トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2009年06月

ブログネタ
爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#75」(6月16日放送分)を見ました。複雑系科学の池上高志先生でした。今回の先生は爆笑問題のファンということで、なかなか示唆に富んだ内容でした。

醤油に浮かんだラー油、餃子を食べる時必ず見かけます。その動きから「生命」を解明する…

一個の水の分子。一個だけでは水なのか氷なのか湯気なのか分からない。そして、どんどんマクロに見ていくと、我々の体の中で生物の一部になっていたりする。生物かどうかは、スケールで違うのか?

地球は生き物なのか?銀河系は?宇宙は?

DNAというところから始まるお決まりの生物学ではなくて、生き物のような動きをするものから生き物を研究するという手法。生きるとは、「何(what)をしたか?」ではなくて、「いかに(how)生きたか?」ではないだろうか?という私の人生観にも似たアプローチの仕方ですね。

「生きる」とはダイナミクスである。DNAだから生き物と言っていいのか?生き生きしてたら「生き物」でいいんじゃないか?DNAという主語から始めるのではなく、状態(述語)から生き物を見つめる…

アリの例えも面白かった。アリには我々人間という存在は大きくて理解できないんじゃないか?いたずらされてても分からないんじゃないか?だから、我々人間も自分の上にいるとてつもなく大きな存在には全然気づいていないんじゃないか?そして絶対に理解することはできないんじゃないか?僕も以前そんなことを影絵に例えて書いたことがあります。

だから、まだ気づいていないものを解明するときに、DNAなんて既存の概念からスタートしたのでは行きつく先には自ずと限界が生じてしまうんじゃないですか?というのが先生の考えです。例えば、「イヌ」という既存の概念からスタートしたら、「イヌ」以上のものには行きつかないんじゃないか?

「ある程度のものができてしまうと守りに入っちゃいますよね?そこでぶち壊して行かないと更なる展開はないんじゃないですかね?そこんとこ爆笑問題さんはどうなんですか?」というような逆質問がありました。

既存の形式にとらわれないやり方、素敵ですね…

《つづく》

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人、生きる意味 パート2 に参加中!
先日書きました。「生きる意味なんて無いかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。」

「意味」が見つからなければ、自分で作ればいいのだと思う。「意味」があれば「絶望」しないで済むかもしれない。「絶望」が単なる「苦悩」で終わるかもしれない。…と、「絶望の方程式」は言っている。

しかしながら…

科学が浸透して、みんなが自分を客観的に見つめるようになった。だからかな?

産業革命〜IT革命等々で生活が激変して、今まで考え方が通用しなくなった。だからかな?

宇宙にポツンと浮かぶ青い地球を見て、家だとか、町だとか、国だとか、社会的しがらみが陳腐なものに感じた。だからかな?

今は「意味」が、なかなか決められない。

「お前は長男なんだから、早く大きくなって、いっぱい稼いで、家を支えていかなくちゃダメだぞ」な〜んて、昔は言われたんじゃないだろうか?私は言われなかったけど。でも、そういう空気は私の世代でも、まだ何となく感じてました。

例えば、「リボンの騎士」とか「ベルサイユのばら」とか(こんな例しか、なぜか思い浮かびませんが)、運命に翻弄される人生。「意味」が向こうからやってきて、縛り付けてしまう。自由の無い人生は「苦悩」続きでしょうけど、「意味」があるから「絶望」はしないのかもしれない。

こんな束縛からの解放が、現代までの世界のテーマだったのかもしれない。でも、解放された我々は、束縛してくれる「意味」を探しあぐねている…

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哲学 に参加中!
「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「8否定の論理の実践」の「1ニルヴァーナ」を読みました。

ニルヴァーナ(涅槃)とは、仏教が最終目標とする境地と言っていいかと思います。
《以下引用》…
『中論』をみると、「もしも〔五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を〕取って、あるいは〔因縁に〕縁って生死往来する状態が、縁らず取らざるときは、これがニルヴァーナであると説かれる」(第25章・第9詩)と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場に立つときがニルヴァーナである。
 輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。
 故に輪廻とニルヴァーナとは別のものではなく、「等しきもの」であり、両者は本来同一本質(一味)である。…
 この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想の根底となっているものである。
 人間の現実と理想との関係はこのような性質のものであるから、ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない。ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。故に『般若経』においてはニルヴァーナは「夢のごとく」「幻のごとし」と譬えている。それと同時に輪廻というものも実在するものではない。
…《引用終わり》


