トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2009年10月

残暑はいつ来るかと思っているうちに、めっきり寒くなってきました。先日、鍼灸の学校時代のクラスメートから、電話が来ました。卒業して約10年。彼は鍼灸の仕事には就かず、郵便配達をしています。もう、30歳を過ぎたくらい…

「お願いがあるんですよ…」
と言われて、結婚しか思い浮かびませんでした。ついに、いよいよ…でも、違ってました。

「年賀状、もう予約しましたか?」

彼が住んでいるのは北海道。山形まで電話をよこすのは余程のことでしょう。政治に翻弄されて、郵便局で働く人が一番の犠牲者のような気もします。

「社長が変わるみたいだね。」と聞いてみたら、
「いい迷惑ですよ!」という返事。

***

話変わって、私のお客さん。自動車の部品を作っている工場の社長さんです。車の販売が落ち込んで、鍼灸の方も半年ほどご無沙汰でしたが、お盆明けころから再開しています。

「最近、大学生から電話が来るんだよ…」と、話してくれました。

山形大学工学部の学生から直接電話がかかってくるんだそうです。一人二人ではないらしい。

工場の仕事は少しずつ来ているけれども、人を新しく雇うほど忙しくもない。まして、頼まれた部品を作って持って行くだけの工場、大学生など必要ない、というわけです。

「こんなのは初めてだよ。ずいぶん大変なんだな。」

***

秋風がますます身にしみる話題、二つお届けしました…

ブログネタ
悟りへの道 に参加中!
「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の後半を読みました。

さとりの特質――十六種

文殊師利:如来はどのようにして菩提を得られたのですか?
世尊:如来は根もなく(無根)、よりどころもなくて(無住)、菩提を得たのです。

文殊師利:根とは何ですか?
世尊:身体が実在するという見方(有身見)が根である。誤った判断(虚妄分別)が拠り所である。如来は、菩提の平等性によって全ての現象の平等性を知る。それゆえ、如来は根もなく、拠り所もなくして、菩提を正しく完全にさとられた…

1.
菩提は寂静(内的感官)であり、外的感官は付随的寂静である。
眼は、我・わがもののいずれとしても空(無実体)であり、それが本性であるから寂静と言われる。人は空であることを知り、眼の対象たる諸々の物を追いかけない。以下、耳・鼻・舌・身・意について同様の記述。

2.
菩提は本性なるもので、汚れがなく、虚空と等しい。ゆえに、本性として光り輝いている(自性明浄)。

3.
菩提は何ものも取らず(不取)、何ものも捨てない(不捨)。不取性とは、すべての現象に対し執着しないこと。不捨性とは、すべての現象をひとつも捨棄しないこと。

4.
菩提には認識の根拠もなく(無因相)、対象もない(無所縁)。根拠なしとは、眼識(眼という感官によって知るはたらき)・耳識・鼻識・舌識・身識・意識が知覚されないこと。対象なしとは、対象の形を見ないこと、音声を聞かないこと、香りを嗅がないこと、味わわないこと、触れないこと、現象一般(法)を認識しないこと。

5.
菩提は過去を思惟せず、未来に対して慢心を起こさず、現在に対して多様で個別的な誤った考え方をしない。

6.
菩提は無身(眼・耳・鼻・舌・身・意の感官によって認識されない)であり、無為(諸条件によって条件づけられたのでない絶対:心・意・認識によって認識不可能なもの:生起も存続も消滅もない)である。

7.
菩提は無差別なよりどころである。以下、無差別とよりどころの組み合わせを列挙。
・名もないこと、真如
・一箇所にとどまらないこと、法界(すべての現象の根元あるいは本質)
・差異がないこと、真実なるものの極限
・無知覚(不可得)、不動
・空性(実体のないこと)、無相(根拠となる特質をもたないこと)
・無分別、無願(願い求むべきもののないこと)
・完成するもののないこと、衆生のないこと
・衆生の固有の性質のないこと、虚空
・無知覚、衆生
・無滅、無為
・所行のないこと、さとり
・寂静、涅槃
・形成のないこと、生起のないこと

8.
菩提は身体によっても心によっても明らかにさとれるものではない。身体は無情の物質で、不動で、精神がないからである。心は幻のごとくであって、無核、無実(空っぽ)で、実在せず、作られないからである。

