トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年04月

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新「公文式算数のひみつ」の「第三章 東大へ現役で合格できるひみつ」を読みました。(小林教室収蔵

公文式に限らず、勉強することの目的が「東大」というのは寂しいことですが、その先にある大目的への通過点として、東大現役合格はひとつの目安にはなるでしょう。この章のタイトルは、その程度に抑えておいて…

その華々しい通過を達成した、松本君の手記より。
《以下引用》
…公文を学習した人は計算が速いといいます。たしかにそうでしょう。でも、それは開発された能力の一部にすぎません。“速く”なったのは計算だけではなく、読む力、書く力、すべてを含めた“処理能力”なのです。僕が公文で身につけたもの、それはこの処理能力なのです。

この処理能力は、勉強面だけでなく、社会に出てからもきっと役に立つことでしょう。

ですから、公文をやったからといって、だれでもすぐに成績が上がるというのは、かならずしも正しくないように思います。

公文の数学を学習しても、かならずしも知識は身につきません。処理能力、知識吸収力が身につくのです。

この処理能力を持って勉強したとき、ほかの人の半分の時間で、同等以上の成果をあげることができるのです。これは非常に大切なことです。高校入試、大学入試においては、この能力の差が、結果に大いに影響するのです。
《引用終わり》

単にこの次のテストで良い点を取るための勉強法(あるいは学習塾)というのもあると思います。でもそれは、病院で言ったらターミナルケア(今日明日を楽しく過ごせればいい。元気に退院することはできない。)に似ています。あるいは、魚を与えるか、魚の獲り方を教えるか、の違い。要するに、目先だけを選ぶか、将来を選ぶか、です。

次は久野君の場合。彼は、自分なりの勉強法(独自のノートなど)を開発し、授業はちゃんと聞きながらも内職。
《以下引用》
・・・小学生の場合、算数の文章題が苦手という例があるが、そのような子どもたちはほとんど例外なく国語力、とくに読解力が不足している。久野君の場合は、早くから国語力の充実をはかっていたので、「考える数学」を勉強していくためにも、鬼に金棒だったと言えるかもしれない。…

「…学校と同じことを、同じかたちで一斉授業としてやるのは、無意味だと思ったんです。だから一般の塾や進学塾はもちろん、予備校にも行かなかった。自分からする勉強がいちばん大事だと思うんですよ。」

…一斉授業が、クラスの全員にいつも「ちょうど」とはかぎらない…。生徒の立場から言うならば、わかりきった授業など聞く必要はないし、反対に、わからない授業など、聞いてもしかたがないのである。
《引用終わり》

最後は鈴木君からのアドバイス。
《以下引用》
・・・勉強をたとえると、学校は正規のクラブ活動で、講座のメニューを組んである一般塾は、朝練習のようなものである。放課後のクラブ活動も朝練習も、まじめにやるのは当然だ。

しかし、他人に差をつけようと思えば、寝るまえの腕立て伏せや、人知れぬボールの投げこみがものを言うではないか。自分に妥協せず、体力づくりをする場所として、公文が適していると思う。
《引用終わり》

私も、公文は体力づくりに似ていると思います。野球やサッカーといったそれぞれの競技に特化した種々のメニューを網羅しているものではありません。しかし、どの競技をするにも共通して求められる体力や運動能力をつけるメニューだけが厳選され、難易度ごとに準備されています。

国数英を体育と同じ技能教科と捉える見方もあります。

《つづく》

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「意識と本質―精神的東洋を索めて」(岩波文庫)
「意識と本質 1」を読みました。

