トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年09月

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「真実の自己――無我の大我」を読みました。

《以下引用》
仏教が人類に呈示した教義の中で、最も特徴ある教えは無我(無自性・空)の思想であろう。存在するすべてのものには実体がなく、相互依存的に存在しているというものだ。
《引用終わり》

この教えの下、前回の仮我を消し去ることで、無我の大我となる。

《以下引用》
この大我はさらに「法界の大我」と表現されてくる。法界とは、人間はもとより存在するすべての本源(諸法の本源)であり、われわれが帰るべき生の源泉である。すると、大我とは万物と同根となった大いなる自己ということであり、宇宙に遍満し、すべてのすべてとなった自己を言う。この諸法の本源へと辿り着いて初めてわれわれは生死際なき迷いの世界を離れ、真の自由というものを手にするのだ。

仮我の狭い境界を超え、宇宙に遍満する「法界の大我」という考え方は、容易にイスラーム神秘主義の「普遍的人間(al-insan al-kamil)」を思い起こさせる。この考えを受けてルーミーは、人間を世俗的人間と霊的人間の二種類に分け、それぞれミクロコスモスとマクロコスモスを当てる。彼は「普遍的人間」をマクロコスモス、すなわち時間と空間を超えた存在と捉え、それをわれわれ人間が達成すべき「完全な人間」と見なしている。
《引用終わり》

イスラームの思想もなかなか興味深いです…。

《つづく》

れんせん:CV23(任脈

〈取穴〉:前正中線上で、喉頭隆起の上縁(舌骨上縁)の中央の陥凹部に取る。
〈標準〉:前頭部、前正中線上、喉頭隆起上方、舌骨の上方陥凹部に取る。

〈筋肉〉:胸骨舌骨筋、胸骨甲状筋

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:頚横神経

〈血管〉:上甲状腺動脈

〈主治〉:舌炎、流涎症、舌知覚や運動麻痺、失語症、咽頭炎、嗄声。
〈特殊〉:

参考文献1「経穴マップ」

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「真我と仮我」を読みました。

《以下引用》
色・受・想・行・識の五蘊から成り立っているわれわれの身心が本当の私ではないことを、空海は「五蘊の仮我」と呼んだ。…身体(肉体)も四大の仮和合であるなら、良くも悪くも妄りに心が生じ、感情、思考、意志、意識など何層にもわたって連なる観念(妄念)の巣窟を、われわれは自分とみなしているのだ。
《引用終わり》

心が妄念の塊だというのはいいとして、身の方をあやふやなものにする禅語「父母未生以前の本来の面目」が紹介されています。私も以前、同じようなこと考えてたみたいです。

《つづく》

てんとつ:CV22(任脈

〈取穴〉:前正中線上で、胸骨頚切痕の直上の陥凹部に取る。
〈標準〉:前胸部、前正中線上、胸骨上窩の中央。

〈筋肉〉:胸骨舌骨筋、胸骨甲状筋

〈運動神経〉:頚神経ワナ、副神経
〈知覚神経〉:頚横神経

〈血管〉:下甲状腺動脈

〈主治〉:咳嗽、喘息、咽頭炎、扁桃体炎、嗄声。
〈特殊〉:定喘去痰の常用穴

参考文献1「経穴マップ」

ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
くもんのすいせん図書(Dの2番)「車のいろは空のいろ 白いぼうし」の後半を読みました。(小林教室収蔵

解説を読んで気づきました。こういうお話をファンタジーというんですね。

著者あまんきみこさんによるあとがきが面白かったです。父母・祖父母・おば二人に一人っ子のきみこさんの7人家族で育ったとのこと。さぞ、可愛がられたことでしょう。

寝る前に、毎晩誰かからお話をしてもらっていたそうですが、祖父は偉人伝、祖母は民話、お母さんはあまえんぼで泣き虫の太郎か花子が主人公の即興話、上のおばさんはアンデルセンやグリム童話、下のおばさんは幽霊専門…と分野が決まっていたそうです。

