トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2009年10月

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神の視点については以前も考察しました。今回は、集中から分散への移行という観点で見てみたいと思います。

視点の人間化が分散化とイコールとは言えないかもしれませんが、唯一絶対の神の視点から約70億いると言われる人間に視点が移動するわけですから、必然的に分散すると思うのです。

唯一絶対の神が存在するということになると、卑しい我々の身近にはいなくて、天界のようなところにいらっしゃって、この世のすべてを統括する…というイメージになると思います。

私が会社に入社したころは、コンピュータ・システムも一極集中でした。高性能のホストコンピュータ(正に神のような存在)に回線接続して、最低限のデータ入出力回路が付いた端末で作業をしていました。

これが数年後、クライアント・サーバー・システムに移行しました。ホストコンピュータは中程度の性能のサーバーに、端末は少し性能アップしたクライアントになりました。クライアントはデータの入出力だけではなく、ある程度の演算処理も行う。その分、ホストの負担が減るからサーバー程度の性能で良くなったわけです。処理の分散化です。神(ホストコンピュータ)よりも能力が劣る人間たち(サーバー)の手に物事が託されるようになった…

さらにグリッド・コンピューティングという究極の分散化まで登場しました。が、逆に最近ではセキュリティの問題から、クライアントに情報を残さないシン・クライアントという形になったり、クラウド・コンピューティングが登場したりということで、分散化には若干逆行する傾向かもしれませんけど。

さて、この世はすべて法(法則)に支配されているというのが、仏教の世界観のようです。その法則の一つとして万有引力を例に考えてみましょう。

この世のすべての物質は万有引力の法則に支配されている。質量ある物質間には引力が生じる。身近な例では、リンゴが地球に引っ張られて木から落ちる。

古典力学では、質点という考え方を用います。地球ならば、その質量を持つ体積ゼロの点が地球の中心(厳密には重心)に存在する。リンゴもその重心にその質量をもつ質点が存在し、引力は地球の半径分だけ離れた二つの質点の間に生じる。こういう簡単化をすることで、二点間の問題に帰着させて、問題を解く。これは、まさに視点を集中させています。

ガッテン流に擬人化すれば、地球の中心にいる大男が地球上のすべての物質を引っ張っているイメージ。

ところが、厳密には物質を構成している数え切れない原子どうしで重力は発生しています。地表で考えると、地面を構成している地殻は比重がおもく、海は水ですから比重が軽い。そのため同じ地球上でも、エベレストの近くのように地殻が厚いところでは重力は強く、太平洋上のように地殻が薄いところでは重力は弱い、という現象が観測されています。

これを再びガッテン流に擬人化すれば、物質の中には質量に比例した数だけ重力を生じる「重力くん」なるものが隠れている。地面が分厚いところには重力くんがたくさん隠れているので、リンゴを落とした時、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力が強い。太平洋上では重力くんの数が若干少ないので、リンゴの中の重力くんと引っ張り合う力は若干弱い。

地球の中心にいた大男が散り散りに分かれて、小人になって遍在する。視点の分散化であります。

さらに話を拡大しまして、万有引力のみならず、この世のあらゆる法則を成立せしめる小人がいると考えます。それは「法」そのものですが、擬人化して体をつけているので「法身くん」と呼ぶことにします。

法身くんの頭の中には、この世のすべての法則が入っています。数え切れない無数の法身くんたちが、この世のあらゆるものの中に普く存在する。これって華厳経とか如来蔵思想の世界ですね。

遠いところにいた神という大男が分散して、我々人間や物質の中にまで存在する。これこそ神の視点から人間の視点への移行ではないでしょうか?大乗は視点の人間化の流れをそのまま継承しているように私は思います。

《つづく》
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「生きる上での苦しみを軽減する考え方を広めて、多くの悩める人を救うこと」…これが、釈尊が悟りを開いてから行ったことで、仏教の原点であり、至上目的だろうと思います。

