トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年08月

私が住んでおりますところ周辺のゴミ焼却施設の灰から放射性セシウムが検出されたとのこと。国の基準は1キログラム当たり8000ベクレルであるのに対し、7800ベクレルも検出されているにもかかわらず、ことさら基準を下回っていることを強調する滑稽さにも慣れてきたところですが、先日、児玉龍彦先生が「総量」で議論しなければ意味が無いとおっしゃったことを改めて思い出しました。

屋外に放置されていた剪定枝に放射性セシウムが付着したとして、「剪定枝」のキログラム当たりのセシウムの量は問題が無かったのでしょう。でも、これを燃やしてしまうと問題になる。含まれるセシウムの量は焼却の前後で余り変わっていないはず。飛灰となって煙突から出て行った分を考えれば、「総量」としてはむしろ減っているはずなのです。ですが、燃焼という形でセシウム以外の成分が目減りしてしまうと、簡単にほぼ基準値くらいのヤバい代物になってしまう。

燃焼が放射性物質を濃縮したことになります。同じく、下水処理施設の汚泥からもセシウムが検出されたということで、基準値を下回るとは言っていましたが、これは汚泥をどれほど濃縮するかで決まることですから、基準値にこだわることが如何に無意味であるかがわかります。

この機械的な濃縮でさえ、こんなに簡単にセシウムが集まるのですから、生体内ではどうなのでしょう。生命活動とは体内に取り込んだ物質を分解し、成分ごとに選択的に処理していくことです。ヨウ素に対する甲状腺のように、セシウムを選択的に取り込む臓器はないのか、あるいは私たちの生態系の循環の中で、セシウムに限らず、放射性物質を選択的に取り込む生物はないのか、その生物は食物連鎖の中で最終的に私たちの体の中におさまる可能性はないのか…

と考えていきますと、濃縮するプロセスは私たちの身の回りに(焼却施設や下水処理施設を含めて)散在しているわけで、キログラム当たりの基準値をかざすことが如何に愚かであるかは、ちょっと考えればわかることなのです。

例えば、アルコールの摂取制限を度数で行うのに似ています。ウイスキーは一滴たりとも飲んでは駄目だが、ビールなら無制限に飲んでもいいというようなもの。全く意味がありません。

政府やマスコミの中にこれに気づく人がいないのか、特に児玉先生の説明を聞いて「あ、そうか」と気づく人がいないのか、不思議でなりません。

今回のように焼却施設で放射性セシウムが見つかったとして、濃度が基準値を超えていないからというので普通に廃棄されたら、いずれは漏出し、生態系の中に取り込まれて循環することでしょう。キログラム当たり7800ベクレルの灰が何トン発生したから、総量としては何ベクレルのセシウムが回収できたという考え方をして、その都度このセシウムを絶対に漏出しない方法で保管すべきではないのでしょうか?

福島の原発から放出された放射性物質が天文学的規模のベクレル数であれ、地道にコツコツ回収して行くのが責任というものではないかと思うのです。捕らえては放し捕らえては放しを繰り返したところで埒はあきません。

昨日、セシウムを含む牛肉を他の牛肉に混ぜて出荷した業者が摘発されたというニュースを聞いたような気がします。確かにこれは道義上許されることではないのですが、濃度だけで管理している愚かしい現状に対する皮肉と捉えれば、なかなかのものです。少なくとも、「国の基準値を下回っているから安全」と発表している御役所の方やマスコミの方に比べたら、この業者のほうがずっと科学的なセンスは有ると思います。

ウイスキーは度数が高いから駄目だというのなら、ビールと同じくらいの水割りにすればOKなはずです。これが科学というものです。

同様に、キロ当たり500ベクレルを下回る牛肉が「安全」だと言うのであれば、1000ベクレル含む牛肉なら0ベクレルの牛肉を同量以上混ぜれば「安全」になるはずです。これが科学というものです。牛が出荷できなくて自殺する人までいるのですから、この方法で希釈して、全部の牛肉を出荷しないのはなぜなのでしょうか?それはキロ当たり500ベクレルを下回る牛肉が「安全」だと言えないことを知っているからにほかなりません。

無意味な基準値を基準にして現状を看過しているのは、放射性物質が世界中に拡散して希釈されるのを待っているのでしょうか?だとしたら、上記の業者と同類であり、規模の上ではそれよりもずっとずっと大きな犯罪だと思うのですが、どうなんでしょうか?