9.
菩提はどんなものによっても表現することはできない。菩提には、それによって語句や会話が成立するようなよりどころが一つも存在しないからである。

10.
菩提は無取性(感覚的に把握するものがないこと)のもの、無所依性(感覚のはたらく場所・対象がないこと)のものである。(眼・耳・鼻・舌・身・意それぞれについて繰り返してあります。)

11.
菩提は空性の同義語である。菩提は空性はない(空性に関して空である)が、その同じ空性はすべての現象にもまたない。

12.
菩提は虚空と等しい。いづれも、平等でもなく不平等でもない。

13.
菩提とは如実の根拠である。菩提がそうであるように、すべては真如の外に超え出ない。

14.
菩提は形相(行相)にはいることによって、無形相としてとどまる。
・形相とはいっさいの善法を作り出すこと。一箇所に固定しない心の状態。すべての現象について、考え、量り、数え、分けること。もろもろの有為の現象に対する個別的認識。
・無形相とはいっさいのものが知覚されないということ。「すべての存在は根拠となる特質をもたない」と観ずる三昧(無相三昧)。なんらの認識作用もなく「量ることを完全に超越する」。諸条件によってつくられたのでない絶対の法。

15.
菩提は無漏(煩悩がこぼれることなく)、無取(執着をもっていない)。
・無漏とは、欲漏(欲望を伴う生存にかかわる汚れ)、有漏(輪廻生存一般にかかわる汚れ)、無明漏(真理に対する無知という汚れ)、見漏(ものの見方にかかわる汚れ)の四漏を離れること。
・無取とは、欲取(欲望に対する執着)、見取(仏教以外のまちがったものの見方に対する執着)、戒禁取(異教徒の戒律や禁制に対する執着)、我語取(我ありという執着)の四取を離れること。

16.
菩提は清浄、無垢、無汚点である。
・清浄とは、実体のないこと(空性)。本性。無戯論。真如。天空。内をよく知ること。など。
・無垢とは、根拠となる特質のないこと(無相)。完全清浄。離戯論。法界(ものの根元)。中空。外に活動しないこと。など。
・無汚点とは、願い求めるもののないこと(無願)。明浄(光り輝くこと)。戯論寂滅。実際(真実の極限)。低空。内外を知覚しないこと。など。

《つづく》

〈起始〉:肩甲骨の烏口突起
〈・〉:上腕二頭筋の下(★天泉
〈停止〉:上腕骨の内側面の中央部

〈作用〉:肩関節▲屈曲▲内転●水平屈曲
〈神経支配〉:筋皮神経〔C6〜C7〕
〈筋連結〉:上腕二頭筋小胸筋上腕筋上腕三頭筋

〈触察〉:
・烏口腕筋:烏口突起と肘窩の中央部を結ぶ線を指標にして、上腕骨中央部の前面や内側方から腋窩の深部に向かう筋腹を触察する。
上腕二頭筋短頭(前方に位置し細い)の後方に位置し、太い。後方を走る正中神経は、筋腹や腱と間違えるほど硬い触感がある。

〈関連痛領域〉
・上腕・前腕・手の後面。
・三角筋の中部・前部領域。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」

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科学 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#86」(10月6日放送分)を見ました。哲学の永井均先生でした。哲学的に「私」を考えるというのはよくあることです。仏教的アプローチのほうが奥深くて、西洋哲学的アプローチはどうも新鮮味に欠ける。

この番組を見て「私」について考えているときに、別の番組(「ザ!世界仰天ニュース」)でひどいアレルギーの体験談をたまたま見ました。アレルギーは、「私」という国境を警備している兵士が、敵でも味方でもない相手に対して猛攻撃をしかける病気です。この医学的「私」のほうが、哲学的「私」よりもずっとずっと示唆に富んでいるように思いました。

番組で紹介されていたのは、餃子やカレーが大好きでいつもたくさん食べていた人(それぞれ別の人です)が、ある日突然アレルギー症状が表れて、大好きな物が食べられなくなったというものでした。大好きな物ですから、そんなこと知らずに大量に食べてしまって、ショック死寸前のところまで行ったそうです。