ところで、これと同じことをやっている番組のひとつがNHKの「ためしてガッテン」だと思います。もちろんこちらは宗教ではないので、心の苦しみだけではなくて、健康上の悩みから家事の悩みまで幅広いですけど。悩みを軽減する知恵を紹介して、分かりやすく説明し、多くの人を救う活動をしている番組と言えます。

番組では、分かりやすく説明するテクニックとしては「擬人化」、多くの人に実践してもらうためには「簡単化」が行われています。

「擬人化」では、例えばホルモンの働きを説明する時に、顔や手足のついた「インスリンくん」とかが登場します。うまく働いているときは笑顔、働きが悪くなると困った顔、膵臓の中から現れて、糖のボールをいじったりする。

これは真実とは若干違います。世の中の物すべてに手足が付いていて、顔があってニタニタしていたら気持ち悪いです。でも、分かりやすさは抜群です。とにかく分かってもらうこと(ガッテンしてもらうこと)が至上目的なのですから、それでいいのです。

「簡単化」は、私はダイエットでよく見るのですが、簡単だけれどもそれなりの効果がある運動法をいろいろ紹介してくれています。私が心がけているものだけでもスロー筋トレスロージョギングなどがあります。

これは理想的な方法ではありません。最も効果的な方法は別にあります。でも、普通に生活している人が毎日続けられるものでなければ、ガッテンの場合には意味がないのです。簡単でも効果が無いのなら詐欺になりますが、ある程度の効果が期待できるなら、理想的な方法を目指して挫折するよりはずっといい。

大乗仏教では、これらの手法がよく用いられているのだと思います。

例えば、「如来」は抽象的な概念ですから、厳密には手足があるわけでもなく、印を結んで座ってるわけでもないでしょう。「修行」するのであれば、きちんと出家して、一切の生産活動をやめなければいけないのでしょうが、そうしないでも済む簡便な方法が考案されています。

苦しみを軽減する考え方を、少しでも多くの人に分かりやすくイメージしてもらうために。そして最高の実践法ではないにしても、それなりの効果があって、多くの人ができる方法を提案する。

釈尊の遺志を継いで、少しでも多くの人を救おうとした先人たちの努力に、私は敬服します。

《つづく》
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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第五章 そして大乗」から最後まで読みました。

釈尊の没後、仏教が次第に勢力範囲を拡大し、独立した僧団が各地で散在する状態になると、僧団ごと地域ごとに教義の食い違いが出てきた。お互いに自分たちを正統仏教と考え、他者を破僧集団として非難するという深刻な分裂状態が発生した。

そこでもう一度、仏教をひとつにまとめるために、アショカ王時代(在位は紀元前268〜232年頃)ころに破僧の定義が変更されたらしい。「仏の教えに反する意見を主張する者が仲間を募って別個の僧団を作ること」が破僧の定義であったが、半月に一回の布薩儀式(いわば反省会)に僧団全員が参加すればいいことになった。つまり、これに参加しない者を「破僧」と定義し直した。

これによって仏教は多様化していくこととなる。この様々な新仏教運動を総称して「大乗」と呼んでいる。

その特徴は…
・我々自身が仏陀になろうとする。我々自身が釈尊と同じ立場のリーダーになって世の生き物を悟りへと導かねばならないという思いが前面に出ている。
・在家の人でもできる修行として六波羅蜜(特に智慧の完成を意味する般若波羅蜜)という修行方法が考案された。

***ここからは気をつけて読んで下さい***

さらには、我々が仏陀になるためには別世界にいる仏陀に会う必要があって、そのためには神秘的な作用・現象をも考案し、超越的な存在を想定せざるを得なくなった。

ゆえに、釈尊の仏教と大乗仏教とは別個の宗教であり、超越的存在を想定するという意味で、大乗仏教はユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの絶対神宗教に近い。

***ここからは私の意見***

第4章の釈尊の仏教のところまではとても心地良く読んできたのですが、第5章で流れが一変します。釈尊の仏教を「人類史上もっとも希有な宗教」と絶賛しますが、大乗には冷たい。大乗非仏説論まで持ち出して、仏教とは呼べないという主張のようです。

