トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2010年06月

ブログネタ
司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十六」を読みました。

《以下引用》
密教は、宇宙の原理そのものが大日如来であるとし、その原理による億兆の自然的存在、およびその機能と運動の本性をすべて菩薩とみている。さらにはすべての自然――人間をふくめて――は、その本性において清浄であるとし、人間も修法によってまたその本性の清浄に立ちかえり、さらに修法によって宇宙の原理に合一しうるならばすなわちたちどころに仏たりうる、という思想を根本としている。このため文字のみによる密教理解を「越三昧耶(おつさんまや)」として甚だ憎む。

最澄は「筆授」を専一としていることにおいて、越三昧耶を犯しているかのようである。最澄という聡明な器は、そのことを十分理解していたであろう。
《引用終わり》

最澄は天台教学の完成に全てを賭けていたわけで、密教は立場上、成り行きで、その資格が必要になっただけ。密教で仏になろうなどとは毛頭考えていない。越三昧耶は確信犯である。

適切な例えか分かりませんが、交通法規を学び、車の運転方法も机上で完全に理解していたとしても、ハンドルをほとんど握ったことの無い人に運転免許は与えられません。

「実際に運転は絶対にしません。ペーパードライバーを通しますから、ライセンスだけ出して貰えませんか?実際の運転は弟子にさせますから、弟子にしっかり運転をたたき込んでください。」

何度も謝りながら、執拗に無理なお願いをしてくる。最澄の行動は、そんなふうに見えます。それに対して、ついにぶち切れた空海の回答。以下、現代語の部分を抜粋します。

《以下引用》
…自分は不敏であるが、自分の大師が訓えたところをいまから示す。だからよく聴け。

…聞くということはお前の声から聴け、これが声密というものである。

…可視的な理趣とは、要するに目に映ずる万物の現象である。もっと端的にいえばお前さん自身の肉体を見ればよい。他人の肉体にもとめてはいけない。

…要するに理趣とは、お前の声に密があり、お前の目に密があり、お前の心に密があるということである。

…お前は理趣釈経などというが、お前の三密がすなわち理趣ではないか。おなじ意味で、私の三密も釈経なのである。私がお前のからだを得ることができないように、お前も私の体を得ることができない。繰りかえすが、お前は理趣釈経という。お前は誰にそれを求めるのか、求めようがあるまい。また私も誰にそれを与えるのか、与えようもないことだ。

…私が理趣を求めようとする場合、その私(我)とは何か。我に二種類ある。一つは五蘊(人間の心身)という我である。ただしこれは仮の我にすぎない。もう一つの我は、無我の大我である。もしそれ、五蘊の仮りの我に理趣を求めれば、本来仮りの我であるから実体がない。実体がなければ何によってこれを得ることを覓められるであろう。無意味である。しかしいま一種類の我――無我の大我――にこれを求めれば、すなわちそれこそ遮那(毘盧舎那仏――大日如来)の三密である。遮那の三密はいずれの処にあるか。それはすなわちお前自身の三密がそれではないか。決して外に求めるべきではない。
《引用終わり》

これに対して、最澄の反応は余り残っていないそうですが…

《以下引用》
…奈良朝以来、唐文化全般を受容すべくつとめてきた日本としては儒仏道あるいは書画その他ほとんどの分野にわたって書物によって――筆授で――それをうけ容れた。その日本文化の伝統を新来の真言家はほろぼしてしまった、と最澄は長嘆息するようにいうのだが、ひるがえってみればこの長嘆息に最澄の我のつよさを思わざるをえない。
《引用終わり》

それでも、その後、二年半も文通が続いたそうです…。

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「釈尊の生涯」(春秋社)
「11.最初の説法」を読みました。

釈尊が苦行をしていた頃釈尊を見守り、苦行を放棄した釈尊を見限って釈尊の下を去った五人の比丘がいたのですが、さとりを開いた釈尊はこの五人に四諦について初めて説き(初転法輪)、三転という三段階があることを述べます。