何らかのきっかけで、免疫系の「敵」を判断する基準が変化することがあるということです。それで気づいたのが白髪染め。注意書きを見てみますと、使用前にパッチテストをするように書いてあります。これ、その商品を初めて使う時だけではないんですね。よく読むと、「使用する際は毎回必ず」と書いてあります。免疫系のこの恐ろしい変化は日々起こる可能性があるということです。

ウィルスや細菌、化学物質など、いろいろなものに私たちの免疫は攪乱され、揺らぎながらも「私」を守り続けています。膠原病などの自己免疫疾患は、そんな危うい運営状況の中で敵味方の区別がつかなくなって起きてしまうのでしょう。

境目の無いところに無理に打ち立てた「私」という独立国。自己同一性は常に揺らいでいます。心の中の「私」も、体の中の「私」も。

《つづく》

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子育て に参加中!
長女が、市指定の「もやせるごみ」の袋を見ていました。袋には「おもなもの」と書いてあって、燃やせるゴミの例が描いてあります。ほとんどひらがななので、娘も興味を持ったようです。

「パパ、おもなものって何?」

こういう素朴な質問ほど難しいものはありません。

「んー、主要な物というか…メーンの物というか…」
教養が邪魔をして、より難しい言葉しか思い浮かびません。

「ねーねー、おもなものって何?」
娘は弱味を見せると情容赦がありません。

「んー、だいじなものっていう感じかな…ちとニュアンス違うけど…」
と苦し紛れの答えをしてしまいました。

「だいじなもの?」
娘は、いかにも信じられないという顔つきで続けました。

「だってさ、これゴミ袋でしょう?」

あー、すみませんでした。そうでした、ゴミ袋でした。大事な物は入れませんよねー

字が読めるというのは、本当に恐ろしいことです…

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結婚 に参加中!
以前、出産した妻が男か女かを証明する書類を提出して欲しいと郵便局に言われてビックリした話を書きました。男が出産する例も、世界中探せばあるのかもしれません。ただ、うちの妻が男なのに出産したということになれば、取りあえずニュースになると思うんですけどね。

数年前、同性愛者同士の結婚を法的に認めて欲しいという動きがあって、話題になりました。男が子供を産んだということか?と思ったのですが、そうでもないようでした。

だとすると、男同士あるいは女同士が結婚する意味って何だ?と、そのとき考えました。お互いの性別を超えて愛を貫いた人たちが、法律を超えられない理由って何?

結局、財産とか所得税(配偶者控除とか、その国にあるのか分からないけど)とか、お金のことしか思い浮かびませんでした。結局、愛はお金を超えられなかったんだな…ということになって、一見「純愛」の話のように見えてたものが、ガラガラと音を立てて俗っぽい話になってしまった。

さて、夫婦同性に比べたら、夫婦別姓は小さな問題なのかもしれません。強制ではなく、選択の自由が認められるということですし。結婚のハードルが一段低くなるかもしれません。名字を変える手続きが面倒だ!というのが、要望してきた人たちの主な理由でしょう。結婚する人が増えることにはつながるかもしれない。

ただ、離婚へのハードルが低くなることでもありますけどね。

結婚という形が、どんどんと変容してきています。

離婚して母子手当を貰っているけど、別れた旦那さんは夜な夜な毎晩訪れるというカップルもいるそうです。事実婚なのに毎晩密会ですから、恋愛感情は燃え続けるでしょうね…しかも、わが子にも会えて、お金も貰えるということですから、幸せなことです。

夫婦別姓が認められれば、そんな新しい結婚の形(?)もやりやすくなることでしょう。

ただ、個人的意見を言えば、結婚というのはそれなりの覚悟が必要なわけで、名字を変えることを面倒くさいと思うようでは、その先どうなのかな…と思ってしまいます。もっと面倒くさいことにならなきゃいいけど。

私の場合「僕の名字をなのってくれますか?」というのが妻に対する結婚の意思確認でして、事実上のプロポーズになったような気がします。だから、別姓が認められると、ちょっとさびしいな…

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哲学 に参加中!
「犀の角たち」(大蔵出版)
最後まで読み終えまして、自分なりの「第5章」を書いてきました。

視点の人間化が進むとどうなるんでしょうか?さらに個別の人間の視点に下降(堕落)していくのかもしれません。人間一般(平均的な人間)の視点から個々人の視点への、さらなる分散化です。