私は仏教についての勉強を始めたばかりですし、大乗仏典しか(それもほんの一部)読んでいません。それでも十分感動しております。だから、大乗が仏教では無くなったとしても、私にとってはそんなに大事件ではない。

例えば、ユダヤ教とキリスト教は経典を共有しています(旧約聖書)し、聖地(エルサレム)はイスラム教を加えた3宗教が共有しています。原始仏教と大乗仏教は全く別の宗教だと分類することになったとしても、そんなに異例のことでも無いように思います。

むしろ大乗を「不合理な超越者の宗教」と断じ、釈尊と大乗との間に境界線を引こうと躍起になっているところが、猿と人間との間に境界線を引こうと躍起になっていた人たち(神の視点から離れられなかった人たち)みたいでカワイイ

逆に、釈尊のごくごく普通の人間的なところが大好きだ!と第4章で書いている佐々木氏が、第5章では釈尊に固執し神のように崇めているところが気になります。釈尊を超人化(神格化)しているのは、むしろ佐々木氏の方なのではないか?と感じます。

釈尊とて我々と同じ人間だ!という認識があるからこそ、我々も仏陀になって衆生を救済しようという発想も生まれてくるわけです。そういう意味で特に即身成仏は極めて自然な発想だと思います。キリスト教ならば「みんな頑張って神になろう!」という発想はむしろ不自然ですけど。

視点の人間化の流れを進めたものが大乗仏教だ!という結末を信じて疑わずに第4章までを読み終えましたので、私なりの第5章が既に頭の中に出来上がっておりました。佐々木氏の第5章と私の第5章ではどこが違うだろうかと楽しみに読み進みましたら、何と全然似ても似つかない内容でした。ある意味、最も面白い展開でした。

恥ずかしながら、私の第5章を次回から4回くらいで書いてみたいと思います。まだまだ不勉強ゆえ、勇み足で変なことを書くかもしれません。遠慮なくご指摘下さい。

《つづく》
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悟りへの道 に参加中!
「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「一 序章」「二 不生・不滅の法門――九つの比喩」を読みました。

不生・不滅とはどんな法を説明することばですか?というマンジュシリー(文殊師利)の問いに、世尊が答えます。

1.インドラ神の影像
神々の王シャクラの影像は動かず、思惟することもなく、妄想することもなく、主客に分けて構想もせず、誤った判断(虚妄分別)もしない。

これと同じように、如来も構想もなく、誤った判断もなく、思惟もなく、心をはたらかすこともなく、寂静・清涼であり、生なく、滅なく、見られず、聞かれず、嗅がれず、味わわれず、触れられず、相(すがた)もなく、表徴もなく、認識もされない。

如来は不生をよりどころとするけれども、鏡の中に姿が映るように世間に姿を現わす。衆生たちの心の傾け方に応じて、姿の差異や寿命の長短の差異を示して、衆生を成熟せしめ、信仰の力によって悟りを望む器となった衆生たちには影像を現わす。

2.天の太鼓
「華厳経如来性起品」(如来の音声の第三喩)参照

三十三天の神々の大法鼓と同じように…

如来もまた不可視、不可見、非存在、不生で、思い及ばず、無心であり、相(すがた)もなく、形あるものでもなく、音声もなく、実体もなく、無二であって、視野を超えているにもかかわらず、衆生たちの前世の業が成熟すると、彼らの望みや意向に応じて、法の音声を授ける。

如来は存在することがないのに、世間は法の言葉によって、如来という想念を生ずる。衆生たちの前世の善業が成熟すると、それを如来から出た音声であると普く知る。

3.雨雲
「華厳経如来性起品」(如来の音声の第七喩)参照

雨を観察して世間では雲という想念が生ずるが、実際には雲は不現であり、不生・不滅・非存在である。そんな雨雲と同じように…

如来はそもそものはじめから完全な涅槃の境地に入っているのだ。実在することはない。
法を説くのを見て、如来が在(おわ)すとの想念が生ずるのである。

4.梵天
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第七喩)参照

三千大千世界を支配する梵天と同じように…

如来は空にして虚、生起することなく、文字もなく、音声もなく、はたらく場所もなく、実体もなく、思議も及ばず、根拠となる特質もなく、心・意(おもい)・認識を離れ、不生・不滅である。しかし、衆生たちの善根の集積の力で、如来の住居から動くことなく、あらゆる(行・住・坐・臥の)行動の型をもって、鏡に影像が映るように、世間に出現する。

