トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年07月

勉強は何のためにするのか?という疑問。その回答が、ドガ〜ンと津波とともに押し寄せたような気がします。例えば「原発に勤めるわけじゃないんだから、放射能のことを学校で習って何の意味があるの?」というような疑問に対して…。

お陰さまで私の場合は、今日のような状況を可能性のひとつとして予想できていましたから、現実になったと分かってもそれほどのショックはありませんでした。自分が高校や大学で学んだ知識は正しかったのだなと思いました。

残念なのは、こうしたワーストケースを含めた可能性の説明を、なぜ3月のうちに政府やマスコミはしなかったのかということ。こういった場合に、専門的な情報をも国民が正しく理解できるための教育なのですから、情報はかいじされるべきだったのではないでしょうか。もちろん混乱はあるでしょうが、その上で「国民団結して頑張っていきましょう!」という呼びかけなら意味があります。全く教養の無いバカ扱いをした上で、「日本の力を信じてる!」も何も有ったものではない。

ある物質が生体に及ぼす影響がアプリオリに分かるということは有り得ません。放射能の場合でしたら、チェルノブイリ周辺の調査とか、動物実験とかに頼るしかないのではないかと思います。結局「何シーベルトでガンの発生率が何倍になるか」というような形に集約されるでしょう。「安全だ」「安全でない」の判断は、ガンの発生率が何倍までをOKとするかということで、それは主観的な問題です。

政府は、誰が行ったどんな調査を判断材料として採用し、基準として「何倍までをOK」としたかを公表すべきだったと思います(公表されてたらゴメンナサイ)。それが高卒以上の学歴を持つ人に対する失礼のない対応ではないでしょうか?それを一切語らず、「安全」という主観的な意見(基準を明確にしなければ科学的客観的な判断とは言えません)を国民に押し付けました。子ども扱い、あるいはバカ扱いと言えます。大変な侮辱です。

例えばガン病棟に入院することになってしまったドクターに対して、検査結果の数値を一切語らず、「大丈夫だ」と言っているようなもの。「もう、自分はダメなんだ」と思うに違いありません。

この情報開示によって、ガンの発生率が何倍までをOKとするかの最終的な判断は国民一人一人に委ねられ、それぞれが対策を講じることもできたわけですが…。

ともかく、こういう時のために、勉強は必要なのですね。痛感しました。

《最初から読む》

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「現代ソフィスト伝」の第一部の「三、自己教育の系譜」を読みました。(小林教室収蔵

大正時代は新しい教育方法がいろいろ考案され、活発な議論が行われた時代のようです。本書では、いろいろな教育論が紹介されていますので、興味のある方はご覧下さい。これに見ると、今の教育の議論は非常に狭い視野で大同小異の模索をしていることが分かると思います。

自学自習についての文章を引用しておきます。

《以下引用》
自学自習という言葉は、とくに日本人に馴染みが深い。近年では、生涯教育の必要性から「自己教育力」という言葉としても登場している。旧来型の教育は、この自律的教育法という段階を得て、今、その脱皮をはかろうとしていたのだ。

「修業」――これは、徒弟制の下での職人の人間形成の方法とされてきたものである。料理人や陶工など、技術や仕事、手技とむすびついた陶冶の方法がこれである。一方、この「修業」から派生して、仕事や技術を分離させ、精神的な面にウエイトをおいた意味でつかう「修養」という言葉もある。

「自己を学ぶ」は、ある意味で、人格教育の到達点であり、「自分で学ぶ」はその方法論として、わたしたちの耳にはしぜんに響く。修身や修養には必ず「自己教育」が加わって、自己修養の形をとるのが日本型教養主義の伝統であると言ってもいい。
《引用終わり》

《つづく》

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「月華の比喩」を読みました。

『起信論』では、「一切の法は鏡中の像の体として得べきものは無きが如く、唯心のみにして虚妄なり」と言っています。これと似た「月華の比喩」が紹介されています。

《以下引用》
月華 中流に浮かぶに
彌喉 これを探らんと欲し
相率いて 水中に投ずるが如し
苦しいかな 三界の子
(良寛『草堂詩集』)

水の流れに月が映っている。この美しい月影を自分のものにしたいと思って、猿が仲間を引き連れて水中に入っていく。ところが、しばらくすると彼らはともども水中に没し、命を滅ぼしていく。われわれはこの猿の愚かしさを笑うかもしれない。・・・

しかし、…われわれ人間もまた、あの猿たち同じようなことをしている…。われわれはこの地上にあって、自らの心が投影した「鏡中の像」のように実体を持たないものを手に入れようと躍起になっているのだ。果たして、われわれが本当に手にできるものなど何もないにもかかわらず、互いに争っている様子は、もしかしたらあの猿よりもいじましく浅はかと言えるかもしれない。
《引用終わり》