第一段:示転:見道の位:四諦の理論を正しく把握する。
第二段:勧転:修道の位:四諦に対する実践修道。
第三段:証転:無学の位:理論と実践とが一致し、体得される。

五比丘は四諦の教えを聞き、法眼を得ました。つまり、四諦や縁起の理論を理解し、仏教的世界観・人生観が確立しました。異教の説に迷わされない信仰確定の状態。

参考文献「仏教要語の基礎知識」

《つづく》


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
人体という小宇宙。細胞というブロックで構成されています。

最初は一個の卵。そこから分裂して、それぞれの持ち場におさまります。脳になったり、心臓になったり、肛門になったり…

皆が共通のDNAを持っています。ひとつひとつは、もともと同じブロックなのだけれども、違う場所で違う働きをして、その「役」を演じています。

脳は王様みたいな「役」、心臓は働き者の「役」、肛門は身分が低い(?)「役」…。

「役」に優劣はあるけれど、もともとは同じブロック。

「立場」に優劣はあるけれど、もともとは同じ人間。

もともとは同じなのに、損な「役」っていうのはある。

もともとは同じなのに、つらい「立場」っていうのはある。

損してもつらくても、そうでない「役」や「立場」に気持ちをうつせたらいいね。

損してなくてもつらくなくても、そういう「役」や「立場」に気持ちをうつせたらいいね。

それが、ひとつの小宇宙を構成するための秘訣…
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

〈起始〉:橈骨の前面で回外筋の停止の尾方,前腕骨間膜
〈停止〉:母指の末節骨の底

〈作用〉:
手関節▲掌屈
MP●屈曲,PIP●屈曲(母指)母指CM▲掌側内転
〈神経支配〉:前前腕骨間神経(正中神経)〔(C6)〜C8〜T1〕
〈筋連結〉:深指屈筋

〈手根管〉:正中神経,長母指屈筋腱,浅指屈筋腱,深指屈筋腱,橈側手根屈筋腱が通過する。

〈触察〉:
浅指屈筋の深層で、橈骨の前面に位置する。橈側手根屈筋の橈側方に指を押し込み、橈骨の前面の遠位約3/4の領域に存在する筋腹を、橈骨に向かって圧迫して触察する。

〈関連痛領域〉
・該当なし。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
くもんのすいせん図書(4Aの5番)「子どもがはじめてであう絵本 第1集」を読みました。(小林教室収蔵

4冊セットです。1冊目でうさこちゃんが誕生します。2冊目と3冊目はお父さんと海や動物園に遊びに行きます。4冊目では、小鳥のために、うさこちゃんが家を作ってあげています。お父さんの大工道具で!

うさこちゃんと言っていますが、実はかの有名なミッフィちゃんなのです。オランダ生まれのお話なのですね。キティちゃんの仲間だと思ってたので、ミッフィちゃんもサンリオだとばかり思ってました

お出かけのときはいつもお父さんと二人で、お母さんは出てきません。夕方になると眠くなってしまう子供なのに大工仕事をしてしまう!という不自然さも気になります。

そこがオランダなのかもしれません…。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

平均:2032円
最安値:1500円
最高値:3000円

・4月の実績
・5月の価格
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十五」を読みました。

この章は、泰範という僧について書いてあります。

《以下引用》
泰範は最澄から天台学を最初にまなび、弘仁元年正月、叡山の学頭になった。もっともこの間のことは、最澄が手をとって天台学を泰範に教えたということは、情景としてはなかったに相違ない。さきに入唐した最澄は、国家からあたえられた任務が請益僧であるということもあって、唐の現地で学ぶことをせず、請益の字義どおりただ経典その他のいっさいをもたらすことだけをして帰国した。最澄はそれらの経典類を叡山の上に据え、それらをみずからあらためて読みはじめた。こういう伝来の仕方を最澄は他の場合において「筆授」といったが、いずれにせよ、書かれたことを読むことによって、叡山の天台学は成立した。読むについては、最澄も読み、同時に泰範も読んだ。双方、請来されたぼう大な文字の量を読みつつ、弟子や後進に教えるというかたちが、すくなくとも数年つづいたであろう。その意味では、泰範は厳密な意味では最澄の弟子ではなく、同学の人だったともいえる。