私の考え、間違ってますでしょうか?

「新・人体の矛盾」の「3 歯の由来」を読みました。(小林教室収蔵

歯の起源は、無顎類のウロコと考えられるとのこと。つまり外皮だったわけで、これが口の中にも分布するようになり、やがて歯として大きくなったようです。外皮である以上、感覚を伝えたはずで、私たちの歯の痛みは古生代の魚の皮膚感覚なのかもしれません。

ためしてガッテンでやったと記憶していますが、紙の厚さを識別するというコンマ何ミリという微妙な感覚は、歯が最も敏感です。目で見ても手で触っても分からないのですが、歯で咬み比べてみると即座に分かります。古生代からの皮膚感覚はこれほど敏感ということになります。

多くの爬虫類の歯は円錐形の単純なものだそうですが、獣弓類には犬歯、切歯、臼歯など哺乳類と似た歯を持つものがいたようです。ただ、他の爬虫類と同じく、生涯の間に何度も生えかわる多生歯性でした。

爬虫類から哺乳類に移行するためにはオッパイを吸うために口を密閉できなければなりませんから、口蓋(鼻腔と口腔を隔てる上顎の天井)、口唇、発達した表情筋が発生しました。これにより、口をピッタリと閉じて、食物をこぼさずに噛みこなすことができるようになりました。

咀嚼筋も発達し、これに強度的に耐えうるために、いくつもの骨からできていた下顎骨が一個の頑丈な骨になりました。

ヒトは乳歯のあとに永久歯が生える二生歯性ですが、ドブネズミやハクジラ類(イルカ、マッコウクジラなど)は一度しか生えない一生歯性だそうです。カンガルーなどの有袋類は、小臼歯のうちの一本だけが二生歯性で他は一生歯性で、同じ哺乳類でもいろいろであるのは興味深いところです。

ヒトの大人の歯の内訳は、上下左右の片側に、前方より切歯が2本、犬歯が1本、小臼歯が2本、大臼歯が3本で、合計32本。ヒトの大臼歯は奥に行くほど小さくなり、一番奥が親知らず(知歯)で、最も退化しています。類人猿の大臼歯はこれと逆で、奥に行くほど大きくなっているそうです。

うちの長女は、口をキチンと閉じずにピチャピチャ食べる癖がありますが、これは爬虫類の食べ方と言えそうです。親の歯磨き指導が至らないために、虫歯もできてしまいました。4億5千万年の歴史を踏まえ、躾け直さなければなりません。

《つづく》

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くもんのすいせん図書(Cの17番)「てぶくろをかいに」を読みました。(小林教室収蔵