5.日光
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第四喩)参照

日光のように…

如来という日輪の放つ知恵の光線はあれこれ分け隔てしないけれども、大地の高・下・中の差異によって、光明も大・小・中の種々の光線となる。

6.如意宝珠
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第十喩)参照

大海中にある「一切の望みをよく成就させるもの」と呼ばれる宝珠のように…

如来の深い志は純浄なる知恵という宝で、それを大いなるあわれみという幢(はたほこ)の頂に置けば、そこからいかなる衆生であれ、その衆生の志と心の傾け方に応じて、それにかなった教えを説き、衆生たちに普く知らせるが、彼らに対しても全てに平等であって差別しない。

7.こだま
「華厳経如来性起品」(如来の音声の第二喩)参照

こだまのように…

種々の深い志をもつ衆生たちの、言語や、その他種々の報知から(それに反響するように?)、こだまの種々の音声が生じ、ありのままに普く知れわたる。

8.大地

草・木・森林は大地に依存し、大地に根をおろして生長・増大・広大となるように…

全ての衆生たちの一切の善根は如来に依存し、如来に安住して成長する。如来は分け隔てがなく平等である。

9.虚空
「華厳経如来性起品」(如来の可見の身の第二喩)参照

虚空のように…

如来も全てに対して平等で、分け隔てせず、差別せず、不生・不滅であり、過去でもなく、未来でもなく、現在でもなく、根拠となる特質もなく、あれこれ誤った考えもなく、形もなく…である。

最後の一節が面白かったので引用します。
《以下引用》
…如来は、「この衆生は戒、もしくは忍耐、もしくは精進、もしくは禅定に心を傾けているから、この衆生には戒、もしくは忍耐、ないし禅定の法話を説くべきである」とは考えない。…如来は「この衆生は究極・完全なる知恵(般若波羅蜜)に心を傾けているから、この衆生には究極・完全なる知恵について法話を説くべきである」とも思わない。…如来には、そのような分けへだての心はまったくないのである。…如来は真理(法)を体とするもの(法身)であるから、…如来は完全に不生・不滅なのである。
《引用終わり》

《つづく》
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〈目的〉:肩関節を自動運動で外転させ、障害の鑑別を行う。

〈方法〉:
・患者:座位。患側の上肢を、可動域の限界までゆっくりと外転させる。

〈評価〉:
・外転不可:棘上筋が完全に断裂している可能性がある。
・(45)60〜120(160)°での痛み:棘上筋に断裂等の構造異常や短縮が見られる(1.棘上筋の一部断裂2.棘上筋の腱炎3.棘上筋腱の石灰化4.肩峰下滑膜炎5.大結節の骨折や損傷)。肩峰下のスペースが最も狭くなる角度。
・120(160)°以上での痛み:1.肩鎖関節の機能異常2.リウマチ性関節炎。

〈メモ〉:
・0°外転:上肢は、烏口上腕靭帯と上部関節包によって支えられる。棘上筋が必要に応じて収縮し、これを補完する。

・外転開始:まず、上部三角筋棘上筋が収縮。棘下筋肩甲下筋小円筋が上腕骨を関節面に押し付ける。加えて上下僧帽筋,上下前鋸筋が肩甲骨を胸郭に安定させる。

・30°外転:肩甲骨の動きはほとんど無い。上部三角筋棘上筋棘下筋肩甲下筋,小円筋の働きで外転が起こる。上下僧帽筋,上下前鋸筋が肩甲骨の運動の準備をする。

・30°→90°:肩甲胸郭関節:肩甲上腕関節=1:2の比率で外転運動が起こる。上下僧帽筋,上下前鋸筋によるが肩甲骨の外旋が30°(肩甲胸郭関節)、三角筋棘上筋棘下筋肩甲下筋小円筋による上腕骨外転が60°(肩甲上腕関節)、合計90°。肩甲骨の運動は、肩甲棘の近位部分が回転軸となる。胸鎖関節で肩甲骨の外転が起こる。肩鎖関節での運動はほとんど起こらない。