…帰国後、最澄は国政面における天台宗を奈良六宗と同格の存在にするためなどで奔走し、叡山にいる時間がすくなかった。最澄が請来した経典その他は、最澄よりも泰範のほうが読む時間が多かったかもしれず…
《引用終わり》

悪く言えば、最澄は、唐に本を買い付けに行っただけとも言えます。もちろん、優れた目利きではあったでしょうが。

弘仁二年(最澄帰国後6年目)の八月に、泰範は辞任書を最澄に提出しています。それでも最澄は、翌年五月に遺書を公表し、泰範を自分の後継者に指名しています。しかし泰範は、六月に「謹ンデ暇ヲ請フ」という手紙を最澄に送っています。

こんな遣り取りの数ヵ月後に、最澄が空海に懇願して実現した金剛界潅頂が高雄山寺で行われます。最澄一門が揃って参加していますから、当然泰範も最澄に誘われているのですが、泰範は来ませんでした。しかし、その翌月に行われた胎蔵界潅頂には現われました。そして、そのまま高雄山寺、即ち空海の下に残りました。

最澄は弟子の円澄らを空海に託し、泰範も自分が指示したように取り繕いましたが、泰範だけは自発的な行動でした。

《以下引用》
…この時期の泰範の様子をみるに、高雄山寺潅頂以来空海のもとにゆきっきりになって、もはや最澄のもとに帰って来そうにないことが、たれの目にもあきらかになっていた。泰範が空海とその法流に魅せられていることはどうやらたしかなようだが、それにしても最澄とその法流をそこまで好まないというのも、異常なばかりである。たとえば泰範にして密教が好きというなら、天台にも遮那業という密教部門がある。げんに泰範はそれを学ぶために空海のもとに委託生として留学しているのである。叡山にかえっても遮那業に専一できるはずであるのに、そこまで帰ることを拒むというのは、最澄に対する感情であるかともおもえる。それだけに、最澄も、感情的になっていた。
《引用終わり》

泰範あての手紙で、最澄は自分のことを「被棄老」、つまり棄てられた老人と呼んでいます。

最澄と空海の確執については、どちらかと言うと最澄を善玉、空海を悪玉とする傾向があるそうです。しかし、泰範の一件を考慮すると、最澄側にも言い表しにくい「何か」があったような気がします。

《つづく》


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「釈尊の生涯」(春秋社)
「10.成道後の坐禅思惟」の後半を読みました。

縁起関係はマイナスの面(苦悩とその原因理由)とプラスの面(浄福とその原因理由)があります。

十二縁起を「無明によって行あり…生によって老死愁悲苦憂悩生ず」というように順方向にたどる関係が苦悩の生起するマイナスの面で、流転縁起といいます。無明や業のために流転輪廻して、苦悩を受ける場合です。四諦では、苦とその原因理由としての集とが、これにあたります。

「無明の滅ゆえに行の滅あり…生の滅ゆえに老死愁悲苦憂悩滅す」というように逆方向にたどる関係が苦悩の滅するプラスの面で、還滅縁起といいます。輪廻を断じ苦を滅して、理想の状態に還る場合です。四諦では、滅(理想)とそれへの手段方法としての道とが、これにあたります。

転法輪経で説かれている四諦説は…

苦:生は苦である。老は苦である。病は苦である。憎む者と会うのは苦である。愛する者と別れるのは苦である。求めて得ないのは苦である。要するに執着による身心環境は苦である。

集:性的な官能の欲、幸福な世界に生まれたいという欲、虚無の状態を願う欲、など。これらは輪廻的存在を継起させ、いたずらな喜びやむさぼりを伴い、いたるところで満足を得ようとする誤った欲求である。

