トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2009年12月

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司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の四」を読みました。

《以下引用》
…中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であった。たとえば中国文明の重要な部分をなすものが史伝であるとすれば、史伝はあくまでも事実を尊ぶ。誰が、いつ、どこで、何を、したか。そのような事実群の累積がいかに綿密でぼう大であろうとも、もともと人生における事実など水面にうかぶ泡よりもはかなく無意味であると観じきってしまった立場からすれば、ばかばかしくてやる気がしない。

インド人は、それとは別の極にいる。

この亜大陸に成立した文明は奇妙なものであった。この亜大陸には、史伝とか史伝的思考とかいった時間がないのである。生命とは何かということを普遍性の上に立ってのみ考えるがために、誰という固有名詞の歴史もない。いつという歴史時間もなかった。すべて轟々として旋回する抽象的思考のみであり、その抽象的思考によってのみ宇宙をとらえ、その原理をひきだし、生命をその原理の回転のなかで考える。自分がいま生きているということを考える場合、自分という戸籍名も外し、人種の呼称も外し、社会的存在としての所属性も外し、さらには自分が自分であることも外し、外しに外して、ついに自分をもって一個の普遍的生命という抽象的一点に化せしめてからはじめて物事を考えはじめるのである。…
《引用終わり》

人生のツボを外し、道を外した私にピッタリ?中国文明は確かに、今も、人種にこだわってますね…

《以下引用》…
空海とは別な方法で科学を知ってしまった後世が、この空海をあざけることは容易であろう。しかし密教の断片において科学の機能を感じた空海のそれと、後世が知ったつもりでいる科学との、はたしてどちらがほんものなのか。つまり自然の本質そのものである虚空蔵菩薩に真贋の判定をさせるとすればどちらがその判定に堪えうるかということになると、人間のたれもが(つまりは所詮自然の一部であるにすぎない人間としては)、回答を出す資格を持たされていない。
《以下引用》

結局、20世紀の物理学者たちも現代科学に虚しさを感じ、インドにその答えを求めたりしました。

《以下引用》…
…十九歳の空海は、文明の成熟の遅れた風土に存在しがちな巫人能力(超自然的な力に感応しやすい能力)をもっていたかと思われる。言葉をかえていえばその感応しやすい体質でもって天地を考えたあげく、それに応えようとしない儒教的な平明さという世界が食い足りなくなったともいえるであろう。おなじことを別の面からいえばかれに儒教的教養があったればこそただの土俗的巫人にならず、ぼう大な漢字量のかなたにある仏教に直進したといえるかもしれない。…
空海はその生来の巫人的体質によって諸霊の存在を積極的に肯定していた。ただかれが、のちにインドにも中国にも見られないほどに論理的完成度の高い密教をつくりあげるころには、そういう卑小の諸霊たちはすべて形而上的になり、ほとんど記号化され、ついにはその体系のなかに消えこんでしまっただけのことである。

《以下引用》

そういう能力の人、めっきり少なくなりました。文明が成熟したということなのでしょう。

《以下引用》…
…諸霊をしずめる方法として、当時の日本には古俗的な鎮魂の作法があったが、しかしどうにも効き目がうすく、そういう神道にかわるべきあらたな効能として仏教が国家的規模でうけ容れられた。日本における仏教の受け容れ態度はあくまでも効能主義であった。たとえば医薬のように効能として仏教がうけ容れられるということは、この思想をつくりあげたインド文明の正統な思想家たちにとって意外とすべきものであったにちがいない。仏教の祖である釈迦はこの点ではとくに厳格で、弟子たちが庶人に乞われて呪術をほどこしたりすることをかたく禁じた。釈迦はあくまでも理性を信じ、理性をもって自己を宇宙に化せしめようとする思想の作業によって解脱の宗教をひらいた。…
《以下引用》