これは昨年の大晦日に私が仏教について抱いている考えをまとめたものと合致すると思います。

《以下引用》…
これは実に大胆な立言である。われわれ人間は迷いながらも生きている。そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、憧れる。しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在しないのである。ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。
…《引用終わり》


すべては気の持ちよう…ということになりそうですが、結局そうなんでしょうね。すべては妄念の所産というところから仏教は始まるわけですから、妄念から自分を解放することが最終目標ということにもなるでしょう。

《つづく》

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テレビ朝日 に参加中!
テレビ朝日開局50周年!と去年から言ってるような気がするんですけど、私好みの番組がポンポンと出てくるので毎回楽しみにしています。60周年を迎えるまで、50周年記念番組を作り続けて欲しい…

「刑事一代」も良かったです。吉展ちゃん誘拐事件の容疑者を落とすところはテレビに夢中になってしまいました。いつものようにパソコンにワンセグを録画して事務処理しながら見てたのですが、事務処理が全然進みませんでした。

やはり、渡辺謙さんはいいですね。「はね駒」(NHK朝の連ドラ1986年)の時から大ファンですという賛辞は多いと思うので、違うこと書きますね。

こういう職人気質の人はいいな…(謙さんも職人気質の俳優さんですね)と思ってみていたんです。こういう人が警察にも昔はいたんだな…と。警察の人がこれを見て、考え直すところがあればいいな…と。

ところが、三億円事件では八兵衛さん(主役の刑事さん)が全然活躍できなかった。「この事件は今までのようなやり方では解決できないんです!」と若手に責められてしまう。「人間が変わってしまったんです。職人のようなやり方ではもう通用しないんです。」…これじゃあ、これを見て八兵衛さんみたいな刑事になりたい!とか思う人はいないですよね。警察の言い訳に使われてしまいそうです。

確かに、人間が変わったし、社会も変わったし、八兵衛さんのやり方が通用しない事件は増えたかもしれません。でも、調書の内容を徹底的に頭に入れて、寝食を忘れて執念深く追い続けるというのは基本だと思うんですよね。社会が変わったから具体的な方法は変わってくると思いますけど、基本は同じじゃないでしょうかね?

「人間(犯罪者)が変わった」というのは日々のニュースで痛切に感じます。レベルアップしてます。でも、だから警察はレベルダウンして仕方がないということにはなりませんよね。

警察の方は本当に頑張って下さっているんでしょうか?「刑事一代」の録画を見終わってすぐに、こんなニュースが飛び込んできました。「女性警察官の拳銃誤射相次ぐ 神奈川県警、テレビに命中」

テレビに命中したから、射撃の腕は確かだと喜ばなければいけないんでしょうか?

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哲学 に参加中!
「龍樹」(講談社学術文庫版)
「?ナーガールジュナの思想」の「7空の考察」の「2中道と空見」を読みました。

まず、三諦偈から。「因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり」という詩句を言います。
《以下引用》…
因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。ほぼこのように中国以来伝統的に解釈されてきた。
…《引用終わり》


ところが、『中論』では違うらしい。つまり、非有非空ではないらしい。

《以下引用》…
空とは有無の二つの対立的見解を離れた中道の意味であるといいうる。すなわち空と無とは明瞭に区別されているから、空を無の意味に解することは中観派の真意に適合していないといいうるであろう。後世中国においては非有非空の中道を説いて、多くの場合は空と中道とを区別するが、また或る場合には同一視していることもある。
…《引用終わり》


非有非無についてもう少し詳しく書くと…

《以下引用》…
有と無とはそれぞれ独立には存在しえないで、互いに他を予想して成立している概念であるというのである。すなわち、有と無との対立という最も根本的な対立の根底に「相互依存」「相互限定」を見出したのであった。故に非有非無とは相互依存説(相互限定説)に立って始めていいうることであり、無自性および空という二つの概念が縁起から導き出されるのと同様に、中道の概念もまた中観派特有の「相互限定」という意味における縁起に基礎づけられていることを知る。
…《引用終わり》


