トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2010年01月

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司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の九」を読みました。

《以下引用》…
空海がやったことは国家がやるべき事業でありながら、空海個人の負担によっておこなわれた。最澄の場合、天台教学を移入することは国家が公認している。その経費は国家もしくはそれに準ずる存在から出たが、空海はそうではない。このことは、空海のその後の対国家姿勢にも重大な影響をあたえたといっていい。かれは帰国後、自分と国家・宮廷を対等のものと見た。ときにみずからを上位に置き、国家をおのれの足もとにおき、玉を蹴ころがすように国家をころがそうという高い姿勢を示した。その理由のひとつとして、自分こそ普遍的真理を知っている、国王が何であるか、というどすの利いた思想上の立場もあったであろう、そのほかに、
「自分の体系を国家が欲しいなら、国家そのものが弟子になってわが足もとにひれ伏すべきである」
という気持ちがあった。さらにその気持をささえていたのは、遣唐使船に乗るにあたってかれが自前で経費を調達し、その金で真言密教のぼう大な体系を経典、密具、法器もろとも持ちかえったという意識があったからにちがいない。空海は私学の徒であったとさえいえる。
《引用終わり》

最澄と空海は好対照な点が多々あるようですが、上記の点について着目すると、「官」の最澄、「民」の空海、と言えそうです。

唐への滞在費用から、お土産、日本に持ち帰るもの一切を調達する費用等々、莫大なものです。最澄の場合は、それら全てを国家から準備してもらい、しかもすぐに帰国する予定です。ところが、空海は全部自前である上に、滞在予定は20年。

尤も20年というのは建前で、空海自身はすぐに帰ってくる腹づもりだっただろうと司馬遼太郎は推理しています。したがって、20年分の滞在費用を惜しげもなく必要なものに投入できたのだろう、と。

それにしても、どうやって資金を集めたのか。この能力だけでも素晴らしい。そして、集めた大金をドンと使う度胸の良さ。現代ならば、一代で大企業を創ってしまうような才覚です。

だから、強力なパトロンがいたんじゃないか?という気もします。しかし密教の体系を構築するに際し、遠慮しなければいけないようなパトロンがいれば、かくも完璧な体系は出来上がらなかったような気もします。千利休と秀吉のようなことになりかねないですから…。

謎は尽きませんが、空海は間違いなく超人です、俗世においても。

《つづく》

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NHK に参加中!
NHK「ためしてガッテン」(1月20日放送分)の「最強ダイエット」。10秒でできる!というやつを見たくて、一週間前から心待ちにしていたのですが…、私、それ、少し前からやってました。

まず、それは何かと言いますと、「小腹が空いて何か食べたいな」と思った時に、10秒間、その場でダダダダーッと走るのです。「その場」で走るので、お茶の間とか、どこででもできます。

これは結局、体をストレス状態(戦闘状態)にするんですね。山でクマかなんかで出くわして、急に走り出したような状態になるわけです。アドレナリンが分泌され、血糖値が上昇します。通常の場合「小腹が空いたな〜」というのは、食後数時間経って血糖値が下がったということですから、アドレナリンで血糖値を上げることによって、「間食したい」という欲望を遮断するわけです。

気になるのは、このストレス社会に生きている人を新たなストレス状態に誘うわけですから、危険は無いのだろうか?ということ。ストレスがかかると余計に食べてしまう人も痩せるんだろうか?血糖値が下がらないのに甘いものが食べたい糖尿病の人はどうなんだろう?間食しないのに太っている人には効果は無いのでは?etc.本当に「最強」なのか、疑問は尽きません。

それはともかく、私は、これが放送される数週間前から、これをやってました!

スロー筋トレスロージョギングを実践しているということは以前書きましたが、もちろん既に挫折しています。ゆる〜いと気合いが入らないのです。

それに、やはり、一応は男なので、筋肉をつけたいという気持ちもあります。息がハアハアしないような運動では心肺機能が鍛えられるとも思えません。

そこで、頭にきたから「スロー」をはずして、思い切り速く「お茶の間ジョギング」をしたのです。「ジョギング」ではなくて「ダッシュ」ですね。30秒間やりました。

息はハアハア、翌日は全身疲労と足の筋肉痛。でも、毎日やっていると慣れてくるので、今は60秒のインターバルを置いて30秒ダッシュ2本を1セットにしています。

これを食事の準備ができるまでの間にやっていたので、食欲が減退します。今になって思うと、体はアドレナリンが出ていて食事どころでは無かったのかもしれません。

それでも、目立った体重減少はありませんでした…が、めげずに春のドックまで頑張りたいと思います。

《最初から読む》

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悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「七章 心」の前半を読みました。

