トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年03月

〈起始〉:脛骨の外側顆,脛腓関節包,腓骨の腓骨頭と外側面の近位1/3の領域および外側縁の中央1/3の領域,前下腿筋間中隔,後下腿筋間中隔,下腿筋膜
〈・〉:短腓骨筋の上でアキレス腱と隣接(★崑崙),短腓骨筋の上で下伸筋支帯と隣接(★申脈),短腓骨筋の上(★金門),ひらめ筋と隣接(★外丘),★陽陵泉★陽交★光明★胆嚢点
〈停止〉:内側楔状骨,第1(2)中足骨の底

〈作用〉:足関節●底屈・足部●底屈●外がえし
〈神経支配〉:浅腓骨神経〔(L4)〜L5〜S1〕
〈筋連結〉:長趾伸筋第三腓骨筋大腿二頭筋の長頭,短腓骨筋長母趾屈筋ひらめ筋足底筋

〈触察〉:
・足関節では:前側から短腓骨筋,長腓骨筋の順で上・下腓骨筋支帯におさまる。
・走行方向:腓骨の捻れた形状に沿って、腓骨の外側面を、前頭方から後尾方に螺旋状に走行する。
・下腿近位1/3:長腓骨筋の筋腹のみが、腓骨の前外側面を覆う。この筋腹を脛骨外側顆まで辿る。
・下腿中央1/3:浅層の長腓骨筋と深層の短腓骨筋の筋腹が重なって、腓骨の外側面を覆う。
・下腿遠位1/3:短腓骨筋の筋腹のみが、腓骨の後外側面から後面を覆う。自動的に、足関節を底屈,足部を外反させると、長腓骨筋の停止腱が腓骨外果の後外側方に視察できる。

〈関連痛領域〉
・下腿外側(★陽陵泉)
・外果の周囲

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」
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「三教指帰」(角川ソフィア文庫)第一章「亀毛先生の主張」を読みました。

青年空海が、自分は仏教を目指します!という決意表明の書です。手がつけられない非行少年の蛭牙公子を儒教・道教・仏教の三方向から説得を試みるという筋書き。

三章構成で、第一章は儒教編。水が低い所を目指して流れるように、人間も自然に快楽の方に流れるもの。でも、それではケダモノと一緒。善い方向を目指さなければなりません。人は磨けば必ず光るもの。あなたも才能を磨けば、栄達の人生も夢ではありません。…といった内容。

阿刀大足からなされたであろう説教も、大筋はこんな感じだったのでしょう。

私が子供の頃、年配の人から聞く説教もこんな感じだったように思います。千数百年もの間、最も多かったであろう説教のテンプレートがここにあるような気がします。

《つづく》
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公文式の国語の教材F1についてです。

・小6の漢字から102文字学習します。
・指示語やさまざまな表現(換言・例示・描写・比喩)に着目して文章全体を解釈する力を養います。

すいせん図書は、
G-1「兎の眼」
G-2「クリスマス・キャロル」
G-3「坊っちゃん」
が使われています。

《F2教材に進む》
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くもんのすいせん図書(Cの1番)「おしゃべりなたまごやき」を読みました。(小林教室収蔵

とっても穏やかなタイトルなんですが、この話は推理小説ですね、犯人が分かっているから倒叙のタイプ。

お城の鳥小屋の戸を開けたのは誰か?ということなんですが、当初、被害者だと思われていた男が犯人です。この犯人は大胆不敵にも「犯人を捕まえて牢屋に入れろ!」と家来に命令します。

証拠品の隠滅も図っています。かなり悪質!?

実際の王宮だったら、この程度の事件は起きていそうですね。こんないたずらな王様が居てもおかしくないです。

犯人を示す証拠となるのが、おしゃべりなたまごやき。これをタイトルにするのもミステリーっぽい構成です。

「たまごやき」とするか「めだまやき」とするかで迷った形跡が感じられます。「たまごやき」と方が子供にも分かりやすいけれど、しゃべりだすきっかけを考えると「めだまやき」の方がいいということなのかな…。
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日本語ではテレビゲーム、英語ではビデオゲーム(しかも複数形で使われるのが普通らしい)。さらに、録画の主体がDVDとかHDとかBlueRayとかに移っていってからは、「ビデオ」という単語も余り使わなくなったんですが…。

DSとかパソコンとかケータイアプリとか、ゲームも多様化してますが、video games でいいんでしょうか?まあ、それはおいおい調べるとして、うちの子もDS大好きです。この表現は毎日使う機会があります。

【グラス片手に大人の公文】英語〔G2-031〕
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くもんのすいせん図書(Gの48番)「晴耕雨読の読書法」の「第一章 読書から教育を考える。教育から読書を考える」を読みました。(小林教室収蔵

