トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2009年09月

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はりきゅう師ということで、よく聞かれるのは「やせるツボ」と「頭がよくなるツボ」です。人生何事も「幾何学に王道なし」なのでありまして、本気で結果を出したいのであれば、ただならぬ覚悟で取り組むしかないのです。「ツボ」なんかに頼ろうとするところから間違っている!アンタ人生をなめてるぜ!と言いたいのですが、まあ、相手もどーでもいい世間話のつかみとしてそんな質問をするんでしょうから、説教するのはやめにして一つ二つツボを教えることにしています。

先日「頭の良くなるツボ」を聞かれました。幼稚園の保護者会でしたから、

「ツボもいいですけど、公文がいいですよ。子供だけじゃなく、大人の公文もあるんですよ。」

と答えてみました。すると、相手も面食らったらしく、

「奥さんの仕事を応援するなんて立派ですね。」

と言われました。

その通り!私は妻の仕事がうまくいくことを切に願っています。理由はふたつ。

ひとつは、どんな仕事でも波があります。だから、夫婦は別々に仕事を持っていた方が家計は安定する、ということ。

そして、もうひとつ。相手が稼いでくれている方が楽なのです。目指すは、相手の仕事を軌道に乗せての左団扇生活…

妻も、私の仕事がうまく行くように願ってくれているし、協力もしてくれます。魂胆は同じです。

夫婦二人三脚、わらじは二足。されど、団扇はまだです…

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第三章 数学」の後半を読みました。

この本の説明は分かりやすいというか、私好みです。科学史の本としても非常に優れていると思います。

そんなわけで、ペンローズについても書いてあるので、メモっておきます。いつか勉強したいと思って何年も前に本を買ってあったのですが、いまだに読めてません。それらの本を全て読んだところで、この本を読んだほどの理解ができるかどうか疑問です。

1.真実でありながら、それを数学的論理思考によって証明のできない命題が存在するということが、数学自身によって立証されている。つまり計算不可能性をもった命題が存在する。

2.我々人間の意識というものは、単にコンピューター機能の複雑化したものではなく、コンピューターには処理できない事柄、すなわち計算不可能な事柄を処理する能力がある(と思われる)。

3.抽象的な数学世界における計算不可能性が、具体的な物理世界に顔を出す場所があるとすると、量子論における「波の収縮」だと思われる。

4.計算不可能性も処理する新しい理論が見つかれば、「波の収縮」も説明できるだろう。量子論的確率の世界と現実の確定した世界とがスムーズに連結され、単一でエレガントな物理世界が見えてくるに違いない。

5.意識を生み出す脳という器官が、計算不可能な事柄を処理することのできる場所であるから、我々の知らない未知の科学理論によって機能していると考えざるを得ない。

6.脳の機能を詳細に調べれば、新理論を見つけ出せるかもしれない。ニューロン内部の微小管と呼ばれる部分が怪しい。

著者もペンローズの考えを疑問視しています。私も、ペンローズが評価されるような事実が見つかってから、ペンローズに向き合ってみたいと思います。

そうしないと、私の脳は、計算不可能な事柄を処理するどころか、計算不可能な脳になってしまいそうですから…

さて、次回からいよいよ仏教です!

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第三章 数学」の後半を読みました。

この本の説明は分かりやすいというか、私好みです。科学史の本としても非常に優れていると思います。

そんなわけで、カオスとフラクタルについても書いてあるので、メモっておきます。いつか勉強したいと思って何年も前に本を買ってあったのですが、いまだに読めてません。それらの本を全て読んだところで、この本を読んだほどの理解ができるかどうか疑問です。

《以下引用》…
カオス理論は次のように言う。
「もし仮に世界の事象が因果関係によってすべて決定されているとしても、最初の状態に少しでも不明な情報があれば、そのせいで未来を予想することは絶対にできなくなる。自然界では、最初の状態がほんの少し違っていても、その結果は必ず恐るべき食い違いへと進展するからである。したがって、物事の最初の状態を完全に知ることのできない人間にとって、この自然界の事象の動きを予想することは絶対にできない。量子論とは全く違ったスケールで、人間には認識の限界が存在し、その不可知性は絶対に避けられないものなのだ。」
…《引用終わり》


