トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2009年12月

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爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#96」(12月15日放送分)を見ました。生物学の中垣俊之先生でした。粘菌の研究をされている方です。

とにかく驚いたのは、あの粘菌という奇妙な生き物、単細胞生物だったんですね。しかも、結構いろんなことを考えているらしい。

一時間ごとにある刺激を与えると、その周期性を憶えて、予測するらしい。迷路も最短経路を割り出すことができる。

意識と言うほどのものは無いんでしょうけど、無いと断定もできない。今のところ私たちは、脳の中でのシナプス結合を基にした活動が思考とか意識につながっていると考えています。でも、細胞ひとつだけでも結構なことができるとすると、果たして本当にそうなんでしょうか?と考えてしまいます。

私たちの体の細胞ひとつひとつも何かそれぞれ考えているんだろうか?「私」というのは個々の細胞の集合意識なのだろうか?それとも神経細胞たちの共同作業としての「私」と、個々の細胞の中の「私」は別個に存在するのだろうか?

単細胞生物だった頃にお互いが相談しあって、「私たち大勢が集まって共同生活しませんか?」ということになり、多細胞生物になったのかもしれません。人間一人を構成する細胞たちの数は、地球上の全人口よりもずっと多いはずで、大変複雑な社会が構築・運営されていることになります。

「私」は、その上にいつの間にか宿り、乗っかっている存在。沈黙する細胞たちの意に反した生活をすると病気になるのかもしれません。

こんな大きな社会の上に、それを前提として生きている私たちは、少なくとも社会性を指向するのが当然と言えるかもしれません。反社会的思想・行動をする者は、その体を構成する細胞たちもバラバラになって、粘菌生活(単細胞生物としての生活)をおくるべきなのです。

多細胞生物は社会(ポリス?)的動物である…

《つづく》

〈目的〉:
上腕二頭筋を等尺性伸縮させ、上腕二頭筋長頭腱の腱鞘炎を検査する。

〈方法〉:
・患者:座位。患側の肘関節を90°屈曲位におく。
・術者1:前腕をつかみ、回内させるように力を加える。(患者は抵抗する:回外する)
・術者2:前腕をつかみ、肘関節伸展(+回内)させるように力を加える。(患者は抵抗する:屈曲+回外する)

〈評価〉:
・結節間溝に痛みが出れば陽性。上腕二頭筋腱長頭の腱鞘炎を疑う。
・肩関節の(外転+外旋)で痛むのが上腕二頭筋腱長頭の腱鞘炎、(外転+内旋)で痛むのが棘上筋腱鞘炎と言われる。鑑別には棘上筋衝突テストを行う。
・前腕の回外が保てない場合には、上腕二頭筋遠位部の断裂を疑う。

参考文献「整形外科学検査法」

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悟りへの道 に参加中!
先日、観音様や阿弥陀様をサンタクロースに例えた書き方をしまして、軽過ぎたかなと反省する機会がありました。

毎日、子供と接する身としましては、クリスマス前のサンタクロースというのは絶大な力を持っておりまして、「そんなことしたら、サンタさんが何も持ってきてくれないよ!」という一言は「南無観世音菩薩」とか「南無阿弥陀仏」と称える以上に効果があります。それだけ、サンタクロースというのは子供にとって紛れもない現実なのかもしれません。

とは言え、軽過ぎたかなとは思っています…

さて、そんな折、司馬遼太郎の本を読んでおりまして、「おや!?」と思う一文に出くわしました。

「おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。」

仏教を哲学として見た時に大日如来が最も完璧な思想であろうという意見には全くもって賛成なのですが、上記のようなことを考えていた折でしたので、「虚構」という言葉にちょっと引っかかったのでした。

ただ、サンタクロースの場合もそうであるように、人それぞれ言葉の重みは違うかもしれないな…と思いました。

考えてみれば、小説家というのは「虚構」をメシの種にしている人たちです。日々、自分の頭の中の構想という「虚構」をいじり続けているはずです。ある意味において、目の前の現実よりもずっとずっと現実的なものかもしれません。