母の子を思うやさしさ(キツネではありますが)が伝わってきて、読み始めてすぐに心が温かくなります。

そんなとき、ふと思い出される母ギツネの過去。人間との怖い思い出。

母の忠告にもかかわらず、子ギツネは出す手を間違ってしまいます。このまま帰れるんだろうかという不安。

人間の母子のホッとするやりとり。そして、ホッとする結末。

「ほんとうに人間はいいものかしら。」という母のつぶやきは、読者の良心への問いかけのようにも思えるし、いいものであって欲しいという作者の祈りのようにも思えます。

手袋だけじゃなく長靴も要るんじゃないか?なんてことは言いっこ無しです。

17日、夏休みの思い出として、県外くらいにはお出かけしないといけないだろうということで、秋田との県境を越えてすぐの横手にある秋田ふるさと村に行ってきました。




入ってすぐ、キャラクター、秋田犬のノブくんの前でマップを広げます。




マップだけでは、よく分からないので、チューチュートレインで会場内を一周。




興味を持ったのは、体験コーナー。団扇制作とか、いろいろありましたが、素焼きの貯金箱を染めることにしました。




完成品はこちら。左ハムタロウが長女(実際は妻)の作品、右ウサギちゃんが次女(実際は私)の作品。




トリックアートで綱渡りをしたり、




胴体が無くなったり、




骨だけになったり、




お姉ちゃんが小さくなったり、しました。




象に踏まれたりもしましたが、楽しい一日でした。

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「現代ソフィスト伝」の第二部の「一、家庭教育の始まり」を読みました。(小林教室収蔵

公文公氏は、昭和28年から、大阪市立桜宮高校に勤めます。奇抜な行動で周囲と物議をかもしては職場を変えることを繰り返していたようです。でも、長男の毅さんは小学生。安定した生活が望まれます。かく申す私も。

《以下引用》
目の前にいる一人の学生に対して、公はいつもその当の本人のうしろにある「人間X」を見ていた。この「人間X」は、教える側にも、教えられる本人にも未知なものであるから、「可能性としてのX」、「潜在能力としてのX」と言っていいかもしれない。父と子との間の関係をこうした影絵のような関係として見る目を公はもっていた。…

教育は人がときに挑発的に表に出す「人間X」に焦点を合わせて始まるしかないものではないか。公は、もっと伸びろ、もっと広がれ、この父親をこてんぱんにやっつけろ、そのぐらいの気迫をもって親をも踏み越えていけ、と心のなかでわが子毅に言っていたにちがいない。父親のコピーなんぞであったなら、そんなものはワケなくひねりつぶしてくれよう。
《引用終わり》

父と娘はともかく、父と息子は、これでいいんだと思います。基本的に人間は負けず嫌いなはずですが、相手がわが子なら、負けるのもまたたまらなく嬉しいはずです。

公文式誕生の起爆剤となったのは禎子夫人の働きかけだそうですが、この方も教育には造詣の深く、戦前と戦後の教育を比較し、戦後教育の後進性に不安を抱いていました。

《以下引用》
禎子は奈良の教育での子どもたちの学習姿勢の質の高さをさかんに公に説いた。公は、禎子と話をして、自分で問題を作ることにした。…

公文家の家庭教育の要点はこうである。学校の勉強の予習復習が自分でできる力をつける。自分で予習復習する力をつけておけば、少々学校で質問に答えられないことがあっても、また、テストで失敗しても、かえって、そうした失敗は子どものためになって、はね返ってくる。(この考え方も変わっている。一般の塾などでは逆。プロセスはどうあろうと、とりあえず学校の成績をあげようとする。しかし、公の方法は当たり前のことだし、正論である。)学校の成績に一喜一憂して、なにもかも家で面倒をみるようではいけない。学力を安定させる学習の仕方をまず立て直すのだ。…

その計画とは次のようなものだった。
)萋半時間の勉強時間
⊂学校〔の〕成績向上を目標とせず大学の入学試験が解けるようにする。小学校の教科書を参照しない。
E喘罎濃澆瓩襪鳩になるのでいつまでも続ける。
ぐ貽分の問題を作成して子どもに夕食前に自習させる。私は夜採点する。まちがった箇所の説明は夜せずに、必要な注意を書いて渡す。
《引用終わり》

親の務めとは、自分を超える能力を子どもに習得させ、自分がいなくなっても自分がいた時以上の生活を子ども自身で築いていけるようにすることだと思います。

ですから、今食べる魚を与えることよりも、自分で魚を獲る方法を教えることの方がずっとずっと重要なわけです。

小学校の成績にこだわること、今度のテストの成績を上げることは、今日明日食べる魚を与えることです。自分で予習復習できるようにすることの方がずっとずっと大切なのです。時には、「逃げた魚は大きい」という悔しい思いもさせた方がいいわけです。