仏教に効能を求めたのは、唐も同じだったようです。中国でもインドでも衰退していく仏教が、空海たちに身を委ね、海の向こうの小国に疎開した…そんなふうにも感じます。

《以下引用》…
仏教が日本に入って二百年になる。
最初のころこそ、壮麗な伽藍と芸術的な礼拝様式、そして金色のかがやきをもつ異国の神々に対して日本人たちは効能主義であったが、しかしやがて冷静になった。正統の仏教が組織に入ってくるに従って仏教が即効的な利益をもたらすものでなく、そのぼう大な言語量の思想体系に身を浸すこと以外に解脱の道はないということを知るようになった。日本人の知性が、知識層においてわずかに成熟した。仏教における六つの思想部門が、奈良に設けられた。華厳、法相、三輪、倶舎、成実、律である。しかしながらそれらは多分にインド的思考法を身につけるための学問であり、「だからどうなのか」という、即答を期待する問いにはすこしもこたえられない。

そういう日本的環境のなかで、空海は雑密というものをはじめて知る。
雑密は純密のかけらでしかないにせよ、南都の六宗などとはちがい、効能という点ではおどろくべき即効性をもっていた。論理家である空海が、それとは一見矛盾する体質――強烈な呪術者的体質――をもっていたことが、この即効性をはげしく好んだことでもわかるであろう。…
《以下引用》

仏教にもいろいろな顔があります。「哲学としての仏教」というか、インド的思考法の断片がじんわりと浸透し、ゆっくりとこの国の国民性を作り上げて来たように思います。そういう意味で、仏教は、この国をここ何百年と守り続けてきたと言えます。

しかしながら、当時の人が望んだのは即効性だったようです。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「三章 法」の後半を読みました。

いろはのうたに出てくる「うゐのおくやま」の「うゐ」とは「有為」のことだそうです。
《以下小生要約》
「行」は「いっしょに集めて造るはたらき」というような意味。ものを生み出す力・はたらき、そのようなはたらきを持つもの、結果を生み出すもの、因となるもの。

因たるものが「サンスカーラ(行)」と呼ばれるのに対し、果たるものは同じ動詞の過去分詞形をとって「サンスクリスタ(有為)」と呼ばれる。

「有為」とは、行によって作られたもの、縁によって作られたもの、因によって作られたもの、因縁所生の法、縁起したもの、ということになる。したがって、諸行=諸法=有為法の一切で、それらは無常であり、無我であり、苦(をもたらすもの)である。

同様に、「縁りて生ぜしめるもの」と「縁りて生じた(過去分詞)もの」という言葉もある。この場合、縁りて生じたもの(縁起したもの、縁生したもの)はまた、別の縁によって滅する。つまり、生起したものは必ず滅するということが理解の前提となっている。

無常なるもの、無我なるもの、苦をもたらすものは、この生滅あるものであり、「縁によって生じたもの」である。

一方、「縁によって生起させること」を意味する前者には、因となるもの(サンスカーラ)と同様の意味とならんで、縁起の法則自体をさす場合がある。

これあるとき、かれあり
これ生ずるより、かれ生ず
これなきとき、かれなし
これ滅するより、かれ滅す

という定型句が縁起の法則を示すものとされている。これは、諸行無常・諸法無我と同じことである。

縁起は「諸法に関するきまり」というが、この「きまり(dharmata)」が単独では「法性(ほっしょう)」と訳される。「法性」とは「法の本性」、縁起した諸法に通じる普遍的性質、すなわち縁起することを指す。仏教の教理としては、「無常性(無常であること)」、「無我性(無我であること)」も同じく「法性」である。

まったく同じ縁起の理、無我なることを、大乗仏教では新たに「空性(くうしょう)」と名づけた。「空性」とは「一切皆空」という命題を内容とし、「自性(じしょう)が無い」という意味である。「自性」とは、自己存在で常に同一の性質を保ち、他者を必要としないもの。
《要約終わり》