この本は公文式国語の解説書とも言えそうです。公文式の国語教材は、海外版では「Reading」と言われているだけあって、読みが重視されています。子供はどう感じるか分かりませんが、私の場合は勉強しているというより読書をしているという感じ。設問は文章の意味を読み取れているか自己確認できますから、かえって楽しい。私の場合は国語教材が一番楽しいです(疲れません)。

しかも、くもんのすいせん図書の一部が抜粋されていますから、その本を手にとって読んでみたくもなります。

それもそのはず。村田さん(筆者)の「読書は楽しくなかったらおかしいんじゃないですか?」という考え方を基に、公文の教材は作られているらしい。

自分が興味を持ったこと、知りたいことが分かった時の喜びは誰でも経験があるはず。そして、読書とはもともと、自分が興味を持ったことを知って行く作業であるはず。だとしたら、読書が楽しくないわけがない。

興味を持っていない本を無理矢理読んでいたり、読むからには何かを掴まなければいけないという決めつけがあったりして、それが読書をつまらないものにしているのではないでしょうか。

これは学校の勉強についてもピッタリ当てはまります。何歳になったら何と何を理解しなければいけない、というのが決められていて、興味関心の有無にかかわらず強制されます。しかも、チャイム(最近は使わない学校が多い?)に合わせて、みんな一斉に勉強しなければいけない。

嫌いになるのは当然ではないか?

読書は、自分の好きな時間に好きな本に向かうことができるという点で、楽しいはずだし、身にも付きやすいはず。教育は、読書を基本とした自学自習を中心に再構成すべきなのではないか?というのが筆者の考えのようです。

私も実体験からこれに賛成です。複雑な概念になればなるほど、私の場合は人から教えてもらって(授業を含む)はなかなか理解できなくて、自分で解説を読んだり問題を解いたりして理解してきたような気がするのです。

読書では、必ず何かを理解しなければいけないというわけでは無いんじゃないですか?とも筆者は言います。子供が絵本を読むように、何だかわからないけど、何となくこの本が好き!ということで、いいんじゃないか?何度も繰り返し読み返していいんじゃないか?

そんな読み方の提案が、第二章に書いてあるようです。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第六章.唯識の修行論」の「二.さとりの可能性」を読みました。

《以下引用》
…瑜伽行派で問題としたもうひとつのこと、そして日本の法相宗が他宗から批判される原因となったことについて触れておきましょう。…

さとりの可能性は広く仏性とか如来蔵の名でよばれており、大乗仏教は一般にすべての衆生がさとりを得る可能性がある、仏性をもっていると教えるものとみなされております。そのなかで、瑜伽行派の人々は、衆生のなかにはさとりの可能性のないものがあるという主張をもっていました。また、ひとくちにさとりといってもいろいろあり、仏と同じ完全なさとりは、菩薩となったものにだけ可能であり、声聞とか独覚の道を選んだものたちにはそれぞれのさとりはあるが、仏のさとりには至らないとも述べております。…

そして、それぞれは一種先天的な性質によるとして、この先天的な性質を種姓(ゴートラ)と名づけております。この説は「五姓各別説」ともよばれますが、さとりの可能性を生まれによって決め、あまつさえ、まったくさとりの能力のない存在(無種姓)を認めたことが、他の大乗諸宗から批難されたわけです。
《引用終わり》

確かに、これは大乗なのか?という感じ。

《以下引用》
如来蔵思想では唯識説で言う意味の転依、よりどころの転換は成り立ちません。…如来蔵思想ではさとりの原動力は心真如として衆生に本来具わっているというのですから、そしてまよっているのは本来的でない無明がそこにあり、業を起こすからで、この邪魔ものさえなくなれば、心はその本来のあり方を実現する、それがさとりにほかならないというのですから、心自体に変化、転換はないことになります。
《引用終わり》

これに対し、唯識は、
《以下引用》
…アーラヤ識が衆生の本来のあり方、しかし、あるべきあり方ではないとし、そこを出発点とする唯識説では、どうしてもアーラヤ識の自己変革・自己否定がさとりにとっての前提となります。そこを転依と言っているのですから、唯識思想は宗教的回心を重んじる仏教、努力主義の宗教、行の宗教です。
《引用終わり》

また如来蔵思想に戻ると、
《以下引用》
…如来蔵思想は、仏から見た理想論として、仏性の根拠も結局は仏の慈悲のはたらきの絶対性に求めることになります。したがって、そこにのこるのは仏からの救済論であり、それにたいする応えとしては信の宗教ということになります。少なくとも出発点に仏性のあることを信ずることからはじまります。唯識説がどちらかというと自己不信、成仏できるかどうか疑うところから出発し、それを行によって確かめようとする(これはなにほどかキリスト教の新教の救済論――神の召命とその確認のための職業の実践――に似ています)のとは対蹠的です。