滅:上記の誤った欲求を残りなく滅し捨て去り、それを解脱して無執着となること。

道:八正道

《以下引用》
われわれは種々の誤った欲求をもち、それがけっして十分に満足されないところから、あるいは満足されたとしても、誤った行為となって悪い結果を招くことから、苦悩を受けるのである。ゆえに苦悩を受けないためには、誤った欲求を除くようにしなければならない。…心の病気である苦悩を滅するためにも、苦の直接原因としての誤った考えや誤った欲求を除くだけでは不十分であって、その精神生活全体を誤りない健全なものに向上発展させなければ、理想を達成することはできないのである。この意味での身心の全体的な向上発展を計り、人格を完成させていくために八正道という種々の修行の方法が要求される。
《引用終わり》

《つづく》
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
ブロックとは、レゴブロックとかダイヤブロックとかのブロックです。

何でも作れます。自動車もお家も人間も…何でもかんでも。

でも、本物とはちょっと違う。本物の自動車は、自動車の部品でできているから。本物のお家は、お家の材料でできているから。本物の人間は、人間の細胞が集まってできているから。

でも、本当に違うのか?もっともっと分解すれば、全部原子の集まりだぞ。本物は、原子というブロックで作られてるだけじゃないか?

先日の縁起説の説明を読んで、そんなブロック的宇宙観を思い出しました。(自分の中に以前からあったものです)

精神的なものも物質的なものも、全ては生滅変化するものである。何もない所に突如として生じたり、存在するものが全くの虚無になったりすることはない。すべては、因(直接原因)と多くの縁(間接原因・条件)との関係によって変化しているだけである。生とは他のものが形を変えて姿を現すことであり、滅とはそのものの姿がなくなって他のものへと形を変えることである。

生とは、バラバラなブロックが組み立てられること。滅とは、ブロックがバラバラになること。

ブロックがバラバラになれば、今まで目の前に有った物が見えなくなってしまったりします。でも、ブロック(原子)が消滅したわけではない。

ブロックが組み立てられれば、今まで何も見えなかった所に忽然と物が現れます。でも、ブロック(原子)が存在しなかったわけではない。

原子レベルで捉えれば、縁起説の説明はそのまま科学の教科書に載せてもいいような文章です。

ブロックがひとたび「何か」を形成して目の前に現れた時、私たちはそれがブロックの集合体に過ぎないことを忘れ(あるいは気づかず)、「何か」という名前や意味づけにばかりとらわれてしまいます。

「もの」は何でも、(そもそもブロックなのですから)ブロックとして振る舞いますが、私たちは「何か」として見ようとばかりします。

ブロックで作った不格好な塊を、車と呼び、お花と呼び、お家と呼び、夢中になって遊ぶ子供たち。しかし、それを笑う大人たちも、結局は同じ遊びを夢中になって続けているに過ぎないのかもしれない。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

〈起始〉:前腕骨間膜,尺骨の後面,尺側手根伸筋の筋膜
〈停止〉:示指の指背腱膜

〈作用〉:
手関節▲背屈
MP●伸展,PIP●伸展,DIP●伸展(示指のみ)
〈神経支配〉:橈骨神経の深枝(後骨間神経)〔(C6)〜C7〜C8〕
〈筋連結〉:尺側手根屈筋短橈側手根伸筋総指伸筋

〈触察〉:
・手背で示指に向かう2本の腱のうち、尺側方の腱(橈側方は総指伸筋腱)。
・前項の腱と尺骨の遠位1/4の部位を結ぶ線を想定。総指伸筋小指伸筋尺側手根伸筋の深層を走る筋腹を触察する。
・前腕を回内位に保ち、小指伸筋尺側手根伸筋の間から、尺骨骨幹部の後橈側面を頭方に辿る。示指のみを自動的に伸展させると収縮する。

〈関連痛領域〉
・手の背面、示指背側へ。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