トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2010年10月

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「空海の夢」(春秋社)
「10.方法叙説」を読みました。

一度は大学に入った空海です。当時の受験勉強はほぼ暗記力だけが問われたようです。空海は厖大な漢籍を頭に入れていました。『聾瞽指帰』にそれがうかがえるそうです。

《以下引用》
…福永光司さんの空海に迫る分析によると、『三教指帰』の四六駢儷文のことごとくが中国の古典の用例にもとづいて、空海の恣意的な造語はほとんどないといってよいほどだったというのである。…

空海が他の追随を許さないほどの「集めて一つに大成する綜合力」(福永光司)に長けていたことは、空海研究者の誰しもが認めている。私の言葉でいえば、これはエディトリアル・オーケストレーションの妙、すなわち編集構成力というものだ。…
《引用終わり》

私も高校のころ、ウルトラセブンの中のセリフだけで会話をするという遊びを友達としたことがありますが、かなりレベルが違いますね。

編集構成力を空海はどこで身につけたか?ということですが、まず鄭玄の名が挙がっています。詳しくは本書参照ですが、総合的折衷学と比較的方法論に長けた後漢の学者で、『三教指帰』では「北海の湛智」と賞揚されているとのこと。

『後漢書』に、名高い学者の馬融を鄭玄がやり込めてしまい、「吾が道、東せり」と馬融が嘆じたという故事があるそうです。恵果は空海に「我が道、東せん」と言ったそうで、空海は恵果を馬融に自分を鄭玄になぞらえていたとも考えられるそうです。

《以下引用》
…やはり鄭玄の立場は儒教にどっぷりつかっていた。「仏教には鄭玄はいないものか」とおもったことだろう。もし、そうおもったとすればそれは空海の編集思想の感覚の作動を意味している。編集の出発はAに見出したきらめきを異なるBにも見出したいと願うことにある。そこが学問とは異なっている。Aをそのまま突っこんではしまわない。きらめきを多様の中に求めようとする。青年は“仏教の鄭玄”を探したいとおもうことによって、すでに総合的編集思想の第一歩を踏み出していたはずなのだ。…

けれども“仏教の鄭玄”は南都にはいなかった。それははからずものちに空海自身がはたすことになる。そのかわり、「儒教から仏教へ」などというまさに青年の幻想でしかないと一蹴されそうな構想を、現実にもう少しで確立しかかったところで倒れた一人の思索者がいた。青年はその大いなる人の名を何度も聞いたことだろう。淡海真人三船である。…
《引用終わり》

三船の文章の中に次の一節があるそうです。
「六合のうち老荘は存して談ぜず。三才のうち周孔は論じていまだ尽きず。文繁、視聴に窮まり、心行、名言に滞る。三性の間を識るなく、誰か四諦の理を弁せん…」(『大日本仏教全書』)
「老荘思想にはすぐれた感覚があるものの、太虚の考え方はたんなる否定にとどまっていて実在に達していない。儒教は天地の三才を論じるけれど、その根源をきわめない。いずれの認識にも限界がある。三性四諦を説く仏教にこそ今後の可能性があるのではないか。」

奈良時代にも儒仏習合の気運は高まっており、吉備真備が「二教院」という私塾を創ったりしているそうです。この理想は、空海の綜藝種智院に受け継がれているようだ、とのこと。

松岡正剛さんがこの著書と一緒に新聞で紹介されていたのが、まさにこの編集の方法論についてだったと記憶しています。この本の主題が、空海の中に編集者としての姿を見出すことであるとしたら、松岡さん自身が御自分を空海になぞらえているとも考えられます。

《つづく》

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次女はお店に行くと、ダメもとで何でも欲しい欲しいとおねだりをするので、

「そんなに何でもかんでも買えないの!」と言いましたら、
「何で?」と尋ねました。

面倒なので、
「ビンボーだから!」と答えました。
「ビンボー…?ビンボーって何?」

「お金がないこと!」

子どもというのは恐ろしいもので、翌日幼稚園で、お友達に言ったらしいのです。
「うちは何にも買ってもらえないんだよ。ビンボーだから。」
「ビンボーって何?」とお友達が尋ねました。