量子力学では山田博士と斎藤博士の実験結果が違ってくるという現象(個人差)が起きました。生物学はDNAレベルまで解析できるようになって、個人別の医療(テーラーメイド医療)の可能性が広がってきました。

「科学は人間の視点から見た一つの見解」というポアンカレの指摘は、個々人の視点でそれぞれ違った科学ができる可能性をも示唆しているように思います。脳科学により個々人のシナプス結合の相違が解析されれば、個人別に「私」の数学体系、「私」の論理学体系ができてくるかもしれない。

さて、宗教はどうでしょうか?宗教の人間化も個別対応ということになるのではないでしょうか?大乗仏教は様々な人に個別に対応したがゆえに多様化したのではないでしょうか?そう考えると、大乗こそ最も視点の人間化の進んだ宗教のように思えてならないのです。(世界中のすべての宗教を知ってるわけではないですけどね…)

教義を変えないことが宗教として最も重要なことなのでしょうか?教義を変えないということは、唯一絶対の教義に人間を歩み寄らせてきた宗教ということであり、結局は神の視点から抜け出せない宗教ということではないでしょうか?

唯一絶対の教義を強要されれば、そこに新たな苦しみが生じます。結果として、その教義に歩み寄れない人間を救うことはできません。

人間に合わせて教義を付加したり変容させていく宗教が、人間化の進んだ宗教と言えるのではないでしょうか?

仏教はあらゆる思想やアイデアを含むということなので一見不統一のようでもありますが、理論的に整合性が取れるように先人たちが腐心したと思われる箇所に気づくことも多く、全体としてはうまくまとまっているんじゃないかと思います。(正確には全体をまだ見渡せていないので、そう期待して仏典をこれからひとつひとつ読んでいこうと思っています。)

そんな仏教の姿が、進化の名残を体の器官のいたるところに残しながら高等生物として生きている人間とダブってしまいます。

生物進化に照らし合わせて多様化を見てみますと、教義を変更しない宗教とは大腸菌のような自己コピーで増殖する生物、つまり有性生殖をしない生物に似ています。自分のDNAが変化することを許さない生き方です。一方、アショカ王時代の破僧の再定義は多様化が進むという点で、有性生殖をする生物の登場に似ています。

生物の歴史において、多様化は種族の存続に大きく寄与します。同じ種族の中に寒さに強い個体、暑さに強い個体、体の大きな個体、体の小さな個体など様々な個体が登場することによって、生息する地域を広げることもできるし、環境の激変に対応することもできるからです。

多様性を持つことで、仏教も宗教としての大きな生命力と可能性を得たと思います。そのおかげで、約2500年も昔に遠いインドの国に生まれたある一人の人間の考えが、多くの人に受け入れられ、伝わり、広がり、山を越え川を越え谷を越え砂漠を越えアジアに広がり、海を越え日本に伝わった。日本の中でも独自の発展を遂げ、実績を上げて、現代の我々がそれに触れることができる。

まさに「百千万劫にも遭い遇うこと難し」と言われる奇跡を生んだ。

※ ※ ※

著者がラブレターとしたこの本。私も夢中になっていろいろと考えてしまいました。こういう情熱はいつまでも持ち続けたいと思います。

《最初から読む》

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哲学 に参加中!
「釈尊時代の仏教は出家者向けであり、大乗仏教は出家できない人向けである。救われる人が違うから優劣はつけられない。」というのが、佐々木氏の意見です。

宗教に優劣をつけるとすれば、何人の人を救済できるか?がひとつの評価基準になりうると思います。しかしながら、少なくとも今の日本において、本当の出家ができる人は何人いるんでしょうか?修行のために生産活動を一切行わずに乞食になるような志を持った人が。

日常の苦しみから逃れたくて宗教にすがるんでしょうから、出家などという形で日常から抜け出せる人に宗教の需要があるんだろうか?抜け出せないから苦しんでいるんじゃないだろうか?在家の人を救えない宗教など、少なくとも現代においては実用的な意味がほとんどないように思います。

さて、「苦しみから逃れるために生産活動を休止する」と考えたら、それは入院みたいだなと思いました。うつ病やアルコール依存症の治療のために仕事をやめる人も少なからず居るようです。これは出家に似ているかもしれない。