《以下引用》
…だが、このように「本質」が終始一貫して無であり、ないものであるとすれば、結局この現実の世界には本当の意味であるといえるものは何一つなくなってしまうわけで、もしそれでも経験的事実として事物は存在しているというなら、その存在は妄想の所産であり、世界は夢まぼろしのごときものであるということになるのだろうか。事実、通俗的仏教ではそんなことを言う。経典もさかんに現世の儚さを説く。しかし哲学としての仏教はそう簡単にはそのような結論に行くことはしない。なぜなら、大乗仏教の形而上的体験における空には、「真空妙有」という表現によって指示される有的局面があるからだ。「本質」が実在しなくとも、「本質」という存在凝固点がなくとも、われわれの生きている現実世界には、またそれなりの実在性がある。「本質」はないのに、事物はあるのだ。「本質」の実在性を徹頭徹尾否定しながら、しかも経験的世界についてはいわゆるニヒリズムではなく、分節された「存在」に、夢とか幻とかいうことでは割りきれない、実在性を認めるのは、東洋哲学全体の中で、所々に、いろいろな形で現れてくるきわめて特徴的な思惟傾向だが、この東洋的思惟パタンを、大乗仏教において、特に顕著な姿で我々は見出す。

「本質」ぬきの分節世界の成立を正当化するためにこそ、仏教は縁起を説くのだ。だが縁起の理論は、理論的にはいかに精緻を極めたものであっても、実践的にはなんとなくもの足りないところがなくはない。この現実の世界でわれわれが実際に交渉する事物には、縁起の理論だけでは説明しきれないような手ごたえがあるからだ。大乗仏教の数ある流派の中で、この問題に真正面から、実践的に取り組もうとしたのが禅である、と私は思う。
《引用終わり》

この章で、大乗仏教の「本質?」をかなり言い当てているような気がします。「意識の形而上学」にも同様のことがありました。この仏教的視点に触発されて、以前に私が書いた拙いものもありまして、これ以上深い考え方は無いだろうと思っておりましたが、同じく経験界における「本質」の虚妄性を認めるところから出発しながら、不二一元論ヴェーダーンタは大乗仏教とは正反対のテーゼに到達しているそうです。

また、「本質」の実在性を全面的に肯定する強力な思想潮流も東洋哲学の中にはあるそうです。これを、これから見ていくようです。

「禅における言語的意味の問題」「対話と非対話―禅問答についての一考察」という二つの論文が後にありますので、禅に関する興味深い考察はここでなされることと思います。

《つづく》

〈起始〉:腓骨の後面の遠位2/3の領域,下腿骨間膜の後面の遠位部
〈・〉:長趾屈筋の隣でアキレス腱の下(★復溜
〈停止〉:母趾の末節骨底

〈作用〉:足関節▲底屈・足部●底屈▲内がえし・母趾●屈曲する。
〈神経支配〉:脛骨神経〔L5〜S2〕

〈筋連結〉:長趾屈筋後脛骨筋短腓骨筋長腓骨筋前脛骨筋長母趾伸筋

〈触察〉:
・腓骨の後面に沿って走行。下腿部の遠位約2/3の領域の深層の筋腹を腓腹筋ひらめ筋を介して腓骨に向かって圧迫して触察する。
・下腿部の遠位端の外側部でひらめ筋短腓骨筋の間から、筋腹の一部を皮下に触察できる。それ以外の領域での触知は困難。
・足関節では、内側から後脛骨筋長趾屈筋,長母趾屈筋の順で屈筋支帯におさまる。

〈関連痛領域〉
・足の球と足の第1趾

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「心性本浄と客塵煩悩」を読みました。

『起信論』はわれわれの心を妄心(心生滅)と真心(心真如)の二相に分けています。空海は妄念と本心に(『一切経開題』)。

《以下引用》
心性とは心の本性という意味であり、それは本より浄いということで「心性本浄」という。しかし、現在その心(心性)はさまざまな心(それを「客塵煩悩」と言う)に覆われて見えなくなっている。

…心真如(真心)を、今もわれわれは携えているけれども、それが客塵煩悩によって覆われているために、われわれは迷いに迷いを重ねているということだ。そして『起信論』は、心が生滅を繰り返す時間に属しているのに対して、心性を不生不滅という意味で永遠であるとした。その心性が妄りに起こる心(妄心)によって覆い隠されているために、われわれはそれを知らず、それがために生死の苦海(親鸞の言葉)に身を淪める常没の凡夫となって、一向に真実が何であるか分からないでいる。
《引用終わり》