「お金が無い事なんだよ。」と説明しましたが、
「ふーん…わかんない。」とお友達は答えたとのこと。

「ところでそのお友達って誰?」と聞くと、
「Rくん」

Rくんは開業医の息子さんです。
「そうか…」と納得してしまいました。

ちなみに次女は4歳(1月で5歳)。年中さんです。

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悟りへの道 に参加中!
「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「四.中道と三性説」を読みました。

竜樹は、すべて概念的存在にすぎない、と言ったうえで、それを「中道」だと言っています。その意味は「非有非無の中」すなわち、自性が無い、空、という意味で、それら一切の法は「非有」であるが、概念として想定されているという意味で非無だと言っています。同じものが有でもあり無でもあるということです。

『中辺分別論』でも、「中道」が非有非無の中を表しているのは同じですが、三性という三つの角度から見つめ直しています。

1.「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)
「仮構されたあり方」(パリカルピタ・スヴァバーヴァ)という意味です。
遍計所執性の中に能所のふたつ(〔能〕分別するもの・主体・我 vs 〔所〕:分別されるもの・客体・法)があります。さらに、その遍計所執性〔所〕は、虚妄分別〔能〕と能所の関係にあります。つまり能所の二重構造が成立しています。

2.「依他起性」(えたきしょう)
「他に依存している」(パラタントラ・スヴァバーヴァ)という意味です。
虚妄分別を指します。虚妄分別は我々ひとりひとりの意識のあり方をさしており、ひとりひとり千差万別です。それぞれの過去の経験、知識に基づいて、みな異なった意識内容をもっています。これは他に依存しているということであり、縁起しているということです。

3.「円成実性」(えんじょうじつしょう)
「(修行によって)完成されたあり方」(パリニシュパンナ・スヴァバーヴァ)という意味です。
正しい判断(正智)によれば、「我と法は実在しない」、あるのは「我と法を実在すると考えるところの意識のみ」。即ち「唯識」です。

正しい判断とはさとりのことですから、さとりにおいては虚妄分別は機能しなくなります。しかし、正しい判断として機能しますから、正しく判断するものはそこに残ります。

竜樹の「空」の定義は「一切法には自性がない」ということです。しかし唯識では、「空性とは虚妄分別に所取・能取の二つがないこと」と定義されます。


《つづく》

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高校受験のとき、直江兼続ゆかりの亀岡文殊堂にお参りしました。その時、気づきました。自分の合格を祈るということは、別の人の不合格を祈ることにはならないか?だとしたら、これは祈りではなく呪いではないか?そんな願いに神仏は加担するだろうか?

自分やその周囲だけの利益のために祈ることは、時として呪いになることがある…

不合格が必ずしも不幸とは限らない。長い目で見れば、その落胆から這い上がるために頑張って結果的にはかえって良かったということもあり得る。だから、他人の不合格を祈ることになったとしても呪うのとは違う…と、その時は納得することにしました。

でも、ならば自分が合格だけを願うのはなぜか?合格でも不合格でもどちらでもいいのではないのか?

それから、私は具体的な内容の実現を祈ることをしなくなりました。

入試のように定員が決まっているものは、自分の合格は他の誰かの不合格につながります。幸と不幸の交換のようなもの。

でも、定員が決まっていないようなことでも、自分のあるひとつの願いがかなうということは、必ず他の場所に何らかの影響はあるはずです。

それは、直接身の周りにいる人や物に対してだけとは限りません。バタフライ効果を考えれば地球全体が自分の影響下にあると言えますし、EPR効果を考えれば地球の中だけに限定することすらできないようです。

自分のことだけを考えた時、願いは強く、しかも願いの方向性もシャープに決まります。ところが、目の前のごちそうを食べたいと思っている人間が他にもいて、その人たちのことも考えるということになると、何等分にしようとか、この前は譲ったから今回は僕に頂戴とか、願いの強さも方向性も弱くぼやけたものになっていきます。

視野をずっと広げていったときに、つまり誰をも呪うことにならない願いを設定しようとしたとき、その方向性はしだいにぼやけていきます。

そんな中での祈りとはなんでしょうか?「神の思し召しのままに」とか「仏の教えが普く広がりますように」とか、全く方向性のない、Let it be のような内容になるかと思います。それは一見、受動に徹する生き方のようにも見えますが、似て非なるものではないかと思います。