さらに大乗仏教の真理観についてまとめてあるので、ノートしておきます。
《以下引用》
大乗仏教は、「一切皆空」をものの見方の基本としている点で、いかなるものも実在としては立てないのであるが、そのような真理それ自体を、絶対的価値としていわば一種、宗教的実在とみなすのである。…真理を悟った仏を、真理と一体となった者として「法身」とよび、それとこの「法界」とを同一視する点で、仏に絶対性、究極的実在性を付与することになる。加えて、「法界」には「法という要素」という意味で、意識の対象となるかぎりの全存在をさす(すなわち、法界=一切法)用法があるので、仏の側からすれば、仏が全宇宙にほかならないというかたちでの絶対性を意味し(たとえば『華厳経』の毘盧遮那仏の説明に見られる)、他方、法の側からすれば、全存在は真理の顕現として実有性を認められることになる(華厳宗の法界観に代表される)。ただし、後者はあくまでも仏の目をとおして見た全存在、宇宙、世界、衆生ということであり、決してわれわれが把握しているとおりに現実を肯定したものではない。
《引用終わり》

・第一義諦
悟りの体験は他人には伝ええない。言語表現を超えている(言詮不及、言語道断)。悟りそのものを「最高の真理」という意味で第一義諦(真諦、勝義諦)という。

・世俗諦
教えとしての法は、自内証の体験を言葉によって表現したものであるが、語るべからざるものを語っている点で既に方便であり、仮のものである。言葉に表された法(教説)は二義的なものに過ぎない。これを、「言説諦」「世俗諦」という。

どうあろうとも、言葉は葉っぱ。幹にはなれない…

《つづく》
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NHK に参加中!
NHKスペシャル「立花隆思索ドキュメント」(11月23日放送分)を見ました。大変衝撃的だったのは、がん細胞と正常細胞との見分けが非常に難しいということ。

顕微鏡で見れば一目瞭然というわけではない(もちろん爆発的に増殖してしまえば、その限りではないでしょうけど)。

がんになってしまったら頼れるのは自分の免疫(!)とばかりに免疫を高めると言われる健康食品を摂る人は多いです。他ならぬ立花隆さんもその一人でした。ところが、免疫系の代表選手たるマクロファージはがんの転移を手助けしているらしい!

とんでもない裏切り行為!?というよりも、免疫系すら見分けができないということなのです。

がんは、体の中で、正常細胞とほとんど同じようになりすましているのです。体の中の正常細胞をバックアップする全てのシステムを、がん細胞も利用しているのです。抗がん剤とはこのシステムを阻害する薬なので、そのシステムにバックアップされていた正常細胞もがん細胞と同じように衰弱してしまいます。

がんに関する研究は数十年の間にずいぶん進歩しましたが、それは「がんとは何か?」という研究であり、「がんを治すにはどうするか?」という研究はほとんど進んでいない、ということでした。

がん患者としての立花隆さんの結論:「次の検査で転移が見つかったとしても、私は抗がん剤の治療は行わない!」

番組には山中伸弥博士も出演されました。博士が研究されている人工多能性幹細胞(iPS細胞)は、体のいろいろな臓器になり得る万能細胞で、人工的に作り出したものです。

こういった万能の幹細胞がもともと生体内に備わっていれば、体中のあらゆる部分がトカゲのシッポのように切断しても生えてくるようになります。そうすれば、我々はもっともっと長生きできたはず…

でも、山中博士は「そうではない」とおっしゃいました。幹細胞とはがん細胞のようなものである。幹細胞を作るということは、がん細胞もどきを作るということ。我々の体に幹細胞が備わっていたら、我々は今よりももっとがんになりやすくなり、短命に終わるでしょう…と。

受精卵は爆発的に増殖していきますが、やがて成長とともにその増殖プログラムは封印されます。これを人工的に解錠したのが「iPS細胞」、自然に開いてしまったのが「がん細胞」と言えます。

神の如き「かん細胞」と悪魔の如き「がん細胞」…その違いは小さな濁点のようにわずかなものなのです。

12月9日付の日本経済新聞に大阪大学の研究成果が載っていました。がん細胞をiPS細胞に変化させると、もともと持っていた「がん抑制遺伝子」の働きが強まり、悪性度がほぼゼロになるとのこと。

まさに、「がん」から濁点を取り除く技術。がん細胞にも更生の可能性が出てきました。
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〈目的〉:横上腕靭帯(結節間溝を横方向に走る)の断裂,上腕二頭筋長頭腱の脱臼を検査する。

〈方法〉:
患者:座位。
術者1:一側の手で結節間溝と上腕二頭筋長頭腱を触診する。他側の手で手首を掴み、腕を150°外転,外旋させる。
術者2:外旋位にホールドしたまま、腕をゆっくりと下げる。

〈評価〉:
腱の脱臼が触診できたり、「ピシッ、パチッ」という音がすれば陽性。

〈メモ〉:
横上腕靭帯:結節間溝を横方向に走り、上腕二頭筋長頭の腱や腱鞘が溝外に外れるのを防ぐ。

参考文献「整形外科学検査法」
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結婚 に参加中!