これまで修行の実践論が述べられましたが、その主体は何なのでしょうか?修行は自己の心を浄めることと言いながら、一方では無我を説いているのは矛盾ではないか?という問題が持ち上がります。

実践の主体を心とし、六根(眼耳鼻舌身意)の意、五蘊(色受想行識)の識が同じものとされている。即ち、心=意=識。

心は、刹那ごとに生じては滅する存在、一瞬と言えども存続しない存在(刹那滅)である。生まれてから死ぬまでの間は刹那生滅を繰り返しながら、相続(意識の流れ)し、個人存在としての連続性が成り立っている。

《以下引用》
…『般若経』は第一義、究極の立場に立ってすべてをながめるので、その間に差別を見ない。もちろん『般若心経』にあるように、「色即是空」といってすべての特殊性を否定しながらも、「空即是色」とすぐにつづけて、空性に裏づけられた個別性の世界(色・受・想・行・識)を別の立場(世俗の立場、ことばの世界、仮)から承認はしている。しかし、その諸法のうちでの心と、その他の存在、つまり主観と客観の機能的相違点については、何ら言及することがなかった。

この心ともの(対象)、主観と客観との間の機能的対立性ということに目をつけて、新しい理論構築をはじめたのが、瑜伽行派の人たちであり、その唯識説であった。それは『般若経』の立場の解明を旨としたナーガールジュナ(龍樹)とその後継者たち、すなわち中観派の人びとの主張する「空」の説を受けつぎながら、それを一歩すすめ、発展させた説であった。その学説が所依の経典として求めたのが『華厳経』十地品であり、三界唯心の教えであった。唯識説は『華厳経』の唯心説の直接の後継者なのである。…
《引用終わり》

心、アーラヤ識について
《以下引用》
…われわれの存在は、過去から未来につらなる――あるいは、未来のものが現在化して次の瞬間に過去していくという動きをつづけている――意識の流れ(心相続)にほかならない。この意識の流れには、しかしもう一つ、潜在的な、表面に現われない流れがあり、それもまた表面に現われる意識の流れに影響を与えている。そうでなければ、業のはたらきを説明できない。この業をつくるはたらき「心」の機能に求め、またそれを、潜在的な形成力(種子=行=業)をたくわえる場所(貯蔵庫)に見たてて、アーラヤ〔阿黎耶、阿頼耶〕識と名づけた(alayaは蔵とか宅と訳される)。
現在機能した心は、何らかの印象を残す。それが次の刹那の心にはたらきかけるが、同時にその一部はそのまま心に貯えられて、一定の時間をへて発現することもある。…その主客いずれの印象も、アーラヤ識としての心に印象し、それが次後の心の性格を決定し、はたらきを決定する。この印象としての側面から見たとき、このはたらきを「熏習(くんじゅう)」といい、印象を「習気(じっけ)」とよぶ。…
《引用終わり》

心の「意」の側面、マナスについて
《以下引用》
…このアーラヤ識の流れ(相続、刹那滅の継起)に対し、われわれはそれがわれわれの自我だと思っている。すなわち、アーラヤ識を「我(アートマン)」と誤認している。この誤認するはたらきもまた、主観としての意識にほかならない。しかし、機能的には明らかにアーラヤ識とは別である。そこで、このはたらき「意」manasとよんだ。これが自我意識である。…自我意識は、自己の所有(=我所、わがもの)の意識のもととなるし、それはあらゆるものを自己中心に考え、そこに執着をおこす…これを我執、我所執という。それがまた業をひきおこし、結果としての苦を生み、輪廻をひきおこす。自我意識のあるかぎり、苦の滅は望めない。そういう意味でこの「意」は、「汚れたマナス」(染汚の意)とよばれる。
《引用終わり》