『中論』では空見を排斥している箇所が見られるそうで、それについては次のように分析しています。
《以下引用》…
空見とは、本来非有非無の意味であるべきはずの空を誤解して、それを有の意味に解するか、また無の意味に解するか、いずれかであり、普通「空見」または「空に執著すること」といわれているものも、さらに突きつめて考えれば、この二種が存することがわかる。
…《引用終わり》


《つづく》

〈起始〉:第6頚椎〜第2胸椎の棘突起と項靭帯
〈・〉:菱形筋の下
〈停止〉:第2〜第5肋骨の肋骨角のすぐ外側方

〈作用〉:呼吸▲強制吸息
〈神経支配〉:第2〜第4肋間神経
〈筋連結〉:僧帽筋小菱形筋

〈触察〉:
・補助線1:第6頚椎棘突起と第2肋骨の肋骨角を結ぶ線
・補助線2:第2胸椎棘突起と第5肋骨の肋骨角を結ぶ線
・補助線1と2に存在するが、触知しにくい。
・筋腹は筋の全長の外側1/2の領域に存在するので、肩甲骨は外転させておく。

参考文献1「骨格筋の形と触察法」
参考文献2「クリニカルマッサージ」

標準料金(鍼灸なし・33分触察)の目安
1人:【昼】1900円【夜】2000円
2人:【昼】1800円【夜】1900円
3人以上:【昼】1700円【夜】1800円

詳細は以下のとおりです。

触察料:
標準(33分)で…
・1662円(午前9時〜午後6時)
・1763円(上記以外の時間帯)
※100円(2分)単位で増減できます

出張費:
・1人の場合:275円
・2人の場合:174円
・3人以上:73円

追加項目:
・当日申込は101円
・鍼灸は1体位あたり101円の他、鍼20円(1本)、灸20円(1壮)

端数処理:
・百円未満は切り捨てとします

※今回反映します消費者物価指数(生鮮食品を除く)100.7は4月のものです。

・6月の価格

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爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#74」(6月9日放送分)を見ました。障害学の福島智先生でした。前回の先生と同じく爆笑問題を見たことも聞いたこともない先生。但し、今回は少し事情が違います。目が見えず、耳が聞こえない、しかし東大教授。

障害を持っている人がずば抜けた才能を示すことがあると先日書きました。読字障害だったと言われる天才たちの他にも、最近話題になったのは盲目のピアニスト辻井伸行さん。番組中ではホーキングやスティービー・ワンダーを例に挙げて、太田さんが問いかけます。「障害って何なんだ?障害って本当に恵まれないことなのか?」

福島先生の回答もわかりやすかった。指点字を考案して、大学に通うまでになり、社会から注目を浴びた時、福島先生の一番の悩みは「アパートが見つからないことだった。」

障害者のことを英語ではハンディキャップという言葉で表しますが、肉体的障害がハンデなのではなくて、社会的バリアが真のハンデなんですね…

障害者なればこそ、「生きる意味」とか「幸せとは?」という疑問は切実に迫ってくるでしょう。でも、「バリアフリー実現の意義」という問題はそれぞれ別個に議論すべきである、と先生はおっしゃっていました。

「不謹慎ではあるけれど」という前置きで、太田さんが言ったこと。「飢えに苦しむ子どもが僅かな食事にありついた時の幸福感の方が、義務のように食事をしている我々よりも大きいだろう。そうなると、どっちが幸せか分からなくなる。」という指摘も私好み。

幸せはともかく「苦悩には意味があると思うことにしている」と先生。そこで話されたのが、フランクルの「絶望の方程式」。フランクルの「夜と霧」は有名ですが、私は読んだことがありません。先日紹介したのは「幸せの方程式」でしたが、今日は「絶望の方程式」です

・絶望=苦悩−意味

「苦悩の中で意味を失うことが絶望」

・絶望+意味=苦悩

「絶望も意味を見つければ苦悩に変わる」

「生きる意味」についても、障害者という立場を離れて一般論として、「生きる意味なんて無いかもしれない。でも、あると思った方がいいんじゃないか。」というようなことをおっしゃったと思います。

