トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2011年01月

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イーメイル(e-mail)は動詞にもなるんですね。mail に e が付いたということですね。メル友はe-pal〔G1-011〕。pen palの pen が e に変わったんですね。

メアドを書いた紙をそっと握らせて、耳元でささやくといいんですね…。

【グラス片手に大人の公文】英語〔G1-001〕
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なかなかうまく使いこなせない道具があったとします。「こいつ、なかなか言うこと聞かねぇーな」と、しげしげと見つめた時に、その道具の機能的な形・あるいは構造に気がついて、「こう使うといいのか!」とひらめく時があります。握り方とか力の入れ方とか、それまでの間違いに気づくのです。

それと同じことが、自分の体についても言えます。

一番わかりやすいのは足かもしれません。足は、親指の付け根(便宜上、点Aとします)と小指の付け根(点B)とかかと(点C)の3点で支持するように出来ています。そして、辺AB、辺BC、辺ACのそれぞれがアーチを作り、接地の際の衝撃を和らげる働きをしています。

この三角形ABCを意識すると接地の仕方が変わってきますし、重心がどっちに傾いているかを足裏の感覚から感じ取ることができます。

無意識のうちに体得してした人は、「足」という道具をうまく使いこなしているので、運動が得意だったり、足の故障が少なかったり、転倒が少なかったり、いろいろ得をすることになります。

偏平足の人は、脚を内側にひねった(内旋)使い方をしていると考えられます。辺ACが強く地面に押しつけられるので、ACのアーチに過重な負担がかかりヘタってしまいます。

足の中指の付け根辺りに胼胝(タコ)ができてしまう人は、辺ABのアーチがへたっていると考えられます。また、辺AC沿いにタコができてしまう人は、やはりそのアーチがへたっていると考えられます。

普通の歩き方の場合、かかとで接地してつま先で地面を蹴りますから、体重は点Cに最初かかり、次に辺CB上をBへと移動し、最後に辺BA上をAへと移動しながら足が地面を離れるという流れになります。

こんなふうに、「体の使い方」について、アレクサンダーテク二ークなどを参考にしながら、考えていきたいと思ってます。

トトガメモより加筆転載
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くもんのすいせん図書(Bの3番)「はれときどきぶた」を読みました。(小林教室収蔵

くもんすいせん図書もBグレードになるとページ数も増えます。これまではあらすじ程度のシンプルなお話でしたが、今度は描写が詳しくなっています。

日記は人に見せないもの、だけどおかあさんがなぜか日記にしか書いていないことを知っている…

ブログという、人から見られることを前提とした日記に慣れ親しんで久しいので、何だか「人に見られたくない日記」というのが懐かしい感じがしました。

まあ、ブログの場合でもこっそり書いていて、妻にだけは見られたくないとか、上司にだけは見られたくないとか、というのもあるんでしょうね。そんなドラマもありました。

そういう意味ではこの本は、日記にまつわるお話の草分けかもしれません。素直に面白かったです。小学校時代の自分は、こういう本を面白いと言って読む素直さがありませんでした。

手書きの絵日記が載せてありましたが、これが最後の「たわしのようなジャガイモ事件」の落ちに不可欠です。

続編も読みたくなりました。英語版も読みたくなりました。
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公文式の英語の教材Eについてです。

・一般動詞の文を学習します。同じ目的語・副詞句で動詞が入れ替わるので、語彙や語順を覚えていきます。
・be動詞の文を学習します。補語・副詞句に着目して、語彙や語順を覚えていきます。
・疑問詞疑問文に答える文の中で、さまざまな副詞句に慣れていきます。

D教材からそうですが、5枚構成で、リスニング・復唱・一緒読み・書きという流れになっています。IⅡ教材までこの構成です。

出てくる例文は基本的なものですが、文法という法則性があるらしいぞ…と気づくと、今度はその法則にのっとって自分で文を作ってみよう…という方向に進んでいくと思います。そういう気持ちを持ってくれれば、面白味を感じてくれそうです。

《英語F教材に進む》
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「空海の夢」(春秋社)
「22.呼吸の生物学」を読みました。

「内外の風気わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声というなり」という一行ではじまる『声字実相義』が取り上げられています。その中の偈が紹介されています。

五大にみな響きあり
十界に言語を具す
六塵ことごとく文字なり
法身はこれ実相なり

そしてこれを元に、生物学か生理学の講義のような呼吸の話が結構長く続きます。

私としては、まず、量子力学を想起します。全ての物質の構成要素である原子等の現象を波動関数で解いていくわけで、これはまさに「五大にみな響きあり」です。

「響き」即ち「波」と置き換えれば、フーリエ級数はひとつひとつが単語であり、「言語を具す」という一節も技術者としてはかなりスンナリ入ります。

「六塵とは色・声・香・味・触・法のことをいう」と本書に解説があります。自分を取り巻く周囲の全ての事象、ことごとくが文字であるということになります。これは技術者のみならず研究者一般に言えることと思いますが、研究とは自分の研究対象から何かを見つけ出し解読することと言えます。