ちょうどひと月前のことです。親戚の結婚式に行ってきました。親戚と言っても本人と顔を合わせたことはありませんでしたし、自分の結婚式は済み、友人の予定もなく…特に深い感慨も無く参加しましたが、逆にくつろいだ感じで心地よいひと時でありました。ただ、ズボンがきつかった、ホック外してるのに!

特に気づいたこととしましては、「幸せ!幸せ!」と余り言わなくなったような気がしました。スピーチでは、むしろ「結婚生活はいろいろなことがありますが…」的な内容が多く、祝賀会というよりは壮行式という感じさえする。

驚いたのは、天童市長が「選挙に出馬すると妻に言いましたら、すぐに離婚すると言われました」とおっしゃったこと。もちろん、「何度も自分の気持ちを説明して理解してもらって離婚はしなかったから、お互いに話し合うことが大事だよ」という話でしたので、これからのスタートを前に二人の気持ちを引き締めるという意味では良い話なのですが…。披露宴のスピーチで「離婚」という言葉は絶対禁忌だと思っていたので、驚きました。

それだけ、結婚の厳しい現実に触れずにはいられない時代だということでしょう。

さて、前置きが長くなりましたが、先日の3Dの話が結婚のスピーチのネタになるんじゃないかと思いましたので、書いてみます。


立体感は、右目と左目で違った見え方をすることで生まれます。右目と左目が全く同じに見えていたのでは、立体感は生まれません。右目の見え方も左目の見え方も尊重し、見え方の違いを大切にすることによって、一つの目では見えなかったものが見えてくるのです。

だから、相手の考えが自分と違うからといって封じ込めてはいけないのです。違うからこそ大切にしなければいけない。性格の不一致、価値観の不一致、人生観の不一致…etc.があればこそ一緒にいる意味があるのであって、別れる理由にはなりません。毎日毎日、小さなことも話し合って、お互いの違いを見つけ合い、指摘し合い、尊重し合うことこそ重要なのです。

長い人生の中には、片方の目が病気で働けなくなることもあるでしょう。あるいは視野が狭くなって、大切なことを見落としたりすることもあるでしょう。それでも両目が補い合えば、大抵のことは乗り越えられるのです。


いかがでしょう。ちなみに、耳でもいけそうですね。とか手とか足とかも、できないこともないでしょう…良かったら、お使い下さい。
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標準料金(鍼灸なし・33分触察)の目安
1人:【昼】1900円【夜】2000円
2人:【昼】1800円【夜】1900円
3人以上:【昼】1700円【夜】1800円

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で…
・1652円(午前9時〜午後6時)
・1752円(上記以外の時間帯)
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・1人の場合:271円
・2人の場合:171円
・3人以上:71円

追加項目:
・当日申込は100円
・鍼灸は1体位あたり100円の他、鍼20円(1本)、灸20円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)100.1は10月のものです。

・12月の価格
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司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第三章 奈良」を読みました。

《以下引用》
…男山の南麓、交野は788年(延歴7年)に桓武が中国の皇帝を真似て、天壇を築き、生贄の牛をささげた地である。のちに坂上田村麻呂が連れ帰った蝦夷の将、アテルイとモレをだまし討ちにしたのもこの地だったという。…
《引用終わり》

東北の人間としては微妙ですが…京都周辺に行ったことがないので、航空写真はワクワクします。

確かに平城京よりも長岡京の方が海(大阪)に近くて、便利そうですね。ただ、京都盆地を意識すると偏った場所です。琵琶湖に引っ張られるようにして、平安京に移って行ったんですね…