私も「そんなところかな…」と思ってます。かなり、私好みの内容でした。

《つづく》

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アカデミックな日常。 に参加中!
お経約1000字を、一年くらいかけて覚えました。最初は百字でフウフウ言ってました。やはり1000字は無理かな…と。

ところが、200字、300字と進んでいくと、だんだん楽になってくる。いくらでも行けそうな気がしてくる。余り入れ過ぎると爆発するんじゃないか?という変な不安を感じるほどでした。

まず、覚えるときは、文字を見て音と意味を覚えました。一日3字のペースで。本を見た直後は覚えていますが、少しすると忘れる。意味を思い出したり、漢字を思い出したりしながら…それでも3字だと思い出すことができました。

そして昨日まで覚えた分を頭にくっ付けて何度も唱えます。運転している時とか、お風呂に入っている時とか、できるだけ何度も繰り返します。そうすると、脳の別の場所で、自分が唱えている音だけを記憶していくような感覚に気付きました。

この場所はテープレコーダーみたいなもので、経文を唱えていると次々と次のフレーズが浮かんできます。ただ、何行か先を頭出しするなんてことはできません。だから、テープレコーダーです。CDとかディスクとは違います。

好きな歌を何度も聴いていると、いつの間にか歌えるようになりますよね。歌詞もいつの間にか入っている。アルバムならば、一曲終わると、次の曲が始まらないうちに前奏が頭に浮かぶようになる。それと同じことがお経で起きているのでしょう。

さて、これはどういうこと?ということなんですが、以前書いたスラスラ演奏と同じなんじゃないかと思ったのです。楽譜を見ながらじゃないと弾けない曲を演奏しているときは左右の前頭前野が働くけれども、弾き慣れた曲を演奏しているときは右脳の前頭前野だけが主に働くというやつ。

テープレコーダーの正体が右の前頭前野なのかどうか…川島先生にでも聞かないと分かりませんが、スラスラ読経のときは全く他のことを考えていてもお経は途切れませんから、スラスラ読経だけではあまり頭は働かないのかもしれない。

1000字分のお経を唱えられるようになったのはいいのですが、「書け」と言われてもほとんど書けません。意味も最初に覚えた方はあやふやになっています。そこで復習を兼ねて、覚えたお経を少しずつ音読することにしました。これだと、文字を認識する中枢も刺激されることでしょう。

でも、要はボケ防止です…

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アカデミックな日常。 に参加中!
第18章「新しい「人間の運命」の始まり3」を読みました。

《以下引用》…なによりも、次の点を忘れないでいただきたい。
 神の火花は人間に、自己の内部にのみ存在する。それを軽蔑するのも消し去るのも、あるいは逆に、神とともに働き、神のために努めたいという熱意を示すことによって神へ接近するのも、すべてわれわれ自身が選び取ることなのだ、ということを。
…《引用終わり》


キリスト教でない人は、「神」を何か素晴らしいものに置き換えるといいのかもしれません。でも、人間にしかその資格がないような言い方は、やっぱり受け入れがたい。

この本は、最初は、人間が何事にも適応できない存在、いわば究極の劣等生のような言い方から始まっていて、そこが私としてはたまらなく好きでした。「だからこそ、頑張り甲斐があるんだぞ」みたいなところが。

でも、途中から、「人間だけが凄いんだぞ!」という話になっていき、とても不快でした。この不快感は、アドルフ・ヒトラーの「わが闘争」を読んでいたときに似ている。上下巻揃えて読み始めたのですが、気持ちが悪くなって、上巻を少し読んだだけでやめてしまいました。

一般に、似た者どうしの争いほど性質が悪いものはないように思います。同じものに固執するから争いになります。固執する己と闘わなければいけないのに、固執する他者と争ってしまう。戦争はそういうことなのでしょう。

連合国の側にも、自民族至上主義があり、人種差別があり、それを他民族に押しつけようという固執があったんだな…と、本の主旨とは関係ないことをつくづく感じてしまいました。

NHKの「JAPANデビュー」も賛否の声は多々あるようですが、列強の帝国主義に染まり、同じ固執をしたことは誤りだったんだなと思います。

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