・90°→180°:肩甲胸郭関節:肩甲上腕関節=1:2の比率で外転運動が起こる。上下僧帽筋,上下前鋸筋による肩甲骨の外旋が更に30°(肩甲胸郭関節)、三角筋棘上筋棘下筋肩甲下筋小円筋による上腕骨外転が更に60°(肩甲上腕関節)、合計180°。胸鎖関節における鎖骨の挙上は30°までで、代わって鎖骨が後方に軸回旋する。肩甲骨の外旋運動は、肩鎖関節が回転軸となる。

参考文献「整形外科学検査法」
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平均:2023円
最安値:1600円
最高値:3000円

・8月の実績
・9月の価格
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決して虐待推奨の話ではありません。主旨は「かわいい子には旅をさせろ」とか「鉄は熱いうちに打て」とか「若いうちの苦労は買ってでもしろ」とか。「競争すると子供がかわいそうだから…」という親心は本当のやさしさではない!ということです。

立ったばかりの子供、歩き始めたばかりの子供、当然のことながらよく転びます。でも、そうやって立ち方や歩き方を覚えます。

うちの娘も、広くて全く凹凸の無いところで何度も転びました。そんな娘たちの姿を見ていて、小さいうちに転ぶのが大事なんだな…と気づきました。

頭からズテ〜ンと行っても、大した怪我はしないのです。大人だったらもっともっとすりむいているはずだし、年寄りだったら骨折していたかも。だけど、子供はちょっとすりむくくらい。

これはどうしてだろう?運動エネルギーで考えますと、転んだ時の衝撃は身長と体重に比例するはずです。その衝撃を転んだ瞬間に腕や頭や膝が受け止めることになりますが、身長と体重が大人の半分だとしても衝撃は1/4になります。

だから、絶対に子供の方が転び得(?)なのです。柔道の受け身の練習ではありませんが、小さいうちにあらゆる転倒パターンを習得して、転び方に熟達しておく方がいいのです。

体だけではなく、心の場合もそうだと思います。小さいうちにつらいことや悲しいことをある程度は体験して、心を強くしておいた方がいい。一時的にしょげることはあっても、大人になってからおかしくなるよりはいいんじゃないかと思うのです。(もちろん「転ぶ」というのは、ほどほどの程度のものですよぉ。一発で致命的なものは大人も子供も関係なくダメです。)

「競争にさらすのはかわいそうだ」という気持ちはわかりますが、競争にさらさないのは無菌室で育てるようなものです。子供のうちに抵抗力をつけておかないと、外(社会)に出た途端に倒れてしまいます。

《最初から読む》
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順位付けが差別につながるという意見。学校から順位付けを無くそうとしているわけですから、ほぼ差別と同一視しているということでしょう。

でも順位付けは「区別」であって「差別」ではありません。この区別を間違えてはいけません。区別を差別してはいけないのです。区別した結果、「お前は成績が悪いから一緒に遊ばない」とか言い始めるのが差別です。

「区別」は重要なことです。「生きる力」とは「区別する能力」と言っても過言ではないと私は思っています。物事をどれだけ微細にわたり区別できるか。学問上の難しい概念の理解から、どこのスーパーが安いとか、品物がいいとか、どっちが得だとか…に至るまで現実の世界では常に的確な区別をした上での判断が求められます。山奥で一人で暮らすにしても、あっちの山の方が木の実が多いとかの区別が生存を左右します(猿との競争ですね)。

おそらく子供が競争を好むのは、人類の祖先が生存競争の中で獲得した本能なのでしょう。知恵とは「区別する能力」でもあります。それによって人類は自然淘汰を超えてきました。

運動会の順位付けが差別だというのなら、オリンピックもNGです。教育委員会に文句を付ける前にJOCとかIOCに文句を付けて欲しい。どうせならモンスターペアレントとして世界を目指して欲しい。

私の商売でも、「高い」とか「あっちの治療院の方が上手だ」とか言われたら、差別ということで訴えてもいいんでしょうか?