大きな地図で見る


《以下引用》
…ひとたび人間とは何か、という哲学的問いを立てたならば、本質的な問いを回避した所に積み上げられる知識や規範などは、逆にみずからの精神を束縛しようとするものだと感じられる。さらに、世の中の秩序が、大衆を奴隷的精神の持ち主へと貶め、管理することによって成り立っていると考えたならば、高級官僚など、いわばその精神的な奴隷たちのリーダーに過ぎないと思い至ったであろう。…
《引用終わり》

24歳の空海の著作『聾瞽指帰(ろうこしいき)』『三教指帰(さんごうしいき)』に、こういった思索の経過がまとめられているのでしょう。いつか読みたいです。

《以下引用》
…密教は7世紀のインドで成立したとされる。釈迦仏教、すなわち厳しい修行によって煩悩をたちきり解脱をめざす宗教からは大きく変質し、現世を肯定、欲望をも否定しない。少なくとも印象においては、まったく新しい宗教であった。

密教が生まれたころの世界において、釈迦の教えはすでに少数の修行者だけのものではなくなっていた。しかし教えを受ける庶民たちの多くは、欲望を断ち切ることなどできない。到底たどりつけない解脱の境地と照らして、みずからが当然の本能としてもっている煩悩の大きさに精神の負い目を抱かずにはいられなかったであろう。密教を生み出した哲学者たちは、おそらくこのような人間精神のありようを、惨憺たるものだと感じたであろうし、だからこそ、釈迦の思想を昇華させることで、生に対して肯定的な宗教を作り出そうとしたのかもしれない。かれらがその思想の中心に据えたのが、大日如来という宇宙の真理を体現する絶対的な「虚構」であった。…
《引用終わり》

人間とは何か、という哲学的問いの答えを「あの世」に求めている宗教・宗派は多いのではないでしょうか?これは逃げであり、ごまかしではないかと思います。

でも、空海は逃げません。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「三章 法」の前半を読みました。

まず、法の原意を示すものとして、サーリプッタ(舎利弗)が仏弟子になるきっかけとなった言葉(縁起法頌または法身偈)をノートしておきましょう。

《以下引用》
何であれ諸々の事物(諸法)は原因より生ずる
それら(諸法)の因を如来は語られた
また、それら(諸法)の止滅をも
このように大沙門は語られた

諸法従縁起
如来説是因
彼法因縁尽
是大沙門説

諸法は縁より起こる
如来はこの因を説きたまう
かの法は因縁にて尽く
是れ大沙門の説なり
《引用終わり》

仏教で言うところの「法」を現代流にまとめると、
《以下引用》
(1)教え(教法、宗教)
(2)真理(悟りの内容)
(3)性質、とくに善なる性質(功徳)
(4)存在(有形・無形の、心的・物的な諸現象、概念〔意識の対象となるもの〕
《引用終わり》

ブッダは縁起の理を観じて法を悟り、初転法輪において四諦・八正道の教えを説いたということになっています。

《以下引用》
…してならないことが二つある。…一つは諸々の欲望において欲楽に耽ることである。…他は自ら苦しめることであり、いずれも聖ならず、ためにならない。如来はこの両極端に近づくことなく、中道を悟ったのである。
…中道とは何か。それは八支よりなる聖なる道である。すなわち、正見、正思惟、正語、正行、正命(正しい生活)、正精進、正念、正定である。…

…苦という聖なる真理(苦聖諦)は…生まれが苦であり、老も、…病いも…死も苦しみである。いやな人に会うのは苦であり、愛するものと別れるのも苦であり、欲しいものの得られないのも苦である。要約すれば、執着の素材としての五蘊は苦である。

苦の生起の因という聖なる真理(苦集聖諦)は…喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるもの、すなわち欲への渇愛、生存への渇愛、および生存を離れることへの渇愛である。