そして、仏の立場からものを見る如来蔵思想は、後に密教の起こるに際して有力な基盤となったように思われます。唯識思想は自己変革の思想、如来蔵思想は本来の自己実現の思想とよんでもよいでしょう。
《引用終わり》

性善説と性悪説の違いのようでもあります。自分の思想信条の軸足をどちら側に置くかは別にして、どちらの思想をも踏まえておく必要はありますね。

《つづく》
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〈起始〉:腓骨の遠位部
〈停止〉:第5中足骨の底

〈作用〉:足関節●背屈・足部●背屈▲外がえし
〈神経支配〉:深腓骨神経〔L4〜S1〕
〈筋連結〉:長腓骨筋短腓骨筋長母趾伸筋長趾伸筋

〈触察〉:
・足関節前面で長趾伸筋腱の外側方に密着している。この腱の内側縁を頭方に辿り、長趾伸筋との境を触察する。尾方は下伸筋支帯の高さまで、腱の外側方に筋腹が付着する。第5中足骨底の背側面の方向に、距骨,立方骨の上を圧迫する。
・足関節では:内側から前脛骨筋,長母趾伸筋長趾伸筋,第三腓骨筋の順で上・下伸筋支帯におさまる。

〈関連痛領域〉
・外果前部(★解谿)と足の近位背側全面(★中封★衝陽★足臨泣)
・踵の外側面全面(★崑崙★僕参

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」
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ガソリン供給等の正常化のニュースも真実味を帯びてきました。これが最後になることを祈りながら、行きつけのスタンドの給油整理券配布の行列に今朝参加してきました。

「朝7時から整理券を配布します」というメールが昨夜9時ころに届きました。かなりの行列になり、前回は余りにひどかったので6時から配布したとのこと。そこで、朝4時に起きて、並びました。

スタンドを中心に車の行列がとぐろを巻いていて、どこが最後尾かも定かではない。すぐ前の車に付いていくと、最後尾とおぼしき所に並んだので自分も並んでみる。と、すぐ自分の後ろにも車が並ぶ。前の人を信じるしかないけれども、仲間ができると心強い。

月が出ていて、少し明るい。明け方に天気がいいということは、寒いということ。コートを2枚重ね着しても、アイドリングストップの車中でじっとしているのはとてもつらい。

5時前にはだいぶ白んできまして、準備していった本を読み始めました。ページを繰る指先がかじかんでいます。

私の後ろにもどんどん車が並んでいって、もう最後尾は見えません。

6時を過ぎましたが、動きがありません。今日は予定通り7時からの配布かな?と思っていると…

前の方から車が来て、私の目の前で止まりました。どうやら、前の車の知り合いのようです。

「おお!お前!早ぐ先さ行げは!ずっと前の方の3台くらい運転手いねんだ!行列とぎれっだんだじぇ!整理券な配ったんだは。早ぐんがねど無ぐなるは!」

→訳「ねえ!君!早く先に行きなよ!ずっと前の方の3台くらい運転手がいないんだよ!行列が途切れているんだ!整理券はもう配っていますよ!早く行かないと無くなりますよ!」

余りの大声だったので、私の後ろの車にも聞こえたようで、前の車と3台は並ぶのをやめて、スタンドに直行。数十台先で確かに列は途切れており、スタンドまではもう誰もいない!

スタンド周辺だけ、後から来たと思われる車が次々並び始めていて、そこに私たちも並びました。

というわけで、なんとか整理券をゲットしましたが、後ろの車はどうなったのか…

こんな行列は、今回で最後になればいいと思います。
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「復興してからも自転車を乗ればいいんだけどね…」
あるお客様がポツリとおっしゃいました。

ガソリンが無くて車に乗れないからというので、自転車に乗る人が増えました。自転車も売り切れになったとか。復興したら、要らなくなってゴミになるんじゃないか…そういう懸念です。

「戦時中を経験しているから、私たちは全然苦にならないわ。」とおっしゃる方も。

少し前の不便な時代に戻って、物を大切にするようになっているし、エネルギーの無駄遣いもなくなっているでしょう、今は。

歩く人が増えて、近くのスーパーを使う人が増え、今まで買い物で出会うことがなかった近所の人に会うことが増えました。「地震の時はどうでした?」という話題にも事欠きません。

不便の中にも「良い所」を見つけられる我々は、やはり被災者ではないのです。ただ、この「良い所」を復興の後まで維持することができるのか。

のどもと過ぎれば…ということでは、亡くなった方も浮かばれません。
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