トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2010年12月

標準料金(鍼灸なし・33分触察)の目安
1人:【昼】1900円【夜】2000円
2人:【昼】1800円【夜】1900円
3人以上:【昼】1700円【夜】1800円

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で…
・1642円(午前9時〜午後6時)
・1742円(上記以外の時間帯)
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・1人の場合:308円
・2人の場合:208円
・3人以上:108円

追加項目:
・当日申込は100円
・鍼灸は1体位あたり100円の他、鍼20円(1本)、灸20円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)99.5は10月のものです。

・12月の価格
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悟りへの道 に参加中!
「空海の夢」(春秋社)
「17.イメージの図像学」を読みました。

《以下引用》
…カイヨワはその著書『反対称』のなかでこのように書いている。「確立された完全な対称の中に、部分的で偶発性のものでない破壊が突如として生ずることがある。この破壊はすでに形成されている平衡を複雑にする。このような破壊が厳密な意味での反対称である。反対称は、結果として、反対称が生じた構造あるいは組織を豊かにする。すなわちこれらに新しい特性を与え、より高度の組織の水準に移行させる」。…

マンダラにもそれがあてはまる。マンダラが全体においては大同の対称性を求め、かつ部分においては小異の反対称を演じているという知られざる秘密をこめていることは、「ゆらぎの科学」が発達するにつれ、今後さらに興味深いテーマになってくるにちがいない。
《引用終わり》

この文章が書かれたのは、プリゴジンの散逸構造論が注目を集めたころだったろうと思われます。「ゆらぎ」は扇風機の制御にも使われ、とても身近なものになりました。「ファジー」はボケたときの言い訳によく使われました。

昨年これを語るなら、益川敏英先生らの「対称性の破れ」が使われたかもしれません。

《以下引用》
さきに、空海は『即身成仏義』において「須弥山=宇宙身=マンダラ」という等式を発見したと書いた。空海は須弥山を六大に同定したのである。これを一口に「随類形の構想」と名づけてもよいかとおもう。

随類形とは類にしたがって形をあらわすこと、仏教用語では所生、すなわち「生みだされるもの」の意図である。空海は六大を能生、すなわち「生みだすもの」ととらえ、その六大が四種法身とマンダラと三種世間を生みだすと考えた。六大という能生によって、マンダラなどの所生がもたらされていることである。ソシュール言語学でいうのなら、所生を「シニフィアン」(指し示すもの・意味するもの)と、能生を「シニフィエ」(指し示されるもの・意味されるもの)とみなしてもいいだろう。しかも空海にとっては、この能生と所生は不即不離なのである。マンダラは「生みだすもの」と「生みだされるもの」の関係の同時性のうちにとらえられるべきものだったのだ。日本語にもしばしば「造作なく」という用法がつかわれる。造(な)すというも作(な)されるというも、これは両義的な象徴表現である。空海はそこを一口に「法爾の道理に何の造作かあらん」と書いていた。
《引用終わり》

この世はすべて造作ないこと。造作なく生きればいい…。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第三章.さとりのプロセス」の「二.得ることと得ないこと」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第七偈が出てきます。

(1.7)それゆえに、得ることは得ないことを本性とするものであることが証明された。それゆえにまた、得ないことと得ることは等しいことが知られる。

《以下要約》
「得ること」は唯識ということの認識、「得ないこと」は対象の得られないこと(対象を知覚しないこと、対象の非存在)および認識作用の非存在。

唯識と知ることが唯識という状態になること、能所の対立のない状態になること。逆に言うと、識が所取・能取となって顕れることが、まよいの世界の成立と言えます。

ただし、まよいの世界成立以前の、識のみの状態とは、あくまでも理論的な要請です。われわれのあり方は、無始時来、能所対立の世界です。仏教はそこから出発します。しかし、さとりによって到達できるのは、本来そうあるべきだから、というのもまた、仏教の考え方の特徴です。

さて、ブッダが法を弟子たちに説いているとき、ブッダの意識には能所の区別はないのか?という疑問が生まれます。答えは「分別はある」ということになります。

ブッダといえども、人間の姿をとって(他の衆生でも構わない)顕れているかぎりは認識作用(智)があって、自他を区別し、法を認識し、意識している自分を意識しているはずです。

