い駆けるのでもなく、善悪・凡聖など一切言わず、心の動きをひたすら観察するならば(時時に鞭索するならば)、心はその落ち着きどころを自ら見出して、その本源へと自然に消え去るのだ。

鞭索(べんさく) 時時 身を離れず
恐るらくは伊(かれ)が歩を縦(ほしいまま)にして埃塵(あいじん)に惹かれんことを
相い将(ひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和せり
羈鎖拘(きさこう)することなきも自(おのずか)ら人を逐(お)う
《引用終わり》

《つづく》

ちゅうすう:GV07(督脈

〈取穴〉:第10胸椎棘突起の下に取る。
〈標準〉:上背部、後正中線上、第10胸椎棘突起下方の陥凹部。



〈筋肉〉:棘上靭帯、棘間靭帯

〈交感神経〉:肝臓,脾臓,副腎髄質,胃腸管,膵臓,生殖器。
〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:胸神経後枝

〈血管〉:肋間動脈背枝

〈主治〉:腰背痛、胃痛、腹脹、食欲不振、黄疸、感冒。
〈特殊〉:視神経の調節作用

〈関連痛領域〉

参考文献1「経穴マップ」

貧乏人の負け惜しみかもしれないが、安い物を買うのは楽しい。

安い物を買うと、その物に対して寛大な気持ちになれる。

こんな値段で、ここまでできているんだから、まあいいか…

こんな値段なのに、こんなこともできるんだ!


高い物を買うと、こうはいかない。

こんな値段だったのに、こんな作りなの?

こんな値段だったのに、これしかできねぇの?


物に対して、徹底的に冷たい自分がいる。

奮発して、フトコロも貧しくなった上に、心まで貧しくなったような気がする。


だから、安物買いはうれしい。

安物買いは楽しい。

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J教材の180番まで終わりました。予定ではとうにK教材に入ってる頃なのですが…。

『更級日記』は名前だけは知ってましたが、こんなに『源氏物語』への憧憬が深いものだったのですね。古典作品が読み継がれてきた様がよく分かります。

『今昔物語集』は芥川龍之介の『鼻』の題材になった話を取り上げています。芥川作品の方はI1教材で既に読んでいますから、すぐに思い出します。山本健吉氏の文章をもとに、二つの『鼻』が比較されています。

こういった古典を題材にした作品は読み比べをすると絶対面白いだろうな〜とは誰しも思うんでしょうけど、なかなか面倒でできないものです。教材として、芥川作品と、今昔版と、山本氏の解説とを揃えてくれるというのは心憎いまでの配慮だと思います。興味を持たせることに主眼をおいた教材作りをしているということがわかります。

今昔物語では、「機嫌をそこねて」という意味で「六借テ(むつかりて)」という言葉が出てきます。山形の方言で、機嫌を損ねることを「むつける」と言うのですが、語源はここにあるのかなと思いました。方言だとばかり思っていた言葉が古文の中に見つかるということは結構あって、それが古文を読む楽しみのひとつでもあります。

『栄花物語』は藤原道長の栄華を描いたものです。娘を三人とも后にしたこと、強いバックアップ(後見人)がいないと天皇とて何もできなかったという当時の摂関政治の実情がよく分かります。これは日本史の理解にも非常に役立ちますね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔J-180〕

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第四 得牛」を読みました。

《以下引用》
人が美しいものに心惹かれ、いとおしく思うのも、それが内なる真実の反映であるからに違いない。しかし、美の写しの定めとしていつかは滅び、土(humus)へと帰っていく。その悲しみをわれわれは何度も経験している。愛を求めた果てになお狂おしく、切ない思いに駆り立てられるのも、実は、反映の向こうに真実なるものを予感しながら、どうしても届き得なかったことからくる諦めにも似た虚しさからではなかろうか。地上の愛は、逆説ではあるが、その不完全さを知ることにあるのかも知れない。というのも、他者に求めた真実は、実は最も近いところで自分自身の内に有り、それを見出したときに初めてわれわれは愛すべきは、諭すべきは何かを知るのだ。…
《引用終わり》