苦の止滅という聖なる真理(苦滅聖諦)は…上述の渇愛が完全に除かれた止滅である。すなわち、捨、放棄、解脱、無執着(アナーラヤ)である。

苦の止滅にいたる道という聖なる真理(苦滅道聖諦)は…聖なる八支よりなる道である。
《引用終わり》

ブッダの立場として十四無記について述べてあります。以前も十無記として書いたものです。ここでは「毒矢の喩え」をノートしておきます。
《以下引用》
人が毒矢に射られたとしよう。さっそく医者がよばれてやってきたが、もしその医者に向かって、その人が、「誰がこの矢を射たのか、それが解らない間は矢を抜くな」と言ったとしよう。また、「その人は大きいか小さいか、色が黒いか白いか、その使った弓は弩かどうか、弦は植物製か動物製か、矢羽は鷹か鷲か等々、わからない間は治療してはならない」と言ったとしたら、その人は、それらのことがわかる前に死んでしまうだろう。まず大事なことは、毒矢を抜いて応急処置することだ。
《引用終わり》
ブッダの立場は応急処置をする医者であり、十四無記に挙げられる問題は「?」のままで、治療に専念するのである。

仏教の旗印として「四法印」について述べてあります。スローガン、あるいは要約とも言えます。4つの命題の形になっています。

《以下小生要約》
(1)諸行無常
無常は実感だと言っても、実際にはそう受けとっていない場合が多い。第一にわが身の死。人は死ぬものとわかっていてもわが身も死ぬものとはだいたい思っていない。だから、いざ死が近づくと人は恐怖にさらされる。そこに死が苦となる。無常であるものが無常と知られないところに、苦があるということが、仏教が説こうとする人生の真実である。

(2)諸法無我
「我」とは「自由になるもの」「(病などにかかって)変化しないもの」という見方を前提とすると、色(形あるもの・肉体)受(苦楽の感覚)想(イメージを思い浮かべる作用・表象化)行(意志のはたらき)識(認識・判断のはたらき)のいずれも「我」ではない。

我と呼べるものがないのに、我があると思うところに、苦しみがあるというのが仏教の説かんとすることである。我があると思うのは「我執」である。この我執にこそ、ブッダは諸悪の根元を見出したのである。そして我執が「わがもの」という所有欲を生むと見る。それの達成されないうらみが求不得苦(ぐふとくく)である。

我に常住永遠の存在という規定が含まれているように、無我であるということは無常であることに帰着する。無常とは生滅のあることであるから、われわれに生老病死のあることが無我の証拠となる。

しかし、仏教はまったく個人の役割を否定したかといえば、そうではない。無常と観じて、自らつとめ励むところに涅槃がおとずれる。実践の主体性が一方で強調されているは忘れてはならない。

(3)一切皆苦
苦とは感覚であり、楽と対立し、苦と楽は相対的なものである。人間社会は楽をめざしての進歩であり、現代日本人には苦の種はなど無いはずである。しかし、現実はそうではない。それを見通すがごとく、仏教では、無常であり無我であるものは、みな苦をもたらすと見る。

何ゆえ苦であるのか。ブッダの追求の果てに見出されたものは、一つは渇愛とよばれる欲望や執着、そしてさらにさかのぼると「無明」にいたりつくとされた。無明とは(真実に対する)無知である。すべてが無常であり、無我であるということを知らないことが苦の原因の大もとである。

諸法無我・諸行無常はすべての現象についての本性(諸法の法性)であり、変更を許さない。一方、苦は所与の現実としては真実であるが、そのままであってよいものではない。滅せられるべきものである。ここが前掲の2命題と異なる点である。

人生の苦楽とは次元のちがうところでの、苦ならざる状態、すなわち「楽」を理想と見ることになる。これが「涅槃寂静」である。

(4)涅槃寂静
生滅の止滅、停止とは、生滅が文字どおりなくなることではなく、生滅性のもの(諸行無常)と知ることによって生滅を超越することである。そこに苦滅すなわち涅槃が実現する。それが、寂静とか寂滅といわれ、楽とよばれている。その獲得こそが仏教の目的である。
《要約終わり》