バタフライ効果も、最初に知った時には驚きました。

《以下引用》…
フラクタル数学は次のように言う。
「我々はこの複雑な世界が、単純な要素の組み合わせによってできているという先入観を持っている。神が世界を創造なさったと考えるなら、それが妥当な考えである。神が素材を組み合わせることで世の中を作ったとすれば、それは、単純な素材で複雑なものを作るという作業であったに違いないからである。しかし実際の自然界はそうではない。現実を観察してみると、複雑なものをいくら分割して細かくしていっても、複雑さは変化しない。マトリョーシカ人形のように、中から同じ複雑さがいくらでも現われてくる。したがって自然界は単純な要素の組み合わせで作られているのではない。ある同じ複雑さがスケールを様々に変えて、大きくなったり小さくなったり、全にして一、一にして全、そういう捉えがたい不可思議さで存在しているのだ」。
…《引用終わり》


仏教の説明のように見えるのは、著者が仏教学者だからでしょうか?

《つづく》

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「犀の角たち」(大蔵出版)
「第三章 数学」の後半を読みました。

最も衝撃的だと思われるゲーデルの「不完全性定理」についてまとめてあるので、メモっておきます。

《以下引用》…
「その数学体系が無矛盾な場合、つまり完全である場合には、その体系を使って正しいということが証明できないような真理が必ず存在する」

「無矛盾な数学体系においては、その体系が無矛盾であることを証明することはできない」
…《引用終わり》


これを後に別な形で証明したのがチューリング、という関係です。ところが、ゲーデルの登場以前に、このことに薄々感づいていた人がいる。それがポアンカレです。ポアンカレの科学観は、科学の人間化という現象の本質をつくものです。著者同様、私も引かれたので、まとめておきます。

一言でいえば、「近代科学の歴史は、科学的真理が人間の視点から見たひとつの見解にすぎないということを実証してきた歴史である」というもの。

まず、原初の単なる外界認識の段階があります。実生活の中で体を動かして、身の回りの物を見たり触ったりして認識し、空間的位置関係なども認識するようになる。この空間概念を連想で拡張し、最終的には「全宇宙空間」をイメージして、それを外から眺めている自己を想像することができるようになります。これが第一段階。

我々が手にするのは固体が圧倒的に多いから、「空間内を、自己の形状を変えずに移動する物体」という概念が生まれ、それがもととなって力学や幾何学のもととなる。気体や液体の方が多ければ、生まれる概念も違っていたはず。二本足で歩行し、ふたつの目で物を見、5本の指で物をつかむ…そういう人間固有の事情から、独自の世界像が構築されていく。科学的思考方法を生み出す前の段階です。

いつしか、人は論理思考と呼ぶべき特殊な思考法を身につけた。これは、物質世界からの情報ではなく、我々の思考そのもの。神の視点を否定していく原動力と成っていく。ポアンカレは、その本質が数学的帰納法であると喝破した。

リンゴが一個、リンゴが二個…と目の前にあるだけ数えて喜んでいた段階から、一個ずつ増やしていけば数には際限がないはずだ!と考える段階に進む。

「k=1の時にこの規則は成り立つ。一方、k=nの時にこの規則が成り立つなら、必ずk=n+1についても成り立つ。ゆえに、この規則はすべての整数について成り立つ」。子供が聞いたら「なぜ?」と首をひねるだろう。説明すれば納得する。納得するが感得できない。これは我々の原初的世界観に属する思考ではなく、論理思考の結果、否応なく納得させられる事柄、「不思議だが本当な」ことなのである。

帰納法的な思考によって、基本的な規則さえつかんでおけば、あとはそれを現実の対象に際限なく適用することで、全世界の現象をひとつ残さず説明できるように見える。こうして、世界を単純な規則、単純な構造へと集約していこうという傾向が生まれてくる。これこそ科学一般の基本的スタンスである。