人を愛する時、相手の内なる真実への思いであるならば、初めは純粋に美しいのかもしれません。でも、妄念としての心の性なのか、「真実」は形骸化し、ただそれを思うことだけに酔い、その人を獲得することだけに執着するようになる…「愛」を抱くものが妄念である以上、アガペーのようなものに止揚することは極めて稀だと思われます。ゆえに、仏教で「愛」は執着を意味します

同様の私見は、「不邪淫」とか「夫婦同性」とか「空海の風景」でも書いていますのでご覧下さい。

成就しない「愛」だけが真実のままでいられるとしたら…これは、消え去ることでしか真実の姿になれない「心」と全く同じ構造ですね。

《以下引用》
…広劫よりこのかた生死の苦海に沈淪してきた私が、その正体である妄動する輪廻の心をやっと捕えたところが「得牛」である。しかし、心(牛)を捕えてみたものの、妄動する心を繋ぎとめるのがやっとで、とても心を除くまでにはいたらない。

精神を竭(けつ)尽(じん)して 渠(かれ)を獲得す
心強くし力壮(さかん)にして 卒(にわ)かに除き難し

心は良くも悪くもありとあらゆる想念を生み出すプロジェクターのようなものであり、われわれは実際そこには存在しないにもかかわらず、スクリーン上に次々と現れる映像を見て、喜んだり悲しんだりと自らの心を乱しているのだ。さらに心は、上は天国から下は地獄まで「自心所現の幻境」に自ら迷い、一瞬たりとも落ち着くということがない。

有る時は纔(わず)かに高原の上(ほと)りに到り
又(ま)た煙雲の深処に入って居(きょ)す
《引用終わり》

それに対する思いが強いければ強いほど、それは力強く、
押さえようとすればするほど、それは暴れる…

《以下引用》
…心というものは二元性しか理解できない。しかもわれわれはずっと二元論的な思考方法に慣らされてきているために、どうしてもこの心から離れられないのだ。しかし、この心を除かない限り、対立二つながらの源である一元性の世界(法界一相)を知ることができない。そのためには妄りに動く執拗な心(頑心)を、一切の分別を挟むことなく注意深く観察すること(鞭楚)が必要なのだ。…

頑心は尚(な)お勇み、野性は猶(な)お存す
純和を欲得(ほっ)せば、必ず鞭(べん)楚(そ)を加えよ
《引用終わり》

この鞭楚が止観双修ということでしょうか…。

《つづく》

せきちゅう:GV06(督脈

〈取穴〉:第11胸椎棘突起の下に取る。
〈標準〉:上背部、後正中線上、第11胸椎棘突起下方の陥凹部。



〈筋肉〉:棘上靭帯、棘間靭帯

〈交感神経〉:脾臓,副腎髄質,胃腸管,腎臓,直腸,生殖器。
〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:胸神経後枝

〈血管〉:肋間動脈背枝

〈主治〉:腹脹、腸鳴、慢性下痢、胃下垂、腰背痛。
〈特殊〉:

〈関連痛領域〉大腰筋腸骨筋

参考文献1「経穴マップ」

うちの次女の精神力の凄さに驚かされることがよくあります。今回は…

15日夜に38.5度の熱を出しました。「頭が痛い」と言います。翌朝も熱が下がらない。「幼稚園は休むよね?」と言うと「皆勤賞欲しいから行く!」と泣き出す始末。一年皆勤の時も、二年皆勤の時も、「皆勤賞が欲しいために無理して幼稚園に来ることはしちゃダメよ…」と先生に言われているのですが、この人は全く気にしない。三年皆勤が絶対欲しい!