《つづく》

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第三章「存在論―返本還源」の「『般若心経』のマントラ」を読みました。

《以下引用》
世間の凡夫は諸法の本源を観ぜざるが故に、妄に生ありと見る。所以に生死の流れに随って自ら出づること能はず。(空海『吽字義』)

人間は「諸法の本源」を見て取れないために、妄りに生(と死)があると思い、死はできる限り遠ざけ、生にはどこまでも執着する。これはいずれも不覚無用から生じてきた妄念、あるいは妄執に過ぎないが、それがためにわれわれは生死の流れから離れられないのだと空海は言う。
《引用終わり》

前回までの内容を御大師様にまとめていただいたという感じです。そして般若心経のマントラです。

《以下引用》
gate gate paragate parasamgate bohdi svaha

このマントラを空海は自らの悟りの体験に照らして次のように理解した。

行行として円寂に至り
去去として原初に入る
三界は客舎の如し
一心はこれ本居(ほんこ)なり
                  (空海『般若心経秘鍵』)

心の本源(一心)は、もとより静寂で至福に満ちている。何ら欠けるものはない(円寂)。いつも変わらずそうなのだ。ところが、われわれは本源に背いて、いま生死の苦海に身を沈め、長者窮子の譬えの如く、火宅無常の世界をあくせくと駆けずり、あれこれと求めはするが、死に急ぐものに本当に落ち着ける安らぎの場所などどこにもない。なぜなら、この世は仮の住まい(三界は客舎)であって、われわれが本当にあるべきところではないからだ。あなたは気づいていないけれども、帰るべき本当の住処はあなた自身の内なる本源(原初)にある。心の本源こそわれわれの本当の住処であるというので、「一心はこれ本居なり」と彼は言ったのだ。

…だからあなたはどこに赴くこともない、ただ心の内側へと深く、より深くへと入り、あなたの実存の中核である本源(一心)に辿り着きさえすればそれでいいのだ。そこがあなたの永遠の故郷であり、真に安らぐ涅槃の都であるから、というのが空海のマントラ理解なのだ。
《引用終わり》

本文中に「…マントラである限り、漢訳で誦することにどれだけの意味があるか…」という記述があります。これは興味深い指摘です。真言にこだわった空海の気持ちに通じるものがあるんじゃないかと思います。

宗教という部分を離れて考えてみても、インド哲学とかインド文学を勉強しようという時に、日本人が漢訳の文献を用いるというのは奇妙な話です。日本語訳で最初は勉強するにしても、最終的には原文で読めなければ、微妙なニュアンスは理解できないはず。

千数百年も前の人なのに、国際都市長安に渡り、中国語を自在に操り、サンスクリット語も解する…そういう超人だからこそ気づくことかもしれませんが、考えてみれば当たり前のことです。「真言宗」という命名に、改めて重みを感じます。

《つづく》

だんちゅう:CV17(任脈 心包経の募穴 気会)

〈取穴〉:前正中線上で、第4肋間の高さ、両乳頭を結ぶ線の中央に取る。
〈標準〉:前胸部、前正中線上、第4肋間と同じ高さ。

〈筋肉〉:

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:肋間神経前皮枝

〈血管〉:内胸動脈の枝

〈主治〉:胸やけ、苦満、心胸痛、動悸、咳嗽、喘息、嘔吐、ゲップ、乳腺炎、肋間神経痛等。
〈特殊〉:

参考文献1「経穴マップ」

ドコモのセパレート・ケータイ(F-04B)を使っています。ドコモ初のスマホと同時期に発売されたこのケータイ。分離するとタッチパネルのみの薄いケータイになるので、「スマートフォンなんですね?」とよく言われます。つまり、「なんちゃってスマホ」です。