公共事業での競争入札は良いこととされていますが、これも差別なのでしょうか?

社会に出れば、必ず競争が待っています。自分が順位付けされるし、他者を順位付けもします。勝ち負けが常にはっきりします。

その時に、勝っても有頂天にならずに負けた人の悔しさを思いやる。負けても悔しさに打ちのめされずに勝った人の強さをたたえる。

勝っても相手を侮蔑することなく、自分の幸運に感謝して、さらなる精進につなげる。負けても相手を嫉妬することなく、自分の非力を自覚して、悔しさを向上心に昇華する。

学校とは、生徒たちがこれから巻き込まれていく社会の競争の中で、そういった態度が取れるように教え込むところです。区別が差別に結びつかないように訓練するところです。順位付けをしなかったら、そういう教育はできません。

《つづく》
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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第四章 釈尊、仏教」の後半を読みました。

仏教が誕生したころ、インドはアーリア人に支配されていて、ヴァルナ(カースト制度の前身)という厳格な身分差別社会を作っていた。頂点に立つのはバラモン(祭式を司る祭官)で、神との交信を独占していた。王はたいていクシャトリア(第二の階級)であったが、バラモンには頭が上がらない。この身分は血統で決まるため、異なるヴァルナ間の交雑は極端に嫌われ、生まれた後のいかなる努力でも変更が不可能であった。

紀元前600年ころにはガンジス川流域での農耕文化が成熟し、余剰生産物すなわち「富」が生まれてくる。それと共に王侯・貴族階級のクシャトリアの中でバラモンに対する不満が鬱積してくる。「神を操ったところで真の幸福にはつながらない。自分自身の努力によって幸福を獲得しよう」という反バラモン教の動きが出てくる。この人たちは「努力する人(シュラマナ)」と呼ばれ、「沙門」の語源となる。

釈尊は沙門の一人であり、沙門宗教で現存するのは仏教とジャイナ教だけである。ジャイナ教は厳格さゆえにインド国外に広まることはなかった。一方、仏教は周辺国に猛烈に広まったが、インド国内では八百年前に滅んだ。

最初期の仏教の特徴は3つ。

1.超越者の存在を認めず、現象世界を法則性によって説明する。

仏教では、この世界全体を司るような超越存在を認めない。世界は特定の法則に沿って自動的に展開していく

釈尊は、世界に通底する法則性を見抜き、生き物がその法則性の中で真の安らぎを獲得するための方法を自力で見出した人である。決してその法則性を自在に操れるわけではない。同じ人間であり、別次元の超越者ではない。ただ、他の人たちより、勇気や智慧などの能力が格段に優れているに過ぎない。

釈尊が悟ったのは法則世界に束縛された状態にありながらも、その中での真の安らぎを得るための道である。そして、自分だけの専有とせずに、他の生き物たちにも告げ、できるだけ多くの者が同じ道を進むように呼びかけた。自分で道を切り開いた後で、もう一度皆のいる所まで戻って、非力な隊員たちを励ましながら連れて行くリーダーの姿である。

「自分は確かな安らぎへの道を見つけた。もし私を信頼するのなら後についてきなさい。途中でいくらでも手助けはするが、実際に歩くのは君たちなのだから、精一杯頑張りなさい」と言うだけ。道半ばで倒れる者や、信頼せずについてこない者まで救う力は釈尊には無い。

