トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2008年12月

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悟りへの道 に参加中!
仏教が伝来したころ、全てのものが「仏教」に包含されていたことでしょう。呪術、哲学、弔い、建築、美術、その他もろもろの生活習慣などなど。当時は、「呪術としての仏教」を最も強く求めていたのではないでしょうか。

新しく興り、急速に広がっていく宗教は、呪術なのだと思います。霊感とカリスマのある人を中心に人が集まり、その人の言葉を大切にし、(比較的短期的な目先の)現世利益を実現していきます。

…尤も、それで本当に羨ましくなるほどの幸運(現世利益)に恵まれている人を、私は見たことがない。「そんなに忙しく信仰しないといけないんだったら、何か仕事してたほうが幸せなんじゃないの?」と思える人ばかりです。

だから、というわけでもないのですが、そういう初期の勢いが無くなった「古典としての仏教」を勉強する、「哲学としての仏教」を修める、ということを今年は頑張ってきました。

真言密教大乗起信論について、初歩の初歩の初歩をかじったところでしょうが、哲学として非常にしっかりした奥の深い内容であることがわかってきました。哲学として仏教は何になるのか?どういう意味があるのか?今の私の考えを書いておきます。

それは「外側から降りかかる災難や、内側から突き上げてくる煩悩に対して、なるべく動じない心を養う」ということではないかと思います。

外側から降りかかってくる災難を取り除くこと、これが「呪術としての仏教」の役割だと思います。でも、それはどうかな?と思っています。災難に遭う確率を下げることなんてできるのかな?と。少なくとも、そんなことを仏教に求めてはいけないと思っているからこそ、「哲学としての仏教」を望むわけなのですが。

内側から突き上げる煩悩も修行をすれば無くなっていく…というのもどうかな?と思っています。欲望を失った人間なんて、結局のところ腑抜けじゃないか。少なくとも現世に生きる以上、煩悩は消せないし、消してもいけないんじゃないか。

じゃあ何も意味がないじゃないか!と思う人もいるでしょうが、内外から襲ってくる艱難辛苦に対して、あたふたと右往左往するか、しっかり受け止めた上で対策をこうじるか、では雲泥の差があります。

「哲学としての仏教」が示す宇宙観・人間観を身につけることで、なるべく動じない心が養われていくように思います。その宇宙観・人間観を思い出し、なるべく自分をその中に置くための作業が読経なのかな、と。108の煩悩を取り除くというよりはしっかり受け止めるつもりで、除夜の鐘を聞きたいと思います。

皆様、良いお年をお迎えください。

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年末はなぜか、昔の歌が流れることが多いですね。今年をふりかえると共に、その前もふりかえるということなのでしょうか。

昔の歌を聴いていると、昔のことを思い出します。昔のことを思い出すとボケ防止になるそうなので、最近は思い出に浸るように心掛けています。

歌詞を読んでみると、その時とは全然違った印象を受けたり、全然違った意味であることが分かったり…面白いです。

ジュディ・オングの「魅せられて」が流行っていた頃、私は真面目な少年だったと思います。次のフレーズがとてもショックでした。

好きな男の腕の中でも
ちがう男の夢を見る

やさしい人に抱かれながらも
強い男にひかれてく


女ってそんなものなの!?作詞が阿木耀子さんで、女性だというところが尚更引っかかりました。男が作詞したのならともかく、女性の手によるものとなると説得力があります。

女性不信に陥りそうでした。というか、しっかり不信になったかもしれない。恋愛して、あるいは結婚して、相手の女性がそんなことをしていたらどーなんだ!?女って嫌だー、あー、俺は一生、結婚はおろか恋愛もできないのか!