プラトンの「洞窟の比喩」も紹介されています。

《以下引用》
人間は洞窟の中にいて、頭を後ろに向けることができないで、いつも前だけを見ている。そして背後から光が当てられると、そこに影が映し出され、人間はそれを見ている。そして「投影された影の他は何も見たことのない人間」が、その影に一喜一憂しているというものだ。…

いずれの比喩もわれわれ人間は真実を捉えているのではなく、その影を見ているに過ぎないと言おうとしたものである。
《引用終わり》

「望月の比喩」というのもあります。私の作品です(笑)。

《つづく》

じょうかん:CV13(任脈

〈取穴〉:前正中線上で、中かんの上1寸に取る。
〈標準〉:上腹部、前正中線上、臍の中央の上方5寸。

〈筋肉〉:白線

〈運動神経〉:
〈知覚神経〉:肋間神経前皮枝

〈血管〉:肋間動脈、上腹壁動脈

〈主治〉:食後腹脹、胃痛、嘔吐、吐き気、噫気、口臭、吐血、黄疸等。
〈特殊〉:去痰、安眠作用。

参考文献1「経穴マップ」

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「共同幻想の世界」を読みました。

今回は一水四見(三見)の比喩から。
《以下引用》
譬えば人間の浄水を天鬼は心に随うて、或いは以て宝とし、或いは以て火とし、自心自ら苦楽を見るが如し。これに由って、當に知るべし、心を離れて外に一法も有ることなし。(『大日経疏』)

ここに登場するのは六道のうちで天、人(人間)、餓鬼であり、これら三者の心がそれぞれ異なるために同じものを見ながら、三者三様に捉えていることを言ったものだ。…そうすると、個々に意味があるとしても、三者共通の意味を見つけることはできないであろう。つまり、同じ心の構造を持ち合わせているものにとってのみ分かり合える世界(境界)ということになる。
《引用終わり》

人によって見え方、捉え方は様々であろうことを私なりに以前書いたこともあります。

《以下引用》
…われわれ人間は、人間の心が捉えたものという共通認識に基づき、また人間の心にとってのみ意味を持つ世界(世間)で、さまざまな問題を抱え込んでいると言えるだろう。そして、われわれの世界がたとえ虚妄であっても、その虚妄を共有し、そこに何がしかの意味を見出そうとしているということで、私はこの世界を共同幻想の世界と呼ぶ。もちろん、人間だけが共同幻想の世界に生きるのではない。ここにあげた三者三様に、自らの心に随って、さまざまに見ているのだから、それぞれが共同幻想の世界を生きていることになる。そして、真実はこれら共同幻想の世界の中にあるのではなく、この幻想のヴェールが取り除かれたとき顕現してくるものなのだ。
《引用終わり》

三者に限らず、同じ人間でも見え方はだいぶ違うのではないかと思います。もちろん、天と人間、餓鬼と人間よりは、人間同士の方が共通に見えるものは多いでしょうけど。

そして、皆の見え方が共通な物を私たちは客観的だと言い、科学が取り扱う範囲に入れて、取り組んでいきます。しかし、幻想であることに変わりはない。真実はそのヴェールを取り除いたところに顕れる…

《つづく》

「もう手遅れのガンだから、本当のことは本人には告知しないことにしましょう」今の日本はそういう段階ではないのだろうか。

私はいろいろなニュースをくまなくチェックする暇がないので、無知からくる誤解であれば是非ご指摘いただきたい。そう前置きして、放射能汚染について最近思っていることを書きます。

まず、神奈川だったか静岡だったか、基準値を超えるほど汚染された御茶が出荷されていたはず。福島から随分遠い。原発から真っ直ぐセシウムが上昇し、そのお茶畑にだけピンポイントで降り注いだという可能性も全く無いとは言えませんが、常識的には有り得ないです。とすれば、そのくらいの範囲には放射性物質は拡散していると考えていい。

ガイガーカウンターでこの範囲にいる人たちが測定していなかったのか?いたと思われるのですが、測定値はどうだったのか?私は、ここで大きな数値が出ていたのに隠蔽されたのであれば、むしろ良い状況だと思うのです。でも、数値は大したこと無かったんじゃないかと懸念しています。ガイガーカウンターで測ってもOKな量の放射性物質が拡散していたのではないか?と思うのです。

それほど微量な放射性セシウムでも、お茶が吸収し茶葉に濃縮されればNGな高濃度になり得る。

そうだとすると、ガイガーカウンターでの測定は、この放射性物質の最も深刻な拡散ルートに関して殆ど無意味ということになるのです。

Wikiで調べたところでは、「米では胚と糠層のセシウム濃度が高く、キャベツでは外縁部」とあります。菌類は「屋外で人工栽培されるシイタケやマイタケでも濃度が高くなる傾向がある」。魚類では「生物濃縮により魚食性の高い魚種(カツオ、マグロ、タラ、スズキなど)での高い濃縮度を示すデータが得られている」。いずれにしても、放射性セシウムの生物濃縮の研究は余り多くはないようです。