2.努力の領域を、肉体ではなく精神に限定する。

法則性だけで世界を理解しようとする仏教の立場は、現代の科学的世界観と共通するものがある。科学は物質だけを考察対象とし、仏教は精神だけを考察対象とする。

但し、仏教は精神の法則性の解明のみならず、それを基に自己の精神における「苦」の消滅を目指す。自己改造を目指すのである。ゆえに仏教は宗教なのである。

仏教の修行とは、釈尊の言葉を理解するための経典の勉強と、それに沿って行う瞑想の実践に集約される。反復練習の修行を繰り返すうちに精神は次第に練り上げられ、ある段階に達すると急激にレベルアップする。このレベルアップを何回か繰り返す度に、我々の精神は純化され、悪い要素(煩悩)を滅していく。煩悩がすべて消滅し、再発の危険がなくなった時、人は悟ったことになる。

煩悩がなくなれば、その煩悩のせいで生じていた苦しみの感覚もまた消滅する。肉体的側面からの苦痛の消滅(たとえば、信じれば病気が治るとか、長生きするとか)、そういった面には目も向けず、ひたすら自己の精神を改造することで苦の消滅を目指す。そこに仏教の本領がある。

3.修行のシステムとして、出家者による集団生活体制をとり、一般社会の余り物をもらうことによって生計を立てる。

仏教では、瞑想・経典読誦の修行を徹底的に行わなければ悟りは開けないという。日常のあらゆる生産活動を放棄して、自分のすべての時間を修行に使わなければならない。そんな修行者が生きていくための方法として「乞食」という方法を採用した。一般社会の人たちが食べ残した食べ物を分けてもらう生活方法である。

他の人が鉢の中に入れてくれた物しか食べてはならない、つまり一般の人々の好意に頼って生きねばならないという規定は、修行のための便利な状況を作り出すとともに、在家の人から「立派な人だ」と思われる必要性をも生む。

釈尊は、篤信の信者が布施してくれた食べ物で食中毒になり、激しい下痢に悩まされた末、沙羅双樹の間に横たわって亡くなった。

人間として生まれ、人間としてできる限りの努力によって悟りを開き、そしてごくごく普通の、人間らしい亡くなり方でこの世を去っていった…

やはり、天ぷらを食べ過ぎて死んだ家康とは、ちょっと違うなぁ…

《つづく》
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先日の運動会、かけっこで娘たちは二人ともアンカーでした。リレーではないので、平たく言うとビリでした。

ところで、運動会で順位を付けない学校があると聞いた時はビックリしました。それが差別につながるからだと聞いて2度ビックリ。今でもこういう学校は有るんでしょうけど、増えないで欲しい。

子供の学力の低下が顕著になってきています。ゆとり教育が間違いであったことは明白です。順位を付けないということもゆとり教育の一環だったのかは知りませんが、学力低下の一因になっていると思います。

私が学生の頃は、試験結果の番付は廊下に貼りだされることもありました。高校受験の結果はラジオで名前が読み上げられました。「落ちたらどうしよう」と戦々恐々としたことは事実です。受験戦争と呼ばれていて、高校生がライバルを刺殺するという事件までありました。

でも、だから順位付けを無くしてしまうというのはどうなんでしょうか。交通事故で死者が出たから自動車の利用を一切禁止する、というのと同じではないでしょうか。国力の低下という副作用の方がずっとずっと大きい。

ヨコミネ式の子供の「やる気スイッチ」をオンにする方法の一番目が競争をさせるということです。子供は競争したがるのです。そして勝ったら大喜びをする。負けたら物凄く悔しがる。昔の大人は、そういう子供じゃないとものにならないと言ったものです。

最近私が見かける子供たちは勉強をしたがらないのですが、スポーツとかゲームには熱心です。受験戦争ならぬスポーツ戦争とかゲーム戦争とか呼びたいくらいに。これは勉強に競争が無くなったからじゃないかと思うのです。

逆に、スポーツやゲームから勝ち負けを無くしたらどうなんでしょう?オリンピックで順位付けをしなかったらどうなんでしょう?勝ち負けの無いナントカ同好会みたいなものだったら、あんなに興奮しないし夢中にならないし、感動もしないんじゃないだろうか…

一番簡単な動機づけは順位づけなんじゃないかと、最近思うのです。

《つづく》
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