波羅蜜など、大乗仏典に書かれてあることは、出家できない人向けの処方箋ということになります。日常生活を続けながらの治療です。

こんなふうに仏教と医療をダブらせていったら、救急救命こそ、佐々木氏が忌み嫌う超越者の概念なのではないか?と思いました。(私も最初は釈然としないものが有りましたが、観音様阿弥陀様に関して、今回さらに整理ができたような気がします)

ギリギリの切羽詰まった状況、担当医すら「ダメじゃないか?」と思うような危険な状況、そんなとき本当のことを患者に告げる医者はいないと思います。
「絶対に助かるから!僕が助けてあげるから!大丈夫!僕を信じて!」
と言い続けるはずです。医学的・科学的根拠が全く無くても、これは人道上許される方便です。そのおかげで気持ちをしっかり持つことができて、助かる人も少なくないはずです。

仏教が広がって、いろいろな人が救済を求めてきて、教団のほうでも一人でも多くの人を救いたいと思った時期が歴史上あったはずです。超越者を認めないというスタンスの仏教でしたが、超越者の話をしないとどうしても救えない人もたくさん居たはずです。仏教として、この人たちをも救いたいとなれば、不本意ながら作られる超越者の話は方便として許されるのではないでしょうか?

医療が進んでおらず家族の死に直面することも多かったであろう時代、生産技術も進んでおらず一日中仕事に追われた時代、天災や政情不安も今以上に多かったであろう時代…探しても探しても何の望みも見つからない現実の中で、何とか夢や希望を抱いてもらうには超越者の話しか無いのではないでしょうか?幸か不幸か、彼らはまだ「科学」という猜疑心を持ち合わせてはいない。

一部の裕福な権力者を除けば、大多数の人は超越者の話以外に救う手だてが無かったかもしれない…

絶対神宗教は、すべての人に超越者の話をします。しかし、大乗は人を見て、その人に合った話をすることができます。サンタクロースの話をしなくても夢を描ける人には、サンタクロースの話をする必要はありません。

仏教はあらゆる思想やアイデアを含むということですから、総合病院(救急救命完備)のようなものかもしれません。眼科、耳鼻科、整形外科、…それぞれの患者に適した処方箋(経典)が必ず見つかる。

診療科の区別、あるいは病気の進行度の区別みたいなものが、大乗仏教では十地経とか十住心に相当するのかもしれません。

より多くの人を救うという意味で、(大乗の)僧侶は一般人に極めて近い生活をしていたほうがいいと思います。乞食をしている人に生活苦の相談をする気にはならないし、結婚してない人に夫婦の問題を相談する気にもならないですから…

《つづく》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「智光明荘厳経」の「三 如来の本質――みずからさとり、他をしてさとらせる」の前半を読みました。

一切の現象をあらしめる本質――さとりの意義

如来は全ての現象の平等性の極限、無二性の極限、出生することのないものの極限であって、常にいたるところで平等であり、分け隔てせず、差別しない。すべての現象もまた同様である。なぜなら、すべての現象は知覚されない(不可得)からである。それは平等性であり、安定性であり、不動性であり、何ものにも依存しないということである。

すべての現象に依存しない心には固定した住処はなく、不生となる。そのような心は転倒せず、ものごとをありのままに理解し、誤って行動することもない。ものの本質(法性)と矛盾せず、すべてのものに随順し、ものの本性(自性)から乖離しない。ものの本性を得たものは少しも拡散しない。なぜなら、すべてのものは原因(因)と諸条件(縁)とによって生ずるからである。

原因や諸条件によって生ずるものは究極的に不生である。そのような人はさとりへの決定を得、すべての現象を思惟することと同一の基盤には立たない。そのときには、依存すべき何ものもなく、何も出現せず、消滅することもない。そのとき、人はものの本性に基づきつつ真理を体得する。はじめて道理に従って(如理)、真理に安住する。この人にとっては、どんな現象といえども仏の徳性ならざるものは何一つとしてない。すべてのものが実体をもたないこと(空性)をさとること、それが菩提にほかならない。

その人が、すべてのものが実体をもたないこと、根拠となる特質をもたないこと(無相)、願い求むべきものをもたないこと(無願)、形成さるべきものをもたないこと(無行)、依拠すべきところのないこと、出現のないこと、取りつくもののないこと、よりどころをもたないこと、をさとるゆえに菩提であって、菩提とは道理に従って修行することである。