「今日は誰の話を聞こうかな」と枕を片手に、廊下や階段で毎晩迷っていたとのこと。この時のわくわく感を大切に執筆されているそうです。

童話作家になるべくしてなったような方です。

私も、子ども相手に即興話をするのが、最近楽しいです。娘にはすっかり見透かされていて、嘘つきオヤジ呼ばわりされてますが。これでは童話作家の父にはなれないかな…。

《最初から読む》

14日、長女の誕生日でした。爺ちゃんも9月生まれなので、おとめ座の二人の誕生会をしました。




1月の次女の誕生日の時は、主役が熱を出してウンウン唸っておりまして、何も喉を通らなそうな感じでした。アイスなら食べられるかもしれないと思って、買ってきたのがサーティワンのアイス。冷えピタを額に貼って寝てましたから自動的にサプライズになったのですが、これが長女には羨ましかったらしい。

「ケーキはサーティワンのがいい」




サーティワンの店の人っていつも嬉しそうに対応して下さいます。それだけで、こちらまで少し幸せになった気分。早口でいろいろ説明して下さるのですが、笑顔に見とれてしまって余り耳に残りません。

「ケーキはどれがいい?」
「ローソクは何本にする?お爺ちゃんの分も要るかな?」
「メッセージカードは2枚にするね?」

お店の人の問いには、長女が全部答えていました。さすが7歳です。

「お支払いは、今なさいますか?それとも品物御受け取りの際になさいますか?」
それだけ私が答えました。

ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
『古文の読みかた』という本からの引用で、古文についての説明文を読みます。これが分かりやすくてビックリしました。古文は省略されているのだと言われて、目からウロコという感じでした。

今さら遅いのですが。

中学か高校の頃、つまり古文に初めて接する辺りに、こういう説明がなされていたんだろうか?この説明を聞いたら、自分も少しは古文に関心を持てたんじゃないか、と思います。

あと衝撃的だったのは、有島武郎の『小さき者へ』。父が自分の子どもたちにあてた手紙です。病死した妻にどうしてもっと優しく接してあげられなかったのかと悔いる内容、父を踏み台にして大きく羽ばたいて欲しいというような内容、じっくり読んだら泣いてしまうんじゃないかと思います。

パパさん必見の書ですね。

【グラス片手に大人の公文】国語〔i2-130〕

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「自己認識」を読みました。

主客の二元論的認識構造の中で、知識や経験を積み人から認められるようになったとしても、それは認識の対象(客)に当てはまる部分であって、認識の主体(主)であるあなた自身とは別の問題である。

《以下引用》
それはちょうど、たくさんのデータを詰め込まれたコンピューターが自分のことを知らないのに似ている。もちろんコンピューターがそれを知らなくとも一向に差し支えないし、またその必要もない。しかし、われわれ人間の場合は違う。たくさんの知識と経験を詰め込んでいる自分とは一体何ものかを知らない人を、私は何のためらいもなく無知と言う。
《引用終わり》

シュレーディンガーが同様の指摘をしている文章が本書に引用してあります。本当の「私」とは、メモリーに収められたデータではなくて、メモリーの方ではないか?という指摘です。

《以下引用》
シュレーディンガーの卓見とも言える「私」の理解の中に、経験や知識を収めたデータとしての私と、データを書き込む共通の基盤としての私の二つを見て取ることができる。そして前者について言えば、確かに経験や記憶はデータとして、私という個性を作り上げ、われわれはいつしかそれを自分と考えるようになる。しかし、それはあなたの出自から始まって、これまで受けてきた教育や知識はもとより、あなたの趣味・嗜好や性格、社会的立場など、雑多なデータを寄せ集めた記憶の総和に、われわれが「私」という呼称を与えたに過ぎず、そこに一貫した私が存在しているわけではない。
《引用終わり》

現実の世界では友人と一緒に何かをします。つまり経験を共有(シェア)します。その経験や記憶の単なる集合体が「その人」と言えそうな感じさえします。例えば、夫婦とか家族とか、「その人」を家族だな…と強く実感できる瞬間のひとつは思い出話(シェアしている経験の確認作業)をしている時ではないでしょうか。