そんなわけで結局何を願うと言うこともなく、毎日お経を唱えています。

〈起始〉:坐骨の坐骨下枝の前面,坐骨結節の下面
〈停止〉:大腿骨の粗線の内側唇の小転子と内転筋結節の間の領域

〈作用〉:股関節▲屈曲▲伸展●内転▲外旋▲内旋
〈神経支配〉:閉鎖神経〔(L2)〜L3〜L4〜(S1)〕
〈筋連結〉:外側広筋内側広筋長内転筋薄筋,短内転筋,小内転筋,中間広筋大腿方形筋大腿二頭筋の短頭,半腱様筋半膜様筋腓腹筋

〈触察〉:腹臥位で:内転筋結節に終る大内転筋腱を触察。これと坐骨結節を結ぶ線を想定。これに沿って辿る。

〈関連痛領域〉
・大腿部の内側(★陰廉★足五里★陰包★箕門

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
参考文献3「トリガーポイントと筋筋膜療法マニュアル」

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くもんのすいせん図書(Aの1番)「おおきなかぶ」を読みました。(小林教室収蔵

みなさん、おなじみのお話ですね。登場するのは、おじいさん、おばあさん、まご、いぬ、ねこ、ねずみ、です。一人ずつ加わるたびに「うんとこしょ、どっこいしょ」とやるわけです。

綱引きは、引く人の総重量も重要だそうです。摩擦力以上の力で引くことはできませんから、摩擦係数が同じ靴を履いている場合、総重量が重い方が勝つ…というのが理屈です。

ですから、おじいさんだけよりはおばあさんも一緒の方がいいし、二人だけよりは孫も加わって三人の方がいいだろうし、犬もいぬ(いない)よりはいいだろうと思います。

でも、猫と鼠はどうなんでしょうね。あまり役に立っている感じがしません。それよりも何よりも、猫と鼠が仲良く共同作業するなんてあまりにも非現実的な話です。

ロシア民話ということで思い出すのは「3びきのくま」。3びきのくまにはきちんと名前がついていました。

「おおきなかぶ」はどうなんでしょう。おじいさんがミハイルだったりしないんでしょうか。おばあさんがナスターシャだったりしないんでしょうか。ひょっとして、鼠にミシュートカとか名前はついてないんでしょうか?

原作が気になります。

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公文式の国語の教材C1についてです。

・小3の漢字から108文字学習します。
・助詞を学習を通して、主語・述語などの文の成分を正しく捉える力を養います。
・述語の文末表現から「ふつう・ていねい」「過去・現在・未来」を正しく捉える学習をします。
・「受け身」に代表される格変化に応じた述語の変化(ヴォイス:voice:態)を学びます。

すいせん図書は、
D-1「ごんぎつね」
D-2「車のいろは空のいろ 白いぼうし」
が使われています。

《国語C2教材に進む》

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「空海の夢」(春秋社)
「9.仮名乞児の反逆」を読みました。

《以下引用》
…延歴16年(797)、空海24歳。レーゼ・ドラマ『聾瞽指帰』(『三教指帰』)を綴った。すでに阿波大滝嶽によじのぼり、土州室戸崎に勤念をしたと記す空海だった。

戯曲仕立ての『聾瞽指帰』は五段の構成になっていた。亀毛先生論、虚亡隠士論、仮名乞児論、観無常賦、生死海賦の三論二賦である。これは寡黙の青年の内側に巣くっていた仮名乞児が沙門空海として現実化するための思想劇である。これまでの諸見にたいするすべての反駁は、ここに一挙に爆発し、また結晶した。阿刀大足や岡田牛養や味酒浄成らには儒教としての亀毛先生論を、ただ神仙に遊ぼうとした青年たちには道教論としての虚亡隠士論を、そして大安寺や東大寺の僧たちと我と我身の佐伯真魚に対しては、仏教論としての仮名乞児論が突きつけられた。

空海は序文に書いた、「ただ憤懣の逸気にそそぐ」と。

やむにやまれぬ気持ちをここにぶちまけたという意味である。そういえば、かつて『史記』の著者がやはり「憤懣を舒ぶ」と自序に記したものだった。
…《引用終わり》

レーゼ・ドラマとは、演じられることを目的とせず読まれることだけを目的とした戯曲のことだそうです。これは空海のこれからの人生を方向づけた決意表明です。それをそのままストレートに書かず戯曲形式にするというのも洒落てます。