それは、すべての現象が上昇することもなく、安定することもなく、所作もなく浄化もないと見て修行すること。束縛もなく、解放もないと見て修行すること。一でもなく、多でもないと見て修行すること。くることがないと見て修行すること。

如実に修行するものには、修行すべきこともなく、断ずべきものもなく、修行の果の達成もない。なぜなら、心は本来、光り輝いているからである。一時的に付着した煩悩(客塵)によって汚染されているけれども、本性としては汚染されたものではない。したがって煩悩を断つべき対治者も必要ではない。本性として清浄であり、浄化する必要もなく、無生であり、非難されないものであり、欲望を断じたものである。そこではすべての根元的執着(渇愛)が消滅し、それが煩悩の不生であり、不生なるものが菩提である。

菩提なるものは平等性であり、ありのままなること(真如)である。このことにおいて、もろもろの縁によって生じた生・住・滅を特質とする有為の諸現象のすべてと、生・住・滅を超越した無為の諸存在のすべてとが、ともに成り立つ。有為と無為はありのままなることにおいて成り立つから、ありのままなること(自体)には有為も無為もなく、両者を仮設することもない。それが、ありのままなることである。

ありのままなることは、それ以外のあり方ではないという意味で真如である。変化しない、くることがない、去ることがない、あるがままなる真如である。それは一つとして真如ならざるものはないということであり、汚れもせず、浄められもしない。生ずることも滅することもなく、涅槃と平等である。生死輪廻もせず、完全な涅槃に入らないもの、それは過去のものでもなく、未来のものでもなく、現在のものでもない。下でも中でも上でもないもの、それがありのままなること、即ち真如であり、真実の意義の同義語である。

ありのままの真実(真如真実)こそが真如であり、如来たるわれと無二である。われと真如を分ちえないこと、それが菩提であり、真実の意義をさとることである。真実の意義とは、すべての如来の所説の教えにおいて、すべての存在には実体のないこと、根拠となる特質のないこと、願い求むべきもののないこと、の三つの解脱に至る門に入ることを知ることである。すべての現象が三世にわたって平等であること、無差別であることを悟入することである。音声なく、言語表現なく、ことばなく、ことばを断じたものである。

知るとは、以上のように意義をさとる知と、意義内容という対象を知る知り手としての認識主体をさとる知とである。それこそがもの(法)の本質を知ることにほかならない。意義をさとる知と、認識主体をさとる知と、究極完全なる意義(了義)を覚知する知、この3つによってさとるものがものの本質である。これが真理の確立性(法住)であり、真理の決定性(法位)であり、ものにおいてはたらかない。ものにおいてはたらかないことと、意義とそれを表現する語句の平等性ということとは、無二という意義によって平等である。
それが無二の門にはいることによる平等性の知である。

教えの究極・完全なる意義と不完全なる意義(未了義)とは、平等なることにおいて意義が等しいこと、それが空性(即ち現象の無実体性)である。空性においては、意義の平等性、人の平等性、法の平等性、解脱の平等性が平等である。解脱の平等性をさとることこそが菩提にほかならない。

さとりの因――汚れと浄め

×対象の色かたち(色)への執着。
○色かたちと、それを見る眼との固有の性質(自性)を知る。

×固定した見方に執着。
○すべての見方はそれ自体が本来無実体であることを知る。

×道理にかなわない心のはたらかせ方(非如理作意)に執着する。
○道理にかなった心のはたらかせ方(如理作意)にもとづいて観察し、その固有の性質は本来存在しない(自性空)と知る。

×疑惑の垢に対する執着。
○疑惑をもたずに素直に心を傾け、信頼する。

×懈怠の垢に執着。
○法をありのままに証得する。

本来は清浄であるすべての現象は、因と縁との集積から生起する。菩薩は、心を汚す現象(迷いの世界)の原因たるものと、心を浄める現象(さとりの世界)の原因たるものとを見分けるべきである。しかも、汚れの因も浄めの因も本来は清浄なのだから、どちらにもとどこおるべきではない。

×我(アートマン)の観念を生起せしめ、固定した見方をする。
○すべての現象は、それを個物たらしめる固定的な実体をもたない(無我)とさとる。

×自分には固定的な実体があると固執すること(我慢)。自己の本体はかくありと固定的に見ること(我見)。
○内に向かっては心を鎮め(内寂静)。外に向かっては心をはたらかせない(外不行)。