科学者であれば仮説という「虚構」に身を置くことになるでしょう。寝ても覚めても、原子核と電子の間を行ったり来たりしているかもしれないし、宇宙の果てのブラックホールの中を覗き込んでいるかもしれない。

宗教であるならば、その宗教が主張する「虚構」の中に身をおき、それを現実よりも現実的なものと捉えることが信仰ということなのだと思います。

経済社会の中で生きている一般人も、お金という「虚構」の中に、言うなれば、紙きれの中に金(金が持つ値打ちもまた「虚構」なのでしょうが)にも相当する値打ちを見出し、命を削って働いているわけです。経済活動において、紙きれが内包する価値は全くもって疑いようのない現実なのであります。

いずれにしても、一時的にその「虚構」という超現実にのめり込むことはあったとしても、「虚構」として素に帰る器用さ(虚数軸と実数軸を使い分ける器用さ)は持っていないといけないということでしょうか…

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★くもん・公文・KUMON★ に参加中!
公文式の算数の教材6Aについてです。30までの数が数えられることを目指します。

かずカード磁石すうじ盤を使った学習と同じことがプリントでできるようになっています。

ですから、並行して行うのがより効果的でしょう。

数唱は40以上、磁石すうじ盤は30を3〜5分以内、ジグソーパズルは48ピース以上、という目標が設定されています。

我が家では、私の仕事の都合上、娘たちの入浴も遅くなってしまいます。なので、寝た状態で入浴するのが普通になっています。眠った娘を湯船の中で妻が抱き、耳元で「1,2,3、…」と言って聞かせる。これも結構効果的だったようです。睡眠学習です。

《5A教材に進む》

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司馬遼太郎を読む に参加中!
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の五」を読みました。

この章はインド孔雀で始まります。孔雀は毒蛇や毒蜘蛛も容赦なく食べてしまうそうで、この解毒作用にドラビダ族(非アーリア人の一種族)の人々は驚き、自分たちもそうなりたいと思った。そのために孔雀の咒をとなえた。

《以下引用》
…咒は、言語である。しかし人語ではない。自然界が内蔵している言語であり、密語の一種であり、人間がその密語をしゃべるとき、自然界の意思がひびきに応ずるがごとくうごく。もっとも咒が息づいていたころのインド土俗にあっては自然と人間は対立するものでなかった。人間の五体そのものがすでに小宇宙であるとし、従って、小宇宙である人間が大宇宙にひたひたと化してゆくことも可能であり、その化する場合の媒体として咒がある。…
《引用終わり》

バラモンたちも大量の咒を使っていたが、釈迦はそれを嫌った。教義上嫌ったのか、僧が咒で衣食することを嫌ったのかは分からない。咒には、ひとの病気をなおしたりする修行者の護身のための善咒と、他人を呪い殺したりする悪咒とがある。釈迦が禁じたのは悪咒で、善咒は時と場合によってはやってもかまわない黙認のかたちだったらしい。

《以下引用》…
釈迦の仏教は、インドにおいてはながくつづかなかった。釈迦教に従ったところで、人間が肉体をもつことによる苦しみから解脱するというきわめて高級な境地が得られるのみで、しかも解脱に成功する者はすくなく、あるいは天才の道であるかもしれなかった。平凡な生活者たちは現世の肯定をのぞんだ。そういう気分が咒を核とする雑密を生み、仏教の衰弱とともにそれらが活発になり、さらにはそれら雑密が仏教的空観によって止揚され、統一され、ついに純粋密教を生むにいたる。さて、そういう過程において、孔雀についての思想も変化してゆくのである。
《以下引用》

孔雀の解毒機能が、人間の解脱を妨げる精神の毒(貪ること・瞋ること・癡かしいこと)にも作用するとして、「孔雀明王」が成立。やがて、密教の中に合流していく。

《以下引用》…
紀元一世紀ごろから六、七世紀ごろまでのこの亜大陸のアラビア海に面する西南海岸では、地中海とのあいだの貿易がさかえて多くの港市が発展し、後世のインド人からは想像しがたいほどに精力的な商人が活躍していた。…