『仏教入門』で高崎直道先生は、煩悩が起こってしまうことに対する説明として、如来蔵思想と唯識それぞれに説明の不十分な点を指摘しています。

が!可藤豊文先生は、「なぜ起こるかは後述」と書いているので、楽しみにしたいと思います。

《つづく》

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くもんのすいせん図書(3Aの23番)「14ひきのおつきみ」を読みました。(小林教室収蔵

きれいでやさしい絵です。14ひき居て、それぞれの名前と顔は表紙に書いてあります。でも、本の中身はみんなで木の上に登って、何かを作ろうとしている。

「おつきみ」というタイトルを忘れて、何をしようとしているんだろう?と思いながら読んでしまいました。

おつきみと言っても、高い所に櫓を組んで、なかなか大事業です。大曲花火大会の桟敷席を思い出しました。

今年も行きたいな…

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くもんのすいせん図書(4Aの48番)「おまたせクッキー」を読みました。(小林教室収蔵

子どもに読み聞かせる形で読みました。これは算数の割り算の問題が次々に出題されるようなお話です。ちょうど長女は割り算をやり始めていたので、ページをめくるごとに出題してみました。

「2人の子どもが6個ずつ食べられるって言ってるんだから、クッキーは全部でいくつあるでしょう?」という感じ。最初は掛け算。2×6ですね。

「そこに二人お友達が来ました。一人分は何個?」
式を略さないで書くと…(2×6)÷(2+2)結構複雑。

そこにまたお友達が…と続いていきます。「割り切れない人数だったらどうするんだろう。」という私のつぶやき。割り算の余りの意味を理解しきれてない長女が分かったかどうか。

日常のちょっとした出来事ですが、結構ドキドキしました。最後は、ほっとする落ちが準備されてます。

割り算ていうのは、結局こういう問題を解決するための計算なんだよね〜とつくづく思いました。

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男というのは、服なんか何でもいい、大事なところが隠れてさえいたらいい、という傾向があります(皆が皆じゃないだろうけど)。

家計の中でも、お父さんの洋服に予算が回るのは最後。「文句があったら、もっと稼いで下さい」ということなのでしょう。だから、男は着る物に無頓着なくらいがちょうどいい…

それにひきかえ、女性はこだわります。何度も着替えては、鏡とにらめっこ。「どっちがいい?」と聞かれます。

そんな状況にうんざりしている時のセリフを取り上げてみました。

「また、着替えんのかよ?」という感じですね。

【グラス片手に大人の公文】英語〔G2-042〕

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新「公文式算数のひみつ」の「第二章 計算だけで数学力がつくひみつ」を読みました。(小林教室収蔵

《以下引用》
ここで断っておかなければならないが、学校で勉強する内容をすべて、「あれも、これも」取り入れて、わが子に学習させようとするならば、一日わずか30分の学習で、小学生のうちに方程式に到達することなど、ほとんど不可能であろう。
《引用終わり》

これは公文式の創始者公文公さんが自分の息子さん用に問題を選ぶ際に心がけたことです。そして、それは現在の公文式の教材の特長ということになります。

そのため、一見、計算問題のみに公文式は偏っているのではないか?という批判があるのも事実です。

《以下引用》
「いずれにしても、計算問題であれば、多少なりとも時間をかければ、機械的に正解が出てくるはずだ。数学において大切なことは、時間がかかってもよいから、自分で考えて答えを見出すことである」と。
《引用終わり》
私も学生時代は、こう考えている口でした。つまり、数学の問題を解くスピードは余り気にしませんでした。

この本でも紹介されていますが、計算のスピードにはかなりの個人差があります。実際の試験では、単なる計算問題も点数の上でかなりのウェートを占めているわけで、計算が速くなっただけでも成績は良くなるはずです。計算問題を軽視する、解く速さを重視しない考え方は現実的ではありません。