今回、岩手県を皮切りに「東北」で、「稲わら」から「牛」への汚染が見つかりました。基準値に達していない物もあるようですが、問題は生物濃縮ですから、今後基準値を越えていくことは十分有り得ます。

「神奈川」「静岡」方面だけでなく、「東北」方面にも拡散していることが確認できたことになります。「お茶」だけではなく「稲わら」でも蓄積されることが確認できたことになります。米の「胚と糠層」だけではないということです。「カツオ、マグロ、タラ、スズキ」だけではなく「牛」でも生物濃縮が確認されたことになります。

拡散範囲が「神奈川」「静岡」「東北」だけだと考えるのは不自然だと思います。植物での生物濃縮が「お茶」と「稲わら」だけだと考えるのは不自然だと思います。動物での生物濃縮が「カツオ、マグロ、タラ、スズキ」と「牛」だけだと考えるのは不自然だと思います。

高校理科程度の知識があれば、このくらいのことは遅くとも4月頃には予想できたと思います。「安心だ」とおっしゃる方、上記の疑問を悉く払拭する説明を、お聞かせ願えないでしょうか。

《つづく》

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くもんのすいせん図書(Cの4番)「大きい1年生と小さな2年生」の後半を読みました。(小林教室収蔵

この本は初版が1970年で、その頃ちょうど私も一年生でした。まさやは私とほぼ同じ年。5円のガムとか、100円の週刊誌とか、駅までのバス賃が10円とか、そんな値段だったのか…と、変なところに興味を持ちました。

場所は東京という設定ですが、当時はまだ、車が通れないような道路がまだまだ多かったようです。私が小学生のころもそうでした。原っぱとか神社とか、そんなところが遊び場でした。

今の子どもは、この本を読んで、現在とのギャップを感じるでしょうか。昔話として読んでしまうでしょうか。

《初めから読む》



写真は先週書いた西公園です。今日の内容とは関係ありません。

ある会議で話題になったことです。

今の子どもときたら、「むかしむかし…」と言えば「いつごろ?」と聞く。「あるところに…」と言えば「どの辺り?」と聞く。これじゃあ、昔話もできやしない。

その場では私も「なるほど」と思って一緒に笑っていましたが、「ちょっと待てよ」と思い直しました。

思い出したのは、「半分」という言葉をわざと使わないで「2分の1」と言ったりして、お子さんが分数に出くわす前に「何分の1」という言葉だけでも耳に入れておくと、分数の学習にも抵抗なく入れる場合がありますよ…という話。以前、公文のセミナーで聞いた話です。

だとしたら、「いつごろ?」と聞かれたらもっけのさいわい。「江戸時代かな…明治時代じゃないよね…」と言ってみる。「どの辺り?」と聞かれたら、「東北地方かな…関西地方かな…」と言ってみる。歴史や地理の先取り教育になるんじゃないだろうか?

実際、試してみますと、長女が早速食いついてきました。「江戸時代より昔は何時代?」
「戦国時代。安土桃山時代と言う方がいいかな。」

考えてみれば、これも立派な昔話です。

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「現代ソフィスト伝」の第一部の「二、聖なる砦としての学校」を読みました。(小林教室収蔵

公文公が創始した公文式学習法は彼の完全なオリジナルではなく、御手本となるものがありました。それが、土佐において彼が受けた教育だったようです。自分の体験をもとにして、公文式は創られたということです。

例えば、「手を上げる授業」への疑問。
《以下引用》
なぜ手をあげなければならないのか。「はい」「はい」という生徒の声がひびかないと、教室じゃないと思っている教師がいる。学校というところは、いつも「先生」のために勉強しているようなところだ。教師に向かって勉強しているわけではないのに、なぜか、そうなる。机間巡視とかいって、警官のように見回る教師までいる。

しかし、生徒の頭のなかは、いろいろな言葉が縦横無尽にとびかい、さまざまな考えをつむいでいる。もし、こうだとすると、この場合はどうなるだろうか。これとこれは結びついて、こう考えることもできる。言葉が言葉をよび、収拾がとれない。とれないところが、また、おもしろい。つかの間の興味から、まったく新しいつながりの筋が通ったときの喜び。これがおもしろいのに、考え事をゆるさない授業とは、いったい、だれのためにあるのか。
《引用終わり》

公が学んだ下知小学校の四年の時の担任の先生は「算術の教科書ができるなら、いくら先をやってもよろしい。先に進んで、わからないことが出てきたら、一人ずつ教えるから聞きにきなさい」と言う方でした。つまり「手を上げる授業」ではありませんでした。