スマホに変えたという人も身近に増えてきて、やっぱりスマホかな…と思っても、24回払いがまだ残っている。

iモードでネット検索というのはどうしても不便で、スマホの人が目の前でサクサク検索しているのを見ると、やはり羨ましい…。何とかならんか…。

ガラケーでも、最近はアプリが結構ありまして、iモードのパケ放題の範囲内でフルブラウザっぽいことができるアプリがあります。315円/月というのもありましたが、日本経済新聞のログインができない(みたいな)ので630円/月のjigブラウザを使ってみました。それでもフルブラウザ対応のパケ放題より安いですからね。

結構快適です。問合せをしても、数時間で回答が返ってくるところが素敵!

聞くところによると、スマホを使えばフルブラウザ対応のパケ放題になってしまうらしい。しかも、自分でアプリを選んでダウンロードして環境を整えていかないといけない部分があるので、忙しい時には面倒だというスマホ・ユーザーの不満(ただ、私はスマホを使っている!という微かな優越感はあるようなのだが)も耳にしました。

私が気になるのは入力がタッチパネルのみだということ。もちろんスマホの場合は、テンキーとかQWERTYとかフリック入力とか変幻自在なわけですが、ボタンが無くて本当に大丈夫だろうか?でも…



この映像見てみると、大丈夫みたいですね。やはり、一年半前のタッチパネルとはレスポンスが違うってことか…

まあ、しばらく「なんちゃってスマホ」で頑張ってみますわ。

《最初から読む》

「新・人体の矛盾」の「2 背骨を訪ねて」を読みました。(小林教室収蔵

背骨の起源は、現在ではホヤの幼生に見られる脊索と考えられるとのこと。パイナップルのような、いわば植物と見まがうような生物の幼生(子ども)が、魚のような姿で泳ぐことができるというのは驚きです。

無顎類、板皮類、軟骨魚類の背骨で、やっと脊索を軟骨が包むという構造が見え始めるようで、これはシーラカンスの背骨から推測されること。硬骨魚類になって初めて、神経の束を硬い骨で包み込む構造ができることになります。これは、神経を保護するというメリットはありましたが、これによって脊柱管狭窄症を生む構造が出来上がったとも言えます。

ヒトの胎児の場合も、脊索から始まり、その周りに分節状の筋肉ができて、その分節に一致する場所に椎板という細胞集団ができ、この椎板が椎間円板と椎体に変化していくそうです。魚からヒトに至る背骨の進化も、およそこのようであったことでしょう。

進化史上、二足歩行を始めたのは恐竜だと思われますが、恐竜の骨盤は、股関節より後ろに、長い突起が張り出していて、ここと大腿骨との間に強力な筋肉があったと考えられます。直立ではなかった(姿勢が悪かった?)のですが、この強力な筋肉が背骨の傾斜を支えていたようです。だから、姿勢が悪くても腰痛は起きにくかったことでしょう。

直立二足歩行を始めたヒトの背骨は、下方の椎骨ほど太くなり、前後に湾曲を繰り返すなど、直立姿勢に対応した構造も見られます。しかし、椎間円板への垂直方向の加重は進化史上初の出来事であり、おのずと限界があります。これが椎間板ヘルニアの原因となるわけです。

《つづく》

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くもんのすいせん図書(3Aの17番)「ぼちぼちいこか」を読みました。

小林教室周辺の教室が共同で図書を購入して、巡回図書館のようにしています(通称「おにぎり文庫」)。今月の一冊でした。

この絵本の原題は 「What can a hippopotamus be ?」 です。直訳すれば「カバくんは何になれるかな?」てとこでしょうか?それが意訳されて「ぼちぼちいこか」…。

「何で関西弁やねん?」というのが第一印象でしたが、読むと何となく分かります。

「カバくんは何になれるかな?」よりも「ゆっくりいこうよ」よりも、「ぼちぼちいこか」がいいです。

原書が英語の方言で書かれているというわけでもないでしょうから、原作を超えた意訳かもしれません。

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