釈迦は商利の追求を貪りとして人間の三毒のひとつとしたが、現世の栄耀を否定するかれの宗教がかれの死後二百年後で力をうしない、とくにこの西南海岸の諸港市において変質もしくは他のもの――密教――に変らざるをえなかったのは当然であったかもしれない。…

この商業的世界に当然ながら無数の土俗的雑密が流入していた。そして商人たちに福徳をあたえていた。雑密を好むくせに、一面では宇宙的構想を好むインド人たちは、たとえば星屑のように未組織のままに、カケラとして存在している雑密の非思想的な状態に耐えられなくなったらしい。これらカケラのむれを、哲学的磁気で吸いあつめ、壮大な宇宙観のもとに体系づけようとした。…

その作業のためには、たとえばキリスト教が神という唯一絶対の虚構を中心に据えてその体系に真実をあたえたように、インド的思考法もまた絶対的な虚構を設定せざるをえなかった。…このため、生きた人間として歴史的に存在した釈迦をも否定し、あるいは超越せざるをえなかった。
「この大いなる体系を、大日如来が密語(宇宙語)をもって人間に説法した」

…おそらく人類がもった虚構のなかで、大日如来ほど思想的に完璧なものは他にないであろう。大日如来は無限なる宇宙のすべてであるとともに、宇宙に存在するすべてのものに内在していると説かれるのである。太陽にも内在し、昆虫にも内在し、舞いあがる塵のひとつひとつにも内在し、あらゆるものに内在しつつ、しかも同時に宇宙にあまねくみちみちている超越者であるとされる。
…《以下引用》

壮大な思想体系がどんなふうに出来上がっていったか…推理するのは楽しいものです。司馬説によれば、密教は現世的であり、現代のような経済社会とも相性がいいことになります。

《つづく》

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楽しい幼稚園 に参加中!


「餅は餅屋」という言葉があります。餅つきは大変だということなんでしょうね。

独身時代は、個包装になっているのをチンして食べていました。餅は、何もしたくないときに食べる簡単メニューでした。やはり、ちゃんと杵と臼を使って餅つきをしなければ、この言葉の意味もピンと来ないでしょう。

大学のころも餅つきをやったらしいのですが、全然記憶にありません。昔のことも忘れるようになってしまいました

さて、幼稚園の餅つきですが、うちの幼稚園の保護者会は、なぜか、行事にママさんが参加するのが当然のようになっています(運動会だけが例外のようです)。近隣の幼稚園や保育園の様子を探ってみると、そんなことはないらしいのですが…。だから、お餅つき会も妻が行くものと思っていました。

ところが公文の研修が入ってしまいました。「俺が行くの?餅なんか食べたことしかないよ。行かないほうがいいんじゃないか?」とゴネてみました。

すると長女の一言。
「パパが役員なんでしょう!?」

5歳の女の子にこんなふうに言われたら、行くしかありません。エプロンと三角頭巾とお椀3つを持って、しぶしぶ参加しました。やはり、ママさんたちしかいませんでした。もっとも、会長と副会長は夫婦で参加しましたので、パパは私を入れて3人いましたが。

お陰で、重役待遇杵で数回ペッタンペッタンするだけで、あとはストーブの前に座っていました。

食べることと後片付けだけは、一応頑張ってきました。終わってみれば、楽しい一日でした。翌日はもちろん筋肉痛

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悟りへの道 に参加中!
「仏教入門」(東京大学出版会版)
「四章 一切法」を読みました。

《下記参考文献より引用》
現象のことを仏教では有為とか行とかいう。われわれはこの現象界の中で生滅変化し、苦しみ悩み、喜び楽しみ、迷い悟るなどの生活を続けている。われわれにとっての世界は現象界のみである。この意味における一切の現象界を仏教では一切とか一切法とか呼んでいる。仏教が取り扱うのはこの現象界に限られる。
《引用終わり》