何でもない単なる模様と思われていた物が、実は古代文字で、とても高度な内容が書いてあった!という考古学の研究も、落下するリンゴの速度変化から天体の運行さえ予測できる法則性を解読する研究も、文字を読む行為(読書?)として一括りにすることができそうです。

空海という人は、いろいろなことに興味を持ち、宗教・書道・筆の制作・語学・土木・等々、八面六臂の活躍をしますが、「六塵ことごとく文字なり」として、経典に限らず、墨の香り、紙の色、毛の手触り、土の性質・等々を文字として読み、理解していったということなのでしょう。

その文字は読める人には読めるけれども読めない人は文字だとさえ思わないという点で、秘密の文字である…密教の「密」につながるところもありそうです。さらには果分可説へとつながるのかもしれません。

NHKの「こだわり人物伝」で生命誌研究者の中村桂子さんが宮沢賢治について語るのを見ました。中村さんは正に、生体の文字たるゲノムの読者であります。そして、宮沢賢治は、風の音とか星の光とか、身の周りのものから色々な物を読み取った人です。

宮沢賢治は共感覚の持ち主だったのではないか?と中村さんはおっしゃっていました。空海もそうだったのかな?と、ふと思ったりしました。

《つづく》
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ガッテンのダイエット決定版を見ました。体重を毎日測り、運動してカロリーを消費するとともに食欲を減らす、ということでいいようです。今年も春のドックまで、秋から正月にかけて増えた体重を戻したいと思います。

人に尋ねられて「運動なしのダイエットって現実に有り得るのか?」と考えたことがあります。一つだけあると思います。それは「病気になる」ことです。もちろん、体重が増える病気も有りますから、そこは選ばないといけませんが…

何かを食べてダイエットに成功したという話があります。でも、その「何か」に効果があったわけではないということを示す実験が今回のガッテンSPでも紹介されていました。ガッテンの場合は「測るだけダイエット」を加味しなければ成功しませんよ…ということでしたが、もうひとつ成功する場合があって、それは「何か」ばかり食べるという偏食によって「病気」になった場合です。

痩せる薬を飲んでダイエットに成功したという話もあります。でも、いちばん印象的だったのは、漢方薬かなんか怪しい薬を飲んで、心臓がバクバクになって、基礎代謝が増えて、痩せたという話。亡くなった方もいたはずです。これは、薬によって「病気」になった場合です。

運動もせずに、病気もせずに、食べるだけ食べて痩せるというのは、エネルギー保存の法則とか質量保存の法則が成り立つ世界に住むかぎり不可能だと思います。

これを超越する方法があったら、誰か教えて下さい。
《トトガメモから転載》
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「唯識入門」(春秋社)
「第五章.識のはたらき」の「一.識の転変」の「三種の転変」まで読みました。

この章は、虚妄分別が依他起であるメカニズムについて、世親の『唯識三十頌』から読み取っていきます。

どんな種類の我や法の想定(仮説)が行われるとしても、じつに、それは識の転変においてである。そして、その転変は三種である。(第一偈)

《以下要約》
「転変」とは、安慧(ステイラマテイ)の注釈によれば「因の刹那が滅するのと同時に、果が因の刹那とは異なって生ずること」とされています。言わんとしていることは、まず、我法を想定する識と我および法という想定されるものとの間の同時成立と相互影響ということ。もうひとつは、刹那生滅の識の刹那ごとの連続(相続:サンタティ)。このふたつを転変という一つの言葉で表現することで、「縁起」を説明しようとしています。

『倶舎論』では、すべての法は刹那滅で断絶しつつ接続しますから、色法(たとえば身体を構成する諸法)は色法でそれぞれ転変しますが、唯識の理論ではこれが認められていないので、諸法の成立を識との関係でだけ説明しています。(本書に図示)

識の転変の三種とは…
(1)異熟としての転変:主体はアーラヤ識:因としてのアーラヤ識のはたらき。
(2)思量としての転変:主体はマナス:その識の顕現としてのマナス。即ち自我意識。
(3)対象の了別としての転変:主体は六識:「了別」と呼ばれていた六識。

(2)は「我」の観念をつくりだす。(3)は六境に分類される法およびその観念成立の入口たる六根(正式には意根を除く五種)なる法を認識し、判断するはたらき。そして(2)(3)は共に(1)のアーラヤ識からの転変。