心の「識」の側面、対象認識について
《以下引用》
…われわれの「こころ」は潜在意識としてのアーラヤ識(=心)と、それを我と誤認する…機能としてのマナス(意)とを背後にもったうえで、対象認識(識)の機能を営んでいる。この対象認識は、…眼・耳・鼻・舌・身・意の六識にいずれかによって行われる。この機能がいわゆる主観の機能であるが、主観は客観に応じて六種に分かれるだけで、過去した場合は、いずれも意(マナス)の名でよばれる。つまり六識の別は現在だけにかかわるのである。さらに、それは善悪などの性格づけをされるが、それはその心といっしょにはたらく「心所」の機能による。そして、背景に「アーラヤ識」と「汚れたマナス」をもっている点で、善も悪も、一様に「輪廻生存」をつづける力になっている。結局、アーラヤ識→マナス→六識という立体構造をもつ心が、輪廻生存をおこす根元とされるのである。これが、「我(アートマン)」がなくても、何がどうして輪廻するのかという課題に対する最終的解答となった。
《引用終わり》

総じてわれわれの認識にのぼらないものは無いに等しい。われわれは各自が勝手に世界を構築して、そのなかで生きている。われわれが対象としている世界はわれわれの心が仮構したものであり、真実ではない。「唯識」とは「唯だ識のみである」ということで、識は「識によって知られたもの」つまり知識内容として表象の意味である。

われわれはそのような表象の世界に実在感をもち、執着をおこしているのであって、すべて「こころ」のなせるわざである。唯識説では、われわれの認識構造そのものを誤った見方と考え、「虚妄分別」と名づけている。

これによって見られ、知られた所取(識の対象)・能取(識のはたらき)の対立の世界を、仮に構築された世界と言う意味で「遍計所執性」(へんげしょしゅうしょう)と呼ぶ。

表象としての所取・能取を現わしだす虚妄分別そのものは、過去の無明、業の力で形成されたもの、縁起したものという意味で「依他起性」(えたきしょう)と呼ぶ(他に依るというのは、現在の識が過去無限の刹那の印象を受けて、その果として生起している点をいう。アーラヤ識という不変の実体があるのではない、という意味)。

虚妄分別としてはたらき、主客の世界を現出しているアーラヤ識をおいて、ほかに悟りの当体となる心があるわけはない。アーラヤ識がアーラヤ識のままであるかぎりは悟りはないが、それが別の状態になった(転依:てんね)とき、悟りが現われ、涅槃が実現する。

それは、アーラヤ識が虚妄分別としてはたらかず、主客の対立をあらわさないときである。識は能所の対立を表すのが仕事であるから、それは「識が識でなくなるとき」である。「主客が無二」とも、「識が真如と一つになる」とも言われるが、識の機能としてみれば「無分別智がはたらく」といい、「識が智に転換する(転換得智)」ともいう。

この状態は、経典に説かれる法を知り、修行を積んだあとで達成されるので、「完成された状態」という意味で、「円成実性」(えんじょうじつしょう)と呼んでいる。

遍計所執性、依他起性、円成実性を三性と呼ぶ。これは、こころのはたらき方に応じて相互に転換するものであって、決してそれぞれが別の世界ではない。

悟りの世界では無分別智が真如と一つとなってはたらき、対象を見ないと言ったが、仏はちゃんと衆生のことを知り、思いをかけ、その救済に限りないはたらきを示す。その場合、能所の区別はあり、主客による認識構造は具わっている。これを唯識説では、「無分別智の後で得られる清浄な世間智」略して「後得智」と呼ぶ。

仏の心は能所に分かれてはたらきつつ、しかも能所を見ない。

《つづく》


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悟りへの道 に参加中!
規制緩和ということなのでしょうか。

例えば歯医者さんは非常に増えたらしい。その弊害として「年収200万以下の歯科医がいる!」という週刊誌の見出しを見たことがあります。市場規模(患者さんの数)に対して、供給過剰状態になっているということなのでしょう。

これは決して私の場合も他人事ではないのでありまして、鍼灸師も同じなのです。養成のための専門学校の設立に関する規制が若干自由化されたということだと思うのですが、学校が増え、卒業生も増え、資格を取得した人も増えました。歯医者さんと同じく、戦国時代に突入したとも言われているようです。

これは、こういった業種に関わらず、ほとんどの業種で見られることかもしれません。有名なのは、タクシーでしょうかね…

競争の激化を招くため、利用者の利益にはなるかもしれませんが、働く方は大変になります。料金の下落は賃金の下落につながります。かくして、ワーキング・プアが増加するわけです。