さらに、
《以下引用》
…計算もろくにできない子どもが、「考える数学」に取り組むなどということが、現実において可能であるとは、とうてい考えられない…
《引用終わり》
単に計算と言っても、割り算を速くこなすには、頭を使って考えないとダメです。約分・通分をしながらの分数の四則混合の計算は、微積分などの高等数学より、ひょっとしたら頭を使ってるような気がします。

図形の問題や証明問題は公文式の教材の中に無いわけではありませんが、ボリュームとして少ないのは私も感じました。でも、証明問題のような論理的思考は論理的な文章に触れることで身についていくもので、国語で養われるという説明も説得力があります。

スランプを打破するために、公文の教室では集中学習を、月に一回くらい行います。これは、いまやっている段階よりも一学年分簡単な教材を、30分間でできるとこまで何枚でも連続してやるというものです。これによって、処理能力(前回は作業力と書きました)が身に付きます。

計算力と、論理的思考と、処理能力。いずれが欠けても「考える数学」などできないのではないでしょうか。少なくとも「数学に計算力は要らない」とは誰も考えませんよね?

《つづく》

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「瞑想の心理学」(法蔵館)
序章「『大乗起信論』概説」の「心真如と心生滅」を読みました。

《以下引用》
この心の真如の相(心真如)はすなわち摩訶衍(大乗)の体を示すが故なり、この心の生滅因縁の相(心生滅)は能く自らの体と相と用を示すが故なり。(『起信論』23)

とあるように、『起信論』はわれわれの心を心真如(真心)と心生滅(妄心)の二相に分ける。そして、心に二相あることから、サンサーラ(生死)の世界とニルヴァーナ(涅槃)の世界に分かれてくるのだ。妄心(心生滅)ならば世間法、すなわち生死輪廻する世界に入っていくが、真心(心真如)ならば出世間法、すなわち涅槃の世界へと帰っていく。このように、心が二相に分けて考えられているところに、『起信論』における心の理解の大きな特徴がある。

これと同じ文脈で言われているものに、無着の「二分依他」(『摂大乗論』)をあげることができるだろう。「生死とは、謂く依他起性の雑染分なり。涅槃とは、謂く依他起性の清浄分なり。」

…このように、われわれの内側には何の脈絡もない想念が途絶えることなく流れているが、われわれはその事実にさえ気づいていない。この心(妄心)がわれわれを生死の絆に繋ぎ止め、あらゆる問題を作り出していることから、いずれ方法論を扱うところでこの心と取り組むことになるだろう。そして真心を知ることで、サンサーラの世界はニルヴァーナの世界ともなる。これが『起信論』が、そして、これからわれわれが辿ろうとする道なのだ。
《引用終わり》

『意識の形而上学』では「真如の二重構造」として取り上げていた内容だと思われます。

『唯識入門』での参照箇所はここら辺でしょうか。

いろいろ読み比べながら、理解を深めていきたいと思います。

《つづく》

〈起始〉:脛骨の後面,下腿骨間膜
〈・〉:後脛骨筋の隣(★三陰交★漏谷★照海★交信),後脛骨筋の隣でアキレス腱の下(★太谿),長母趾屈筋の隣でアキレス腱の下(★復溜),アキレス腱の下(★大鐘
〈停止〉:第2〜第5趾の末節骨底
〈作用〉:足関節▲底屈・足部●底屈●内がえし・第2〜第5趾●屈曲する。

〈神経支配〉:脛骨神経〔L5〜S1〜(S2)〕
〈筋連結〉:長母趾屈筋後脛骨筋腓腹筋ひらめ筋

〈触察〉:
・脛骨の後面に沿って走行。腓腹筋ひらめ筋を介して脛骨に向かって圧迫して触察する。
・下腿部の遠位約1/2の領域の内側部で脛骨とひらめ筋の間から、筋腹の一部を皮下に触察できる。それ以外の領域での触知は困難。
・停止腱のすぐ後外側方を脛骨神経と後脛骨動脈が走行する。
・足関節では、内側から後脛骨筋,長趾屈筋,長母趾屈筋の順で屈筋支帯におさまる。

〈関連痛領域〉
・下腿内側面
・中央足底面

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」

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