「じゃあ、仕方ないから幼稚園に着いたらすぐに『調子が悪い』と先生に言いなさいね」と言って、バスに乗せてやりました。ほどなく、幼稚園から電話。早過ぎるぞ!と思いながらも迎えに行きました。

実はこの前の日にお友達のNちゃんが「公文に興味がある」と言っていたということで(子ども同士の話なのでどこまで本当か分からないのですが…)無料体験の招待券を準備していました。次女は、いかにも具合悪そうにして車に乗り込むと「Nちゃんに渡して来たから」と言ったのです。

我々はそんなことすっかり忘れていたのですが、次女は幼稚園にちょっとだけ顔を出し、三年皆勤をつなぐのみならず、しっかり営業して帰ってきたのです。凄いぞ、わが娘!

その後、お医者さんに行き、扁桃腺が腫れているけど、溶連菌は検出されず、常在菌かヘルペスによるものだろうということで、抗生剤と抗ウイルス剤と解熱剤(○薬)を処方して頂きました。

16日の夜も熱が下がらなかったので、○薬をすべく、構えましたが、「嫌だ!」と猛烈に拒否。妻が添い寝をして寝込んだと思われる頃に何度もトライしたのですが、もう少しというところで目をパチリと開き悲鳴を上げます。まるで虐待…。

結局、未遂に終わりましたが、今朝(17日)は熱も下がりました。今日は来月初めにある発表会の衣装を着て撮影(前撮りですね)する日。次女としては休めません。

開封されたまま使われなかった○薬。次女の精神力の証です。

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先日の研修はとても楽しかったのですが、公文の先生方ならではのことだなと思ったことがひとつあります。

それは、話をする中で、「『ビルマの竪琴』の場合…」とか「夏目漱石の『こころ』では…」とか「宮本輝さんのヤモリがくぎで打ち付けられていた話で…」とか、本について語ることが多かったこと。

公文式では、すいせん図書というのがあります。難易度順に13のグレードがあって、それぞれ50冊ずつありますから、全部で650冊。上記の本は全てすいせん図書の中の一冊です。

650冊すべての内容が頭に入っていることはないにしても、教材の中に引用されている部分に関しては、公文の先生ならすぐにわかるはず。私もG教材からJ教材まで勉強してますから、本のことが話題になると「ああ、なるほど」と理解することができて、これがとても快感なのでした。

いずれ、娘たちを交えて、こんな話ができるようになったらいいな…なんて思っております。

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「自己認識への道」(法蔵館)
「第一部 廓庵の十牛図 悟りの階梯―真実の自己を求めて」の「第三 見牛」を読みました。

《以下引用》
…われわれは何よりまず心(今のところそれは妄心でしかないのだが)を捕え、それと取り組むことによって心の本源へと帰っていかねばならないのだ。そして、その心(牛)をわずかに捕えたところが第三「見牛」であり、牛が少し姿をのぞかせ、視界に現れた様子が描かれている。

ここで初めて人(私)と牛(心)が実際に出逢い、外に向かっていた姿勢を改め、自分自身と対峙することになるのだが(回光返照)、私もまた心が仮構した観念(五蘊の仮我)に過ぎないから、私の心でもって牛を捕まえる、つまり心でもって心を捕えようとしているのだ。第三「見牛」から第六「騎牛帰家」までに描かれている人・牛・境(自然)のすべては、心(妄心)が造り出したものであることはよく理解しておかなければならない。そして、他ならぬこの心が無始劫来生死の本であり、辿るべきは、この心を除き、その本源(真源)であると深く思いを定めて、ようやく悟りに向け、実践の道を歩み出した端緒が第三「見牛」なのである。…

黄(こう)鸎(おう)枝上 一声声
日暖かに風和して 岸柳青し
只だ此れ更に廻避する処無し
森森(しんしん)たる頭(ず)角(かく) 画(えが)けども成り難し
《引用終わり》

この世が「自心所現の幻境」ということであれば、見えたと思った頭角は、自分の(心の)影かもしれません。

影を追えば、影も逃げる。同じ速さで。それが自分の影とも知らず、追いかけっこはいつまでも続く。

《つづく》

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