これは儲かりそうだ!という業種があると、みんなこぞって参入してきます。そうすると結局、上記の現象が起きまして、ワーキング・プアを生まない業種はどんどん減っていく。

さらに最近は不景気ですから、デフレという点でも料金の下落は加速し、賃金は上げられなくなっている。

格差社会というのが一時期問題になりましたが、格差は大きくてもいいのです、豊かな人が多ければ。プアな人が多いから深刻なのです。ワーキング・プアどころか、ワークもできない人まで増えている…

ワーキング・プアの一人としまして、まず、仕事は選ばずにやることでしょう。さらに、一つだけではやっていけないから、掛け持ちのできる仕事を組み合わせてやっていくしかないかな…と思っています。

先日から展開しております「純粋でない」=「空」という強引な理屈に基づきますと、これは「空」に近いですね。何でもやっているので、何屋さんなのか分からない状態。「無職」ならぬ「空職」。これが理想的だとは思わないけれど、人間の幅は広がりそうですね。

空の職業と言えば、JALも大変なようです…。

〈目的〉:
肩甲上腕関節の不安定性のスクリーニング。

〈方法〉:
患者:背臥位。
術者:肩関節を90°屈曲,内旋位に置く。肘を押さえ、上腕(肩)を検査台の方向(下方)に圧迫する。

〈評価〉:
痛みを訴えたり、「肩が外れる感じ」がすれば陽性(陽性の場合、患者は脱臼を恐れて術者の力に抵抗する)。後方脱臼を疑う。事故直後の触診では、烏口突起の出っ張りが大きく感じられる。

〈メモ〉:
肩甲上腕関節の脱臼は、前方が圧倒的(95〜99%)に多い。

参考文献「整形外科学検査法」

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子育てってこんなに楽しい! に参加中!
悪い子を懲らしめてくれる存在…東北の人間としては、真っ先に頭に浮かぶのは秋田の「なまはげ」。山形県の遊佐町には「あまはげ」というのがいるらしいですが、同じ日本海沿岸ということで、親戚のようなものでしょう。

次女(4歳になったばかり)は、こういうのがとても怖い時期のようです。テレビに出てくると、しばらく金縛りに遭ったように動けなくなります。こうなればしめたものです。2,3日は何でも言うことを聞きます。

「あれ…、言うこと聞かないとあまはげが来るよ。あまはげは、なまはげよりも近くに住んでるから、呼ぶとすぐに来るんだよ。」

これで、突如、別人のように豹変します。君子は豹変す…ちょっと違うか。

さて、先日テレビを見ていたら、またまた悪い子の天敵、親たちのつよ〜い味方が現れました。「牛鬼」です。どこだったか忘れましたが、ネットで調べたら西日本で活躍されている妖怪らしい。テレビに映ったのは、首の長いキリンのような姿をしていて、頭が鬼で、体が牛というもの。場所によっては、その逆なのかもしれない。

大人が何人かで操っていて、妙な動きをするので、大人が見るとむしろ滑稽な感じさえするのですが、子供たちは怖いらしい。泣き叫ぶ子供がたくさん映っていました。

当然、次女も金縛りになりました。「牛鬼」という言葉を口にするたびに、険しい顔をして、良い子に変身します。

夜、熟睡していたのですが、耳元で、
「ああ〜!ウシオニだ!ウシオニだあ〜!」と叫んでみたら、
パチリと目を開けて、泣き出してしまいました。

翌日、公文のプリントをやりたくないと言い始めたのですが、
「あれ〜、昨夜ウシオニが来たんだよね〜、今日も来るんじゃないかな〜。」
と言ったら、それまで間違ってばかりいた足し算がスラスラ解けるようになりました。

牛鬼、おそるべし。

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★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
公文式の国語の教材5Aについてです。6文節程度の文章をひとりで読めるようになることを目指します。

最初の30枚は「なぞなぞ」。
「このどうぶつはなんですか。」
「くびがとてもながいです。」
答え…
「そのどうぶつは、きりんです。」
といった文章を読みます。

次の100枚は「長い文・短い文」。
「さるが、きのうえにいます。」
「さるが、いわのうえにいます。」
といった文章を読みます。

次の20枚は「リズムのある文」。
「いぬがなきます。わんわんわん。」とか、
「すもももももももものうち」
といった文章を読みます。

最後の50枚は「お話を読む」。
おなじみの昔話や童話を読みます。

すいせん図書は、5Aとか4Aです。

この頃から、絵本を自分で読みたがります。今までは親が読み役でしたが、交代で読もう!とか言い出します。

絵本を読んでもらって、親の方が眠ってしまう…ということもあります。

《4A教材に進む》

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司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の八」を読みました。