この決意は、遣唐使船に乗って死ぬ思いをしてもぶれませんでした。長安にてサロンの人気者になり、才能を生かして大活躍したにもかかわらず、ぶれませんでした。

《つづく》

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10月16日のバザー、無事終わることができました多くの方々のご協力のもと、予想以上の成果を上げることができました。どうもありがとうございました。

今回のバザーは、
バザーの最初の値付けをそんなに高くしなくてもいいのではないか?
子どもたちも楽しめるバザーもいいのではないか?
という二つの疑問から、見直しを行いました。そして、大雑把な結論ではありますが、どちらにもYESの結果が出たと言っていいかと思います。

に関しては、集まった品物の質や量が今年はたまたま良かった可能性もあって、その点を精密に分析することはできません。

ただ、の体験コーナーの新設により、お子様連れで来場する方が多かっただろうと思われます。体験コーナーそのものの売り上げは大したことはありませんが、バザーへの売り上げアップに大きく寄与したであろうことは多くの人の一致した意見でした。

また、役員として当日のお手伝いをしている人にも、買い物や体験コーナーを楽しんで欲しいという妻の強いこだわりで、いささか複雑なローテーションを組み、皆に楽しんでもらえたことも良かったと思っています。

「バザーの新しい形に挑戦する勇気が今まで持てなかった」と、私たちの勇気を讃えて下さる方もいらっしゃいました。でも、幼稚園の勇気も讃えるべきです。私たちが叩き台として出した原案をそのままOKして下さり、ホール以外の場所も快く開放して下さり、全面的にバックアップをして下さったのですから。幼稚園の理解が無ければ、今回の挑戦は最初から頓挫していました。

幼稚園の先生方のご協力も大変助かりました。役員の方々の働きも素晴らしいものでした。保護者の方々は勿論その他の方々からもバザーに多くの出品をしていただきました。そして、余り天気が良くない中、多くの方が、幼稚園に足を運んで下さいました。

終わってからの反省会では、いくつか改善点の指摘もありました。役員の方々の前向きな気持ちの表れと受けとめています。来年のバザーは来年の方々が決めることですが、今年のことはきちんと引き継ぎたいと思います。

本当にありがとうございました

《つづく》

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「唯識入門」(春秋社)
「第一章.虚妄分別とはなにか」の「三.主観と客観」を読みました。

前出の「能取」と「所取」は、それぞれ「主観」(知るもの)と「客観」(知られるもの)と言い換えることができます。前者は我・私・自己であり、後者はその自己によって知られ、見られ、聞かれ、触られ、経験される一切です。これを仏教では「法」と言います。

但し、木とか石とか個別的存在を区別はせず、色(色や形)、声(音)、香、味、触、心(意識)をそれぞれ法として数えます。

そして「すべての法は実在する」という主張を立てたのが、「説一切有部」です。有部は我という実体は存在しないが、その内容を構成している色などの諸要素(つまり法)は実在する、と解釈しました。能取たる我は実在しないが、所取たる法は実在する、という主張になります。

これに対し、「法も実在しない」というのが大乗の主張であり、『般若経』であり、竜樹でした。

自性(スヴァバーヴァ)というのは、固有のあり方、あるいは自立的存在ということで、他の力をかりずにそれ自体存在しているもの。それは永遠不変に有り続けるはずであるが、そんなものはこの世には何も存在しない。なぜなら、ブッダが教えられたように、全ては縁起したもの、他の力をかりて成立しているものであるから。それは無自性であるということ。この「自性の無い」ということを、自性が欠けているという意味で「空」と表現します。

まとめると、
1.有部は、我は存在しないが法は有る(自性、自己存在、固有、特定のあり方をもった存在である)と主張。
2.大乗は、我もないが、法も実有ではない(自性がない、空である)と反論。
3.その根拠は、すべてのもの(法)は縁起しているから。
4.縁起している=自性が無い=空。

まさにこれが竜樹『中論』の三諦偈「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」の意味するところです。

『中論』の内容がやっと少し分かったような気がします。

《つづく》

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