識の転変は、アーラヤ識と、思量および了別という二種の転識(現に機能している識)との間の相互関係であり、識の内部での相互作用ということになります。が、刹那ごとの識の連続性(同じ性質が刹那を超えて持続すること)はもっぱらアーラヤ識に託されていると言えます。
《以上要約…詳しくは本書参照》

マナスの連続性とは「自己同一性」のことかもしれません。

《つづく》
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以前、不殺生について考えた時から、人間は生まれた瞬間から二律背反に苦しむさだめ…という憂鬱なとらえ方をしていました。

改めて噛みしめてみて、確かに憂鬱なとらえ方が基本だとは思ったのですが、ちょっと吹っ切れたところもあって、何だか明るい気持ちにもなったのでした。

それは、「不殺生を完全に守ったら、人間は生きられない」ということは、生きること自体が破戒になるということではありますが、「生きる」を認めるなら不殺生の例外も認められるということに気付いたことでした。

人がいなくなってしまったら、仏道も修行もなくなってしまうわけです。だから、「人が生きる」ということは善悪はともかくとして受け止めなければいけない。他者を食べたり他者に食べられたりという衆生のドロドロとした営みは受け止めることになる。

そう考えると、正邪はともかく淫もなければ人は生まれてこないわけで、これも受け止めざるを得ない。で、結局、十善戒ことごとく必要悪として受け止めざるを得ない部分があるのではないか…

淫を受け止めたのが理趣経だ!という言い方をしてみると、空海という思想家、真言密教という思想に、現実的なものを感じました。

そもそも、宗教は生きた人間が修めるもの。死んで生まれ変わったところにしか希望が持てないような教えでは話にならない。つまり即身成仏を唱えなかったら、何の意味があるのか?

人間が生まれ出ることを受け止めずして何とするか、例えそれが暗いものであるにせよ。
人間が生き続けることを受け止めずして何とするか、例えそれが他者の冥い死の上に成り立っているにせよ。

この吹っ切れが結局なににつながったかと言いますと、「金を稼ぐ」ことで感じていた罪悪感を軽くしたのでした。獲物を追いかける雌ライオンのように、仕事も頑張らないといかんな…と思ったのでした。
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〈起始〉:大腿骨の大腿骨体の前面
〈停止〉:膝蓋骨の膝蓋骨底(一部は膝関節筋として膝蓋上包後面に付き、屈曲位から伸展する際、上包を上方に引っ張る)

〈作用〉:膝関節●伸展
〈神経支配〉:大腿神経〔L2〜L4〕

〈筋連結〉:大腿二頭筋の短頭,大腿直筋外側広筋内側広筋大殿筋大内転筋,膝関節筋

〈触察〉:
・前部:大腿直筋の深層に位置する。大腿直筋の内側縁または外側縁に指を押し込み、大転子のすぐ尾方の高さから膝蓋骨まで、大腿骨に向かって圧迫して触察。大腿骨の前内側面にも存在する。
・外側部:大腿直筋の外側縁より外側方で、大腿骨の外側面を覆う筋腹。大転子の高さから大腿骨の外側顆から2横指頭方の高さまで、大腿骨に向かって圧迫して触察。中間広筋と外側広筋の区別は困難。
・後部:大腿骨の後面から起こり、大腿部の前面に回りこむ筋腹。大転子の高さから大腿骨の外側顆から2横指頭方の高さまで、大腿骨に向かって圧迫して触察。中間広筋と外側広筋の区別は困難。

〈関連痛領域〉
・大腿前面(★居りょう★髀関★陰廉★足三里★箕門)と膝

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」
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くもんのすいせん図書(Bの2番)「一休さん」を読みました。(小林教室収蔵

「一休さん」の話は子供のころ大好きだったのですが、あらためて読んでみると、いろいろ引っかかるところがありました。

例えば「うしろむきでおきょう」ですが、仏壇のろうそくの火を息で消してはダメだというのは決まりとしてあるわけで、それを素直に受け入れないで屁理屈をこねるのは何とも感心しません。

後ろ向きでお経をあげるくらいならまだかわいいですが、毛皮を着たお客さんを門前払いしたり、仏像を叩いたり茹でたり、水飴を盗み食いした上に和尚さんが大事にしているせとものをわざわざ割って偽装工作したり…かなり悪質です。

こんな話を子供のころ好んで読んでいたのかと我ながら驚いたし、よく非行に走らなかったものだと思いました。

おとぎ話は残酷な方がいいという話もありましたから、それでいいのかなとも思いますが…。
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