空海は、遣唐使という形で、7〜9年の空白の中から、突如現れます。

《以下引用》…
かれが正規に得度をして官僧になるのは、遣唐使船に乗る前年である。このころになってようやく僧になる自信を得たかとおもえる。禁欲についての自信を得たということではなく、禁欲という次元からはるかに飛翔し、欲望を絶対肯定する思想体系を、雑密を純化することによってかれながらに打ち樹てることができたときに、僧になってもいいと思ったにちがいない。
しかし、その思想体系は唐にゆかねば日本において公認されないのである。唐の長安には、インドの純密の正系を伝える人物がいるはずであった。多くの未移入の経典をもちかえることも必要であり、あるいはまた密教が冥々のうちに宇宙の意思と交感する以上、どういう所作をすればよいかということを知る必要もあった。さらには所作のための密具も必要であるであろう。それらを持ちかえらねばならないし、それ以上に必要なのは、空海自身がインド密教の伝承を長安において正統に受けることであった。
もしそれをしなければ、空海はただの官僧にされてしまうであろう。

空海はそういう官僧の世界からのがれたいと思っていたし、げんにそれを避けるために得度を遅らせていたのであろう。空海は、かれが展開させようとする野望的世界をもっている。…そのためにはみずから密教を創始せねばならない。しかしそれを日本に居っぱなしでおこなうことはできなかった。
《引用終わり》

遣唐使は、国産の船を、国内の操船技術で動かしていかねばならず、非常に危険なものでした。最低限、死ぬ覚悟は必要で、それだけのリスクを冒してでも唐に渡りたいという人が希望したわけです。行ける人数は今の宇宙飛行士よりも多いでしょうが、生還の確立はずっと低かったことでしょう。

最澄を乗せた遣唐使船は、暴風に遭い、一度断念しています。再度出航する機会を、空海は狙って、得度し、乗船の資格を得るための運動を行ったと司馬遼太郎は推理しています。

《以下引用》
…最澄は、それだけ大仕事をするための一団を組んでいるのである。
最澄自身は還学生といういわば視察者として短期で帰ってくるが、留学生という長期滞在者も連れ、そのうえ、最澄が唐語にくらいというので通訳までついているのである。

《引用終わり》

空海の立場に比べると、かなり恵まれています。こういう人には、どうしても応援したくなくなります。最澄自身が望んでそうなったわけではないということですが…。

《つづく》

就職して最初の冬に買ったPコート。まだ着てます。20年くらい着たことになります。買う時に店員さんが「これはいつまでも着られますよぉ」と確かに言っていたが、それは流行がないからという意味だろうから、こんなに着るとは思わなかっただろう。私も思わなかった…でも、袖のところからほつれた糸が少し出ています。それを着て、銀行のATMに行ってきました。

最近はしゃべる機械が増えました。お風呂、炊飯器、エアコン、カーナビ、などなど。出始めの頃はビックリしましたが、慣れてくると親しみを持ちます。「ああ、そうですか」とか「日本語上手ですね」とか、機械に答えていました。でも最近はもっともっと慣れてきたので、何年来の悪友か古女房みたいは感じで、「あー悪かったね!」とか「わかってますよ!今やろうと思ってたの!」とか言うようになってきました。

さて、ATMに話を戻します。混んでいるのが嫌なので、町はずれにある電話ボックスみたいなATMになるべく行くようにしています。だから、たいていATMと二人だけ。気兼ねなく会話(?)することができます。

その日はまず、画面の横に立てたセカンドバッグが操作中に倒れてきました。
「画面の上に物を置かないでください!」と彼女が言います。
「すみませんね。私も置きたくて置いたわけじゃないですよ!」と私。

それから、タッチパネルで操作したのですが、なぜか押したボタンと違う画面になります。
「アンタ、俺の態度が悪いからって意地悪することないだろう?」と言いながら、操作をやり直すのですが、何度やってもうまくいきません。