ポアンカレによれば、数学およびその他の自然科学とは、人間存在を超えた普遍的真理を探究する学問ではなく、あくまで人間が独自の規約を用いて作り上げる特殊な構造体系を構築する学問だということになる。

* * *

「神の視点」とは、全知全能の神の存在を信じ、神になったつもりで世界を見つめること。「人間の視点」とは、神はいるか分からないし、まして神になりかわるなど無意味な仮定であることに気づき、人間として世界を見つめること。

それが人間固有のものであることを忘れてはならない。人間にしか通用しないということを忘れてはならない。

《つづく》

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複素数みたいなもの…全然数学的な意味ではなく、飽くまでもイメージなんですが…私たちの頭の中には現実(real)の座標軸と想像上(imaginary)の座標軸があるな、と突然思いました。

実数成分(real part)とは例えば、駅まで何分で電車が何時だから、間に合うとか間に合わないとか。あの品物が幾らで手持ちが幾らだから買えるとか買えないとか。現実的な判断。俗なことと敢えて言いたい。

虚数成分(imaginary part)とは例えば、「人間一人の命は地球より重い」というようなこと。地球の上には人間だけでも60億くらい(?)いるわけですから、realの座標軸では到底ソロバンが合いません。そういうトンデモ判断を可能にする。

でも、夢とか希望とか幸福とか、これは虚数軸だと思うんです。汚い紙に書いた落書きでも、娘が最初に書いたひらがなならば、親にとっては大変な価値のあるものです。高価なステーキも、いっぱいのかけそばにはかなわない時もある。鑑定団では全然値段がつかない物でも、大切な人の形見ならば何よりも大切な物になる。誰からも憎まれるような悪党でも、その人を我が身に代えても守りたいと思う人がいたりする。…

実数軸で計ったら、にっちもさっちも行かなくて、つらいことばかりの憂き世なのです。でも、そこで夢を抱いて、希望を持ち続けて、やがて幸福を感じたりできるのは、虚数軸があるからだと思います。

もちろん虚数軸にも負の方向性は有って、良いことばかりではありません。どうでもいいことに執着して執拗に復讐を繰り返す犯罪者の心理も、実数軸では理解できないものです。

が、ここでは正の方向性に着目して、聖なるものはここに含まれるだろうと指摘しておきます。そこに、逆境の中でも笑顔でいられる可能性があると。

さて、先日までの内容とリンクさせますと…

お金というか、物の値段というのは、基本的には実数軸だけの概念だと思うのです。現実世界での物々交換を円滑に進めるために発明した極めて俗なもの。でも、そこに虚数軸が関与してくると、どんな値が付くかは全然予想できなくなる。例えば、有名選手が着用したボロボロのユニホーム。その選手が好きか嫌いかで0円〜無限大まで値段の幅は広がります。

刑罰の量刑もそうですね。基本的には実数軸だけの概念です。犯罪の再発を防ぐため犯罪者にはそれに見合った刑罰を与えて、言わば見せしめとするわけです。これは治安維持という極めて俗っぽい事情によるものです。でも、そこに虚数軸が関与してくると、被害者は私のかけがえのない人というような要素が入ってきたり、逆に被害者は少し痛い目に遭った方がいい人だったんだという要素が入ってきたりで、無罪〜死刑まで幅は広がります。

聖なる存在は、虚数軸だけの概念だと思います。だから、値段付けをしたりはしないし、賭博場にも通わない(もちろん、賭博場で人々を静かに見つめるということはあるかもしれないけど)。法廷にも立たない。犯罪ごときでとやかく言わない(もちろん、悪いことをしていいというわけではないけれど)。

まあ、これは私の勝手なイメージなんですけどね。我々は実際のところ、虚軸と実軸を常に行ったり来たりしながら(正に虚々実々の駆け引き?)生きていますから、実と虚をこんなふうに区別したところで何の整理にもならないかもしれませんが。