《つづく》
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科学 に参加中!
新型インフルエンザの流行で、ウイルスというものに皆が関心を寄せました。解説するテレビ番組も多々ありました。説明の仕方も微妙に違ってたりして、いくら情報を集めても戸惑いは解消しませんでした。一番の迷解説者は舛添さんだったと思いますけど。

ウイルス…生物とは呼べないシンプルな構造だけれど、遺伝情報を持ち他者に取りついて増殖していく…不思議な存在。

「何を目的に生きているんでしょうか?」という質問もありました。脳を持たない存在に目的意識があるのか?生きていると言っていいのか?質問にさえ疑問が湧いてくる…不思議な存在。

「人間を皆殺しにして、世界制覇を企んでいるんでしょうか?」という奇抜な質問もありました。

それに対する有識者の回答。
「いいえ。ウイルスは、人間が死ぬことは望んでいないはずです。取りついてる人間が死んでしまえばウイルスも死んでしまいますから。取りついても、全然人間に影響が無いようなウイルスが一番生存しやすいウイルスです。」

そんなふうに解説されると、悪い奴じゃないような気がしてくる。悪気はないのに自分が増殖しようとすると、人間が熱を出し咳をして、もがき苦しむ。それは自分の住環境が衰弱することでもある。奴らは我々人間と運命を共にしている?

人間に悪さをしない奴ほどウイルス界でも優等生!ということになると、生きているとも言えない、考えているとも言えない、そんな奴らにもモラルがあるように見える。殺人は、ウイルス界でもモラル・ハザードなのである。

さて、我々人間はどうなのか?地球を壊滅させて、宇宙制覇でも狙っているんでしょうか?霊長類という名誉ある生き物を自負し、脳という器官を有して複雑な思考繰り返している我々が、ウイルスと同程度のモラルを守れずにいるとは!

ウイルスには殺意をもつ能力(脳)もなく、責任能力もありません。人を殺したと言っても罪に問えるものではありません。しかし、人間が地球を壊滅させた場合は間違いなく有罪になりそうです。
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〈起始〉:【長頭】肩甲骨の関節上結節【短頭】肩甲骨の烏口突起
〈・〉:三角筋の下(★臂臑★肩内陵),腕橈骨筋の下・上腕筋の上(★尺沢),烏口腕筋の上(★天泉),上腕筋の上(★曲沢),★天府★侠白
〈停止〉:橈骨の橈骨粗面,前腕筋膜

〈作用〉:
肘関節●屈曲▲回外
・【長頭】肩関節▲外転
・【短頭】肩関節▲屈曲▲内転

〈神経支配〉:筋皮神経〔C5〜C6〕

〈筋連結〉:
烏口腕筋浅指屈筋円回内筋橈側手根屈筋尺側手根屈筋長掌筋深指屈筋

〈触察〉:
・停止腱:肘窩の中央部に指を置き、内外側方向に動かして、頭尾方向に走行する2本の腱を触察する。外側方の腱が橈骨粗面に終わる停止腱、内側方の腱は上腕二頭筋腱膜。
・短頭:上記の停止腱と烏口突起とを結ぶ線を想定して、触察する。上腕骨中央部より頭方の領域では烏口腕筋と接して走行する(短頭は細くて硬く、前方に位置する)。後方を正中神経や上腕動脈が走行する。
・長頭:上記の停止腱と結節間溝とを結ぶ線を想定して、触察する。長頭と短頭の境は上腕部前面の中央部付近で、上腕二頭筋全体の幅の中点からやや内側方の部位に指を押し込んで触察。

〈検査〉:
アボットサンダーテスト:横上腕靭帯(結節間溝を横方向に走る)の断裂,上腕二頭筋長頭腱の脱臼を検査する。
スピードテストヤーガソンテスト:上腕二頭筋長頭腱の腱鞘炎を検査する。

〈メモ〉:
・腱や腱鞘が機械的なストレスで炎症を起こすと、結節間溝内での腱の滑りが阻害され、痛みを発する。
・上腕二頭筋長頭腱は血管が発達していないため、退行性変化を起こしやすい。

〈関連痛領域〉
・筋肉そのものの領域から肘の内側、三角筋中部、および棘上筋の近位の領域にかけて。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」
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