「いい加減にしないか!コノヤロウ!」と叫んでは見たものの、相手は機械。意地悪をしているわけがない。故障でなければ、私に原因がある…

と考えて思い当たったのが、コートの袖のほつれた糸でした。指と一緒に糸もパネルにタッチするから、機械が読み取りを間違えるのでした。

自分が悪かったのですし、誰に見られたわけでもありませんが、頭に上った血はなかなか落ち着きませんでした。

皆さんも、古いコートとATMにはお気を付け下さいませ。

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悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「六章 悟りへの道」の後半を読みました。

今回は三学(戒・定・慧)について。前回の八正道は、戒を保ち、禅定を実践して、智慧を得ることに要約され、これが三学にほかなりません。「学」は学ぶというよりも、修行の意に近く、三学は修行道の全体の枠組みとしてしばしば用いられます。

(1)戒
・行為上の諸規範。
・他から強制されるものではなく、自発的に守って身につけなければならない。
・最も基本的なものは、不殺生、不偸盗、不婬、不妄語、不飲酒の五戒。
・大乗仏教では、十善業道(不殺生不偸盗不邪淫不妄語不両舌不悪口不綺語不貪欲不瞋恚不邪見

(2)定
・心を統一し、安定させること。音写して「三昧」「三摩地」と言う。
・心が静止するという意味で「止」(舎摩他)とも言う。
・具体的方法は「禅」と呼ばれる瞑想法が主なので、「禅定」とも言う。
・禅(静慮)は、仏教の教えるさまざまな教理を静かに慮る。これを「観」という。
・禅定は日常生活において心をコントロールすることである。仏典では心の状態を定心と散心にわける。散心は通常の状態をいう。禅定に熟達すると、容易に散心から定心にかわり、また散心にもどる。ブッダはつねに禅定に入っては、その階梯を容易に上下する。そして出定したあとで弟子たちに説法する。修行者もまた同じような訓練をうけるのである。
・その階梯にあたる九次第定(四禅、四無色定、滅尽定)についても、この章にまとめてあります。

(3)慧
・「般若」、いわゆる智慧。悟りに導く知恵。苦の滅=涅槃に導く手段としての知。
・出発点は仏の教えの聴聞、その法を受け入れて、自ら心の中に思いうかべて反芻して正しく知り、その教えに従って実践修行して、その知を深め、最後に悟りに達する。
・入門の初めから悟りにいたるまで段階に応じてはたらくので、聞慧、思慧、修慧に分けられる。「定」の内容として示される観法は修慧にあたる。
・仏と言えども、衆生を相手に法を説いているときは、通常通りの分別の世界にいる。つまり、知るはたらき(主観、能知)と知られる対象(客観、所知)に分かれる。しかし、凡夫のような疑惑、迷い、曖昧さ、不正確さ、対象に対する執着はない。

小乗の利他行:四無量心と四摂法

四無量心
1.「慈」他人に楽を与えること
2.「悲」他人の苦を除くこと
3.「喜」他人の楽を喜ぶこと
4.「捨」喜憂・苦楽を超越した平らかな心

四摂法:衆生を済度摂受する四種の徳行
1.「布施」ひとに慈しみの心をもって接し、財物や教えをよく施す
2.「愛語」ひとに接するに、つねに温顔とやさしい言葉をもってする
3.「利行」つねに他人のために利益となることを行う
4.「同事」自他の区別をなくし、他人と一心同体となって協力する

大乗の菩薩行:六波羅蜜
波羅蜜とは最高完全なる状態の意で、それぞれの徳目の完成ということ。
1.「布施」:在家の場合は財施、出家者は法施。菩薩は衆生に無畏を施すべき。
2.「持戒」:三帰依(仏法僧)と十戒。
3.「忍辱」:忍耐心。苦難に耐えること。忍には、法を真実として受け入れる意もある。
4.「精進」:善を進め悪を止める努力。他の五波羅蜜すべてにかかわる積極的態度。
5.「禅定」:空・無相・無願の三解脱門を観ずる三昧。
6.「般若」:大乗の悟り。真理(真如)と一体となる。「五蘊は〔自性として〕皆空であると照見する」こと。

華厳経では、般若波羅蜜のはたらきの内容をひらいて4項を加え、十波羅蜜が説かれている。
7.「方便」:他人を救済する手段ということで、慈悲にもとづく。
8.「願」:衆生を済度しようとする誓願。
9.「力」:衆生を救う実行力。仏の十力。
10.「智」:以上の諸力の根底にある、世間、衆生のすべてのことを知る智。

《つづく》

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