一切法は三科(五蘊・十二処・十八界)に分類される。いずれも一切法をさすから、 五蘊=十二処=十八界ということになる。

〔五蘊の色〕
=〔十二処の眼処、耳処、鼻処、舌処、身処、色処、声処、香処、味処、触処〕
=〔十八界の眼界、耳界、鼻界、舌界、身界、色界、声界、香界、味界、触界〕

〔五蘊の受、想、行〕
=〔十二処の法処〕
=〔十八界の法界〕

〔五蘊の識〕
=〔十二処の意処〕
=〔十八界の意界、眼識界、耳識界、鼻識界、舌識界、身識界、意識界〕

《以下引用》
以上、三科といわれる分類法は阿含以来の伝統、すなわち「仏説」であるのに対し、アビダルマの教学において確立したのが「五位」の分類である。伝統的に中国や日本でもちいるものは『倶舎論』によるもので、元来は有部(説一切有部)の学説である。…

有部の学説は一つの理論によってこの法の体系を完成したのであるが、それは、右のような種々の区分で整理される諸法は、法としての過去・現在・未来の三世にわたって存在する(三世実有、法体恒有)ということであった。…

同じく縁起ということも、ある法が条件によって他の法と関係をもち、その結果として現在化する、その法と法との関係のあり方をさすことになり、それをその種類によって六因・四縁・五果に分類することになった。
《引用終わり》

説一切有部の思想については、今後、大乗を修めるにあたり、必要と感じた時に再び取り組みたいと思います。

《以下引用》
因果関係の分類という意味では、有部において確立したこの六因・四縁・五果の説はそのまま大乗にもうけつがれる。一切法の分類についても同様である。しかし、大乗仏教はこの有部の法理論に対して疑念をもち、それが仏説からほど遠くなっていることに気づいて、その修正を試みた。それがはじめに述べた『般若心経』にみられる「五蘊皆空」の教えなのである。大乗の主張は有部の「法有」に対して「法空」の理論で、それによって、縁起ということを仏説に即して正しく解釈できたと自負した。

有部の説は「無我」ということを、我が五蘊の諸法の因縁による集まりで、名のみの仮のものと見る点では仏説にかなうが、構成要素としての諸法が実有とみることは、法が外教のいう「我」と同様に、固有の性質をもった自己存在(自性)となり、諸法無我の理に反する。そこで、大乗は法もまた自性が無い(自性に欠ける=自性空)と主張し、それが法が縁起するということの正しい意味だといったのである。

『般若経』の「五蘊皆空」はその意味であり、ナーガールジュナとその後継者たち(中観派)がこれを敷衍して、その空性説うちたてた。

そのあと、しかし、諸法は空ではあってもなお現実には有りと見られているのはなぜか、という新たな問題が提起され、それの解明として、瑜伽行派の唯識説が成立した。瑜伽行派は、有部と同じ法の体系を利用しながら、法の存在性を剥奪し、ただその機能性を主体とのかかわりにおいて認めた(法は仮有)。主体とのかかわりとは、われわれにとって法がどんな意味をもつかということで、それは認識の基本構造(唯識)というかたちで解答されたのである。それは、仏説として五蘊や十二処・十八界の分類が立てられた本来の意義でもあった。
《引用終わり》

般若心経の無い無いづくしの歴史的意味がわかったように思います。

参考文献「仏教要語の基礎知識」

《つづく》

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NHK「爆笑問題のニッポンの教養#94」(12月1日放送分)を見ました。死生学の清水哲郎先生でした。

「死とは別れなのか?」と疑問を持ってしまうようなエピソード。太田さんの知人でお笑い芸人だった人ですが、その人が亡くなってしまった時のことだそうです。その人には恋人がいて当然悲しんだわけですが、その後に安心感を得たそうです。

死によって、彼の人生は完結・完成した。「彼」という存在は不変であり、病床の彼と一緒に過ごし、死を看取ったという思い出もまた不変である。その思い出を常に抱いていられることは、むしろ「分かれ」というよりは「一体感」である。