公が入学した土佐中学は地元の富豪が創設した学校で、斬新な教育がなされました。初代校長の三根円次郎はディック・ミネの父(これは教育には全く関係ないが)。ここでの授業も下知小学校と全く同じ。最初に基本的なことを教えるだけで、あとは問題集を生徒に与えて解かせる。わからないところがあると、教壇の椅子にすわっている先生に質問する。わかったら、席にもどって、また、学習を続ける。

当時から地元でも、この授業形式にはかなりの批判があったようです。それでも、敢えて行っていたのは、それだけ成果があったからだと思われます。

《以下引用》
わたしたちは、今、教育に関して、臆病になっているのだろうか。…土佐の教育は昔話にしかすぎないと思って、ここから学ぶことをしない。土佐のエリート教育は、大正のあの時代であったから、実行に移せたのであって、現代とは条件も事情もまったくちがうと考えてしまう。

わたしたちは、また一方で、ずいぶん非寛容になってしまっている。自分なりの学び方を至上として、なかなか他のやり方に学ぶことをしない。やり方を変えるにも相当なエネルギーをつかう。今のままの方が安全だし、ラクだと思う。

それにしても、英才教育には、現代の教育に失われて久しい教育の一つの本質があった、と言うべきではないだろうか。英才を創る、こういうと、傲慢に聞こえるかもしれないが、しかし、ふつうの子どもを優秀にする、この確信は教育のなかでももっともピュアーなものではないか。できない子をできるようにしてあげたい、これに勝る教育への期待はあるのか。
《引用終わり》

で、おそらく公文の指導者なら何度も目にするはずの「下手(蔕:へた)なりに固まってしまうつるし柿」の一節。『山彦90』1985からの引用(つまり公文公自身の文章)を、引用します。

《以下引用》
公文の指導者と学校の先生との一番の大きな違いは、私たちは「この子はどこまで伸びるであろう」という楽しみをもって子どもに接していけることです。たとえば、1+1=ができない小学五年生の特殊学級の子どもでも、「どれだけ伸びていくだろう」という楽しみをもって、その子にちょうどの学習を進めることができます。幼児で分数をやっているような子どもにも、全く同じ喜びをもって接することができます。私たちが「つるし柿」にならないですむのは、こういう楽しみをもつことで子どもを伸ばす努力をすることで私たち自身が伸びていけるからではないでしょうか。学校の先生は、「その子にちょうどのことをしたい」と思ってもなかなかできません。できる限界があります。そのため自分自身が燃えていける場がないので、最初のうちは燃えていても、子どもは思うように伸ばせないので、「子どもとはこんなものだ、しかたがない、自分なりにやれるだけやったのだから」と自分に言い聞かせ、だんだんとさめていくのではないでしょうか。
《引用終わり》

公文の教室では、「おもしろくて仕方がない、プリントを何枚でもしたい」という状態の子を見かけることがあります。もちろん、いつでもこの絶好調状態では無くて、この子にもスランプはあります。ただ、子どもというのは、その子ごとに、猛烈に走り出したくなったり、立ち止まりたくなったり、後戻りしたくなったりすることがあるのです。

そのタイミングが皆同時であるはずは、絶対にありません。

それなのに、なぜ、軍隊の行進でもするかのように皆と同じに進まなければいけないのでしょうか。スランプで足が動かない子どもに、どうして皆と同じ歩調を強いるのでしょうか。今走らせれば、あっという間に先まで進んでしまう子どもに、どうして皆と同じ歩調を強いるのでしょうか。

子どもの可能性が、そして貴重な時間が損なわれていくようで、勿体なくて仕方がありません。

《つづく》

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
第二章「現象論―三界唯心」の「心は心を見ず」を読みました。

《以下引用》
心あって心をしらず
心は心を見ず
心に想を起こさばすなわち癡なり
無想はすなわち泥恒なり
《引用終わり》

『天台小止観』で引用されているそうですが、もともとは『般舟三昧経』の中にあるようです。

《以下引用》
…これは『起信論』の「心にして心を見ずんば」を容易に連想させる。しかし、このように言うと、心は無くなってしまうかのような印象を与えるが、そうではない。それはこれまでの説明からも分かるように、妄心(妄念)がないこと、『起信論』の中でよく使われる無念という意味であり、真心までもがなくなってしまうのではない。あえてこの文章を文脈に沿って読み換えるならば、「真心あって妄心をしらず 真心は妄心を見ず」となろうか。
《引用終わり》

私が容易に連想したのは「心こそ心迷わす心なれ 心に心、心許すな」です。そこ、ここと、ころころ変わるのが、心なんですね。

《つづく》

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