その点はさとっていないわれわれと全く同じです。

ブッダが我々と異なるのは、真実においては唯識であると知っていること、一度、唯識の状態になったということです。

そこで、一度、無分別智を得た後で現れてくるものという意味で「後得智」と呼び、「清浄なる世間的な智」と規定しています。分別という点では「虚妄分別」と同じですが、その虚妄性を自覚している点が全く違います。

これは、究極の立場と世間的方便の立場、第一義諦・勝義諦と世俗諦という考え方に見合うものです。

仏のあり方でいうと、法そのものとなった仏(法身)と、それに基づいて他者に法を説く仏としての受用身(浄土にあって菩薩のために法を説くほとけ)、変化身(穢土つまり娑婆世界で、凡夫のために法を説くほとけ)という三身説に呼応しています。
《以上要約…詳しくは本書参照》

ここで「龍樹」のブッダの章を読み返してみましたら、以前と違った文章に感じました。理解が増したということかもしれません。

《つづく》
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「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…文字ひとつひとつの書体を変えていた書家がいたと言う…

ひとつの文章で、書体を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ワープロと同じじゃないか。それじゃあ、手書きの意味がないじゃないか。

「書は人なり」というけれど…

ひとつの人生で、自分を統一する必要など、実は無いのだ。それじゃあ、ロボットと同じじゃないか。それじゃあ、生身の人間の意味がないじゃないか。

我を忘れて…エゴを忘れて…

でも、

自分に束縛される苦悩と、自分が見つからない苦悩と、

どっちが辛いんだろう…
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〈起始〉:坐骨の坐骨結節
〈・〉:大殿筋の下
〈停止〉:内閉鎖筋の腱

〈作用〉:
股関節●外旋。深層外旋六筋のひとつ(外閉鎖筋内閉鎖筋上双子筋,下双子筋,大腿方形筋梨状筋)。

〈神経支配〉:仙骨神経叢〔L4〜S1〜(S2)〕
〈筋連結〉:内閉鎖筋

〈触察〉:
・補助線1:尾骨の下端と、大転子の近位端から1横指尾方の部位を結ぶ線。内閉鎖筋上双子筋,下双子筋の筋腹の位置に相当する。
・補助線1の外側1/2の領域を指標にして指を押し込み、頭尾方向に動かすと、3筋の筋腹が一塊で触知される。
・その筋腹の中央部を内外側方向に走行する約1cm幅の腱が内閉鎖筋の停止腱。これに接して頭方の筋腹が上双子筋、尾方の筋腹が下双子筋。

〈関連痛領域〉
・該当なし。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」
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くもんのすいせん図書(Aの4番)「あひるのバーバちゃん」を読みました。(小林教室収蔵

あひるという鳥は顔も歩き方もユーモラスで、「どこへおでかけですか?」と聞いてみたくなる感じです。そこから広がる空想をそのまま絵本にしたようなお話です。

そう言えば、車の下にもぐって修理している人が、実は車に轢かれたんじゃないかとか、眠っているんじゃないかとか、というのもよくある空想です。

修理している人がよく着ているポケットがたくさんついたつなぎの作業服。それはポケットがたくさんついたリュックをどこか連想させます。

そんなふうに話を追っていくと、作者の勝手な空想の流れが分かるようだし、それをそのままお話にしたという、どこかのどかな、アヒルの散歩のような、作者の創作のプロセスを思わせます。

そこがまた楽しいし、それがロングセラーとなる魅力なのかもしれません。
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平均:2044円
最安値:1700円
最高値:3000円

初診者と紹介者1000円キャンペーンは継続中です。

・10月の実績
・11月の価格
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「空海の夢」(春秋社)
「16.カリグラファー空海」を読みました。

《以下引用》
…「書は散なり」とは、空海の書のみならず、その思想の特徴を知るうえでもすこぶる重要な指摘である。書を散らして書きなさいというのではない。書する心のほうをあれこれ景色にあてがいなさいと言うのだ。景色とはまた気色であるが、ようするに対象に陥入してアイデンティファイするということなのだ。