生きていれば、不変ではありません。たとえ恋人であろうと、自分の知らないところで自分の知らないことをし、常に変化している。それが生きるということ。

一方、離婚してしまった田中さん。豪邸に一人暮らしだそうですが、奥さんを亡くしてしまったような感覚に似ているとのこと。愛し合っていた時期があったことは間違いないわけですが、田中さんを愛していたその時の彼女はもういない。

生きるということは、無常ということ。一瞬一瞬、死んでは生まれ変わっているようなもの。

実際問題、脳のシナプス結合が常に変化している以上、その人の人格も一瞬一瞬変化している。呼吸や食と排泄は体を構成している分子を交換することであり、やはり一瞬一瞬変化している。

生と死は表裏一体。全くもって不可分だということですね…

《つづく》

〈目的〉:
上腕二頭筋を等尺性伸縮させ、上腕二頭筋長頭腱の腱鞘炎を検査する。

〈方法〉:
・患者:座位。患側の肩関節を90°屈曲(前方に水平挙上)。肘は最大伸展で、前腕は回外(手のひらを上に向ける)。
・術者1:前腕遠位部に対して、下方に力を加える。(患者は抵抗する)
・術者2:結節間溝を触察してもよい。

〈評価〉:
・結節間溝に痛みが出れば陽性。上腕二頭筋腱長頭の腱鞘炎を疑う。
・肩関節の(外転+外旋)で痛むのが上腕二頭筋長頭の腱鞘炎、(外転+内旋)で痛むのが棘上筋腱鞘炎と言われる。鑑別には棘上筋衝突テストを行う。
・前腕の回外が保てない場合には、上腕二頭筋遠位部の断裂を疑う。

〈メモ〉:
・この位置で遠心性収縮を起こさせることで、長頭の腱が結節間溝の中をスライドし(実際には腱に対して上腕骨がスライドする)、腱鞘炎の有無が検査できる。

参考文献「整形外科学検査法」

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悟りへの道 に参加中!
体にいいというサプリメントも摂り過ぎはいけません。「レモン○○個分を一錠に凝縮しました!」とか「ホウレン草○○グラム分を一錠に…」とかありますが、これをゴロゴロッと口の中に入れてゴックンしたら、レモンやホウレン草何トンも食べたことになってしまう…これが体にいいはずがありません。

どんなに体にいいものでも純粋成分を抽出すると毒になってしまう危険があるのです。

だから、「一日30品目の食材を食べましょう!」とか言われます。いろいろな物のごちゃ混ぜがいいのです。純粋成分はいけません。おそらく理想的な食べ物というのは、この世のありとあらゆる食材の栄養成分がバランスよくごちゃ混ぜになっている料理なのでしょう。

「この料理の主成分は何ですか?」と聞かれてもいろいろ全部入っているから答えられない。答えられないから何も入ってないのかと言えば、そんなことはない。

さて、人間の思想・信条(考え方)のようなものも同じじゃないかと最近思うのです。例えば、自分を客観視する作業というのは、仮想的に自分の目を自分の外に設定し、自分が今考えているのとは違う視点(考え方)で自分を見てみることです。

この「違う視点(考え方)」のバリエーションが30品目くらいあったら、とってもいいんじゃないでしょうか。

忌憚ない意見交換ができる夫婦は、「違う視点(考え方)」が倍増します。友人を多く持つことも、この意味で良いことです。読書も同じ。

長く人生を歩むことでも知見は広がり、「違う視点(考え方)」が増えます。ただ、この「視点」のひとつひとつは柔和なものではなくて、確固たる角であっていいと思います。若いうちは鋭い角であっても、その数が増えるごとに丸く見えてきます。

それはウニとか栗のいがのようなものかもしれない。「角はどっちを指しているのですか?」と聞かれても全方向を指しているから答えられない。答えられないから何も指していないのかと言えば、そんなことはない。

あるいは、多角形が角を増やすごとに円に近付いていくようなものかもしれない。ゆえに「違う視点(考え方)」が増えると、人間は丸くなるのである。

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