ただ、実→虚とか、虚→実という変換の過程で1+1=(無限大)みたいなトンデモ判断が起こり得るということは意識した方がいいんじゃないかなということです。

虚軸の関与を、私たちは主観的とか感情的とか言って排除しますが、これが悪い作用ばかりではない。真っ暗闇の中で光を見ることができる術でもあるのですから。虚軸の過剰な排除が、私たちから夢や希望を失わせたのではないか?ストレス社会を生み出しているんじゃないか?と思うのです。

仏教的には実→虚が禅定(止)で、虚→実が正観とかだったりするかもしれません。少なくとも止観双修が虚軸とうまく付き合うためのトレーニングになることは間違いないです。

《最初から読む》

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「如来蔵系経典」(中公文庫版)
「華厳経如来性起品」の「八 如来の活動領域――如来出現の第六相」「九 如来の明らかなさとり――如来出現の第七相」を読みました。

・如来たちの活動領域をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

真実ありのままなる絶対はまったく不生・不滅である。それはなんら限定された領域にとどまらず、あらわれない。世間のために利益をなす如来たちの活動領域も同じく無量で、その本性は真実ありのままなる絶対に等しく時間を超越している。

・如来たちの明らかなさとり(現等覚)をどう理解すればいいですか?という如来性起妙徳菩薩の問いに、普賢菩薩が答えます。

一切の現象の証悟(さとり)は二とか無二とかの分別を離れ、正しく無対象である。それは虚空に等しく、我(アートマン)のあるなしにかかわりがない。

《つづく》

【肩甲胸郭関節の動き】
挙上・下制:〔可動域〕上下方向に10〜12cm。
外転(屈曲)・内転(伸展):〔可動域〕15cm。
上下方回旋:〔可動域〕60°。
※肩関節外転の可動域(180°)=肩甲上腕関節の可動域(120°)+肩甲胸郭関節の可動域(60°)…肩甲上腕リズム(2:1の比率)。
 
【筋肉】
鎖骨下筋:下制●
小胸筋:下制● 外転● 下方回旋● 呼吸▲強制吸息
前鋸筋:外転● 上方回旋●
僧帽筋上部:挙上● 内転▲ 上方回旋●
僧帽筋中部:内転●
僧帽筋下部:下制● 内転▲ 上方回旋●
肩甲挙筋:挙上● 下方回旋▲ 頚部▲側屈 呼吸▲強制吸息
菱形筋:挙上● 内転● 下方回旋●

【胸鎖関節】
・鎖骨が胸骨,第1肋骨と連結する二重関節。鞍関節であるが、関節円板の介在で球関節の機能を持つ。上肢帯と体幹を結ぶ唯一の関節。
・〔靭帯〕前胸鎖靭帯,後胸鎖靭帯,鎖骨間靭帯,肋鎖靭帯。
・鎖骨末端は、上方10cm,下方3cm,前方10cm,後方3cmの可動性(基本肢位を基準とする)。
・鎖骨の軸旋範囲は、30°。
・運動制限因子は、下方は第1肋骨,前後方向は靭帯の緊張。

【肩鎖関節】
・肩峰と鎖骨を結ぶ平面関節。不完全な関節円板を有する。。
・〔靭帯〕烏口肩峰靭帯,烏口鎖骨靭帯(円錐靭帯,菱形靭帯),肩鎖靭帯。
・回旋範囲は、30°。(胸鎖関節の30°と合わせて、肩甲骨は体幹に対して60°の回旋可動性を持つ)
・回旋制限因子は、烏口鎖骨靭帯の緊張。

【肩関節】
・肩甲骨関節窩と上腕骨頭との間の多軸性の球関節。上腕骨頭が関節窩の3倍もあるため、骨性構造の安定性は低い。
〔靭帯〕烏口上腕靭帯,関節上腕靭帯,烏口肩峰靭帯。

【その他】
・肩甲骨は、前額面に対して30°,肩甲骨と鎖骨は60°の角度をなす。

参考文献1「基礎運動学」

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「神の視点」から「人間の視点」への移行というのを考えた時、「民の見えざる手」というフレーズが頭に浮かびました。