最近、SNSで自分が興味を持った情報をシェアしたり、リツイートしたりしています。自分の友人が「いいね!」とマークした情報を見て、「らしいな」と思ったりする。この「いいね!」の集合体を「その人」そのものと言っていいように思うことさえあります。

しかし、これらの情報群は、「その人」だけのものではないことは留意すべきかもしれません(シェアという形で他の人も持っているわけですから)。「その人」と言えるものは、その情報の集合体の方ではなく、それが乗っかっている場所の方だということなのでしょう。

SNSの喩えで言えば、乗っかっている場所の境界は、サーバーのメモリー上のアドレスであり、ダイナミックに変わり得る、ある意味あやふやなものです。この点は、自他不二を考える時に使えるかもしれません。

《つづく》

「新・人体の矛盾」の「4 腎臓の進化」を読みました。(小林教室収蔵

排泄物として、大便と小便は固体か液体かの違いでしかないように感じますが、大便は食物として一度体に取り入れた物から栄養分を吸収した残りカスであり、小便は栄養分として吸収された物のなれの果て(老廃物)である、と大雑把に言えると思います。

人間の場合、22日目、全長が3ミリ足らずの頃に、最初の腎臓組織である前腎が現れるそうです。30日目頃から前腎管の周りに中腎ができ始めます。35日目頃までには中腎に取り込まれた部分以外の前腎は、完全に消滅します。中腎は、男性の場合は精巣上体・精管・精嚢・射精管に、女性の場合は卵管・子宮・膣の一部になります。中腎の末端部分が後腎となりますが、これが最終的に腎臓になります。

胎児は妊娠三カ月目ころから羊水中にオシッコを放出しており、腎臓(後腎)は機能を始めています。胎児の前腎と中腎がどんな機能をしているかは不明ですが、進化の過程ではきちんとした働きがあったはずです。

前腎は原索動物からはじまって、最も原始的な脊椎動物の腎臓です。中腎は、ヤツメウナギにその兆しが現れて、魚類と両生類の腎臓をつくっています。後腎は、爬虫類・鳥類・哺乳類の腎臓ということになります。

生物体をつくる蛋白質は老廃物となるとアミノ酸に分解され、最終的にはアンモニアになります。アンモニアは非常に毒性が強く、血液中にたった二万分の一入っても死んでしまいます。魚の場合は水中にたれ流せばよく、皮膚やエラから排出するので、腎臓の働きとしてはアンモニアの処理よりも塩類の排出の方が重要です。

生殖のために生殖細胞を外に排出する必要に迫られた時、同じ排出機能をもつ腎臓周辺の器官を改造することで対応したという事情もありそうです。

処々の事情により、前腎・中腎の過程を経て、やっと出来上がる腎臓。でも、発生段階では、必ずこの進化の過程を繰り返さなければいけないことが、ニワトリの卵の実験などで明らかになっています。

人体の矛盾・不合理性が非常によく分かる臓器のひとつだと思います。

《つづく》

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「瞑想の心理学」(法蔵館)
第四章「方法論―止観双修」の「私とは誰か」を読みました。

そろそろこの本の次に読む本を物色しておりまして、同じ可藤豊文さんの「自己認識への道」を入手したところです。この本の帯に書いてある言葉も「私とは誰か」

「瞑想の心理学」の帯には「生と死の本質」と書いてあり、「どこ(生の由来)からどこ(死の所去)へ」がメーンになっている感じです。

ただ、この二つの問いは表裏一体のようなものでして、他方に明確な答えが見つかればもう一方の答えも自ずから見つかるものだと思われます。

《以下引用》
「どこからどこへ」という問い…についてはすでに解明を試みたので、以下では「私とは誰か」という人間存在の根本に焦点を当て、また宗教における自己実現とはどういう意味なのかを見据えながら、『起信論』における方法論を探ってみよう。
《引用終わり》

《つづく》

↑このページのトップヘ