×愛欲や怒りの心や害心や理論的考察(覚)。
○人が通常愛着を抱くすべての現象は不浄で嫌悪すべきものと観ずること(不浄観)。すべてのものに対し量り知れないほどの慈しみ、共感、喜びを抱き、特定のものに対する関心を捨てること。縁の法に悟入すること。

×無常を常と思い、苦を楽と思い、無我を我(アートマン)と思い、不浄なのに好ましいと思う四転倒(転は常用外の字を使うのが本当)。
○この身体は不浄、感覚は苦、心は無常、すべての現象には固定した実体がないと考える4種の憶念すべき基盤(四念処)。

×愛欲、怒り、睡眠、心のたかぶりや後悔、疑惑という5種の心を蔽う妨げ(五蓋)。
○信ずること、努力精進すること、教えを憶念すること、心を安定集中させること、正しき知恵という5種の能力(五根)。

×眼・耳・鼻・舌・身・意という6つの認識の入口(六入)。
○仏・その法・その法を実践する教団・おきて・世間的欲望の放棄・神格についての憶念という六随念。

×七種の正しからざる法
○教えを憶念すること、正しい法を選ぶこと、努力精進、歓喜、心の平安、心の安定集中、特定のものへの関心を捨てることという7種の覚りの条件(七覚支)

×八不正事(邪見・邪思・邪語などの八法?)
○八正法(おそらく八正道:八見・八思惟・八語・八業・八命・八精進・八念・八定)

×九悩事:私に不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛するもの好むものに対して不利益なことを行った、行うであろう、現に行っている。私の愛さざるもの好ましからざるものに対して利益を行った、行うであろう、現に行っている。
○九種の禅定の段階

×十種の不善の行為(殺生、盗み、など)
○十種の善行(不殺生など)

《つづく》

〈目的〉:肩峰下スペースにストレスを加えて、棘上筋の過剰使用による損傷,炎症(棘上筋衝突症候群)を検査する。

〈方法〉:
患者:座位。
術者1:患側の肩を90°屈曲(前方挙上)、肘を90°屈曲させ、肩関節をフル内旋させる。
術者2:患側の肩を90°外転(側方挙上)、肘を90°屈曲させ、肩関節をフル内旋させる。

〈評価〉:
・肩の痛みが出れば陽性。棘上筋の過剰使用による損傷,炎症(棘上筋衝突症候群)を疑う。
・肩関節の(外転+外旋)で痛むのが上腕二頭筋腱長頭の腱鞘炎、(外転+内旋)で痛むのが棘上筋腱鞘炎と言われる。

〈メモ〉:
・肩関節外転に伴って、上腕骨の骨頭は外旋し下方に滑り、肩峰下の運動スペースが確保される。骨頭が内旋位のままであったり、下方への滑りが起こらないと、大結節と肩峰が接触し、衝突症候群が発生する。回旋筋腱板/ローテーターカフ筋や三角筋下/肩峰下滑液包は圧迫され、腱鞘炎や滑膜炎を起こし、狭い肩峰下スペースを更に狭める。本テストは、上腕骨を 1.屈曲+内旋位 2.外転+内旋位において、肩峰下スペースの状態を検査する。
・ステージ1:年齢25歳まで。可逆性。【サイン】上腕骨大結節の圧痛,肩峰前面の圧痛,肩甲上腕関節60〜120°外転時の痛み(肩峰下のスペースが最も狭くなる角度),棘上筋衝突テスト陽性,肩峰下の腫れによる肩甲上腕関節可動域の減少。
・ステージ2:年齢25〜40歳まで。不可逆性。【サイン(ステージ1のサインに加えて)】軟部組織の軋音(コツコツ音),肩甲上腕関節内転時(約100°)に引っかかり,自動・他動運動による肩甲上腕関節可動域の減少。
・ステージ3:年齢40歳〜。不可逆性。【サイン(ステージ1と2のサインに加えて)】顕著な肩甲上腕関節可動域の減少(自動>他動),棘下筋の萎縮,肩甲上腕関節の外転と回旋の機能低下,上腕二頭筋長頭の腱への影響,肩鎖関節の圧痛。

参考文献「整形外科学検査法」

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