市場原理で価格が決定するシステムを、正当化するためと言えばいいんでしょうか、神聖化するためと言えばいいんでしょうか。「神の見えざる手」という言葉には、王権神授説みたいな俗っぽさを感じます。

神様が俗界の象徴みたいな「お金」に手を出すんだろうか?「神様は賭博場に通うのか?」的な批判は当時無かったんでしょうかね。八百万の日本ならば、賭博場の神様も居そうですけど。

「神の裁き」とか「最後の審判」とか、西洋の神様は裁判がお好きなようです。だから、裁判とは神聖なもの…と思いがちです。でも、最近、私は違うような気がしています。天罰のようなものは除外するとして、少なくとも民事とか刑事とかの裁判は神聖なはずがないと。

本当に神聖な存在は人を裁くだろうか?神様が賭博場に通うことに違和感を覚えるのと同じように、神様が法廷に立つことも奇妙なことに思えてならないのです。

裁判員制度は、司法における「神の視点」から「人間の視点」への移行ではないでしょうか?神に近いと思われる良識ある専門家たる裁判官から、一般の人間へと判断が委ねられる…

科学史を展望して気付いたのは、「神」と呼んでいたものも結局のところ人間が想定したものに過ぎません。政治・経済・司法等々の様々な分野でも、いたるところに「神」は現れ、極めて俗っぽい作業にもその手を染めていました。

でも、それは「神」の手ではありませんでした。われわれ「民」の手だったのです。

《つづく》

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裁判員制度 に参加中!
裁判と鑑定団て似てるな、とふと思いました。裁判というのも、罪の重さを鑑定するという点では「なんでも鑑定団」みたいなもんじゃないだろうか?と。「何をバカな!」とおっしゃる方が多かろうことは重々承知の上です。

市場では、物の値段は売り手と買い手との間で折り合えば、基本的には成立します。そこが、裁判とは違うでしょうかね。被害者と加害者、あるいは検事と弁護士が相談して罪を決めるわけではないですから。でも、大体が両者の間を取って決めるのであれば、大差ないかもしれません。

「なんでも鑑定団」は買い手がいないかわりに、鑑定士が玄人の判断を下します。裁判官みたいですよね。

裁判員制度への反対意見として「『あなたは死刑ですよ。死んで下さい。』と我々一般の人間が宣告することなんですよ!そんなことできますか?」というものがあるということは先日書きました。死刑を含む罪の重さと、物の値段とでは全然深刻さが違うじゃないかという意見もあるでしょう。

例えば、こんな場合どうでしょう。親父の形見の骨董品がたくさんあるから、いざとなればそれを売っぱらえばいいやという考えで、借金をしまくっていた人がいたとします。そして、いよいよ骨董品に手を付けざるを得ない日がやってきました。ところが鑑定してもらうとガラクタばかり。全部売っても二束三文でした。借金取りに追われたその人は、自殺するしかありませんでした…

値段をつけることが、死刑宣告みたいなことになる場合だってある。

もっと拡大させれば、普段の何気ない一言がきっかけで、一人の人間の人生を変えてしまうことは結構あるものです。「一般の人間が、他人の人生に介入するようなことはできない」と裁判員制度反対の人は言うのですが、お互い介入しあって生きているのが人生なんじゃないでしょうか?

他人の人生を変えたり変えさせられたりし合うのが、社会なんじゃないでしょうか?

《つづく》

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悟りへの道 に参加中!
私たちの頭の中には、現実の座標と想像の座標がある。

現実の座標が、日常で役に立つ。
想像の座標が、日常から解放する。

想像の座標は…

現実から自由にしてくれる。
逃げることもできる。
飛躍することもできる。

値打ちの無い物に、値打ちを与えることもできる。
値打ちの有る物から、値打ちを奪い去ることもできる。

その人の罪を大きくすることもできる。
その人の罪を小さくすることもできる。

想像の座標は現実の座標から完全に自由だから…

望みある者を絶望に追いやることもできる。
暗闇に閉ざされた者に光を灯すこともできる。

《つづく》

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