ふつうアイデンティティは自己同一性というふうに解釈されて、主体性の一貫を申しひらく意味につかわれる。簡単にいえば「自分らしさ」である。けれどもこれは近代自我がつくりあげた勝手な弁論だった。本来、個人主義的な主体性などというものはない。ましてそれが一貫するなどということがあってはたまったものじゃない。それではただひたすら「私」という得体のしれぬ者の筋を通すために、他は犠牲になるばかりである。…

しばしば文字を見れば人がわかると言われる。そうだろうか。文字を見て人がわかるとは、その人が自分にこだわっているさまがよくわかるという意味である。エゴイズムが見えてくるということにすぎない。

空海の書は入唐後、そのエゴイズムをこそ脱しようとした。文字を見て人をわからせるのではなく、文字を見て万物をわからせるほうに努力を傾注したのだった。これがなかば批判がましく空海の雑体書風とよばれる当の本体である。

《引用終わり》

空海がその場面に合わせて書体を変えていたことは知っていましたが、「益田池碑銘」では文字ひとつひとつの書体を変えていたそうです。

「星」という字は星らしく、「湖水」という字は湖水のように、「鳥」は鳥らしく…

書のような絵というか、絵のような書というか。Sing like talking というか、Talk like singing というか。

《つづく》
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「唯識入門」(春秋社)
「第三章.さとりのプロセス」の「一.無の相への悟入」を読みました。

『中辺分別論』第一章「虚妄分別」の第六偈が出てきます。

(1.6)得られることにもとずいて、得られないことが生じ、得られないことにもとずいて、さらにまた得られないことが生じる。

《以下要約》
注釈によると…
唯識(すなわち、実在するものはただ迷乱の虚妄分別のみである)ということが「得られる」と、識のみで外界は存在しないから対象の「得られないことが生じる」(すなわち、対象は非存在である)。これにもとずいて、唯識ということについても「得られないことが生じる」。このようにして、知るもの(識)と知られるもの(対象)との二者は、無の性質のものであることを理解し、悟入するのである。

注釈では、この過程を「無相に入る方便」と呼んでします。「無相」は「無・非存在の相」で、円成実性としての所取・能取の無いすがた。虚妄分別もありません。

最初の「得られる」は唯識と知ること、一切は唯だ識のみであるとさとることです。実在するのはただ虚妄なる分別のみ、と知ること。

この唯識の認得が生じると、「対象の得られないこと」、対象の不認得、無知覚が生じます。所取や能取としての顕現を知覚しなくなる。「我」や「法」を実在と認識しなくなる。

「対象の得られないこと」は「対象は存在しないと認得すること」というふうに読み換えれば、第一の「唯識と理解すること」と同時成立します。でも、まだそこには対象が残っています。本当に対象がない状態になるというなら、そこには対象の認識という行為もなくなり、識のみがあるということも成立しなくなります。

このときの修行者の意識はもはや虚妄分別とは呼べません。あえて呼ぶなら「無分別智」、または「唯識性」と言います。唯識説成立以前の伝統的言い方をすれば般若波羅蜜ということになります。

唯識という状態になりきったあと、対象認識をしないので識とは呼べないことになりますが、所取の分別をしない認識、対象を見ない認識、認識しない認識が残ります。これを「智」と呼びます。

これを「識を転じて、智を得る」(転識得智)と言います。
《以上要約…詳しくは本書参照》

高崎さんの解説はとても丁寧です。

《つづく》
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先日思いついた宇宙観…


かん細胞とがん細胞のように

浄と穢が紙一重の要素

しかも独立にはその状態を保ち得ない要素

宇宙は構成されている

私たちも構成されている

ことばも構成されている


だから

ことばがすべてを語ることもありうる

私たちがすべてを理解することもありうる

私たちが浄なるものそのものになることもありうる


ゆえに

私たちは心して生きなければならない

少なくとも

そう信じたとき私たちの生き様は変るはずだ
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