でも、今になると…

どってことないです。

男性だって、というか、私だってそういうことあるし…だから、不倫だ浮気だという気は全然起きないし…

想像くらい自由でいいじゃないか。俺の子供を、命懸けで産んでくれたんだもの。

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悟りへの道 に参加中!
昔は、言葉には表と裏の意味があるのが当たり前だったような気がする。

それだけじゃなくて、右とか左とか、上とか下とか、前とか後ろとか。

当たり前に、有ったんじゃないだろうか。

だから、言葉には幅があり、高さがあり、奥行きがあり、内側があり、外側があり…

少しの言葉で事足りた。それが以心伝心。

それを解しない人たちは、日本語を難解で曖昧だと言った。

裏を削り、両脇を削り、上を削り、下を削り…

言葉を、シンプルで、ピュアなものにしていった。

そして言葉に厚みが無くなった。

だから、なんだか、日本文化全体が薄っぺらになってきたような…気がする。

言葉はあふれているけれど、何も書いてない手紙をやり取りしているみたいだ。

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チャプタ兇痢屐屬澆鵑覆いぁ廚箸いΤ亳隋廖崚俘気琉貶癲廚鯑匹澆泙靴拭

《以下引用》…いわれなき差別に苦しむ人を救うのは当然のことである。みずからの内なる偏見と闘うのは人間の義務だ。そのうえで、「みんなちがって、みんないい」というラジカルなスタンスをどれくらい本気で貫けるか。…《引用終わり》

身の回りのいろいろな物事を区別し、分類し、順番を付けて垂直に並べていく能力は、日常生活で必要なことです。生きるために、毎日この能力はトレーニングされます。だからその弊害としての差別とか偏見は、まともな人なら必ずみんな持っているはず。これを克服するのは、壮絶な覚悟が必要だと思います。

《以下引用》…いまだ人類が到達したことのない頂を目指し、薄い酸素の中で苦闘してこそ、はじめて得られる快楽がある。…《引用終わり》

「わかりやすさ」だけが受ける昨今の風潮を、山の広い裾野(底辺)を目指すこととして、嘆いています。そういう動きもあっていいけど、山の天辺(頂点)を目指すのも必要でしょう、という主張。高地トレーニングのように、高い所で苦闘したあとに達成できた喜びは格別なはず。

垂直線を引くことをある時は抑え、ある時は没頭する。そのメリハリが知的生活においても重要なことですね。

《つづく》

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クリスマスは瀧見館!が恒例になりつつあります。今年もにぎやかに楽しませていただきました。

宴たけなわという頃に、サンタさんから委託された(?)子どもたちへのプレゼントの贈呈。天童のサンタさん、東根のサンタさん、といろんなおもちゃをもらって嬉しいんでしょうけど、いささか混乱気味。

そのプレゼントのひとつが、プリキュアのパズルでした。二人とも同じものをもらいました。

お姉ちゃんがやり始めれば、妹もやりたがります。お姉ちゃんがやってるところに、もうひと組のピースがジャラジャラジャラ…

「もう少しでできるとこだったのに…」お姉ちゃんの混乱は更に深まります。

銀山でパズル


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「意識の形而上学」
第二部「存在論から意識論へ」の「11.「空」と「不空」」「12.「アラヤ識」」を読みました。タイトル通り、空、不空、アラヤ識について書いてあります。

「空」について。
《以下引用》…意識と存在のゼロ・ポイントとしての「心真如」は清浄であって、ただ一点の妄染すら、そこには無い。哲学的言辞で言えば、一切の意味分節を超絶しているのであって、それをこそ「空」というのだ。…人間は誰にも「妄心」なるものがあって、時々刻々に存在を「分別」(=意味分節)し、限りない現象的「有」を刻み出して止まない。それらの事物は、どの一つを持ってきても、「真如」そのものとはピッタリ合わない。だから、このように「真如」の自性を歪曲して提示する意味分節の単位を、全部一挙に払拭する(=空じ去る)ために、どうしても「空」という概念を立てることが必要になってくるのである。もし我々が分節意識の、存在単位切り出し作業を完全に止めてしまうならば、空ずべき何ものも、いや、「空」そのものすら、始めからそこには無いのだ。本来的には、空ずべきもの何ものも無い、いや、「空」そのものも無いという、まさにそのことが、ほかならぬ「空」なのである。《引用終わり》

「不空」について。
《以下引用》…「心真如」の本性そのものは常恒不変、不生不滅の「真心」であって、そこには一点の虚妄性も無いが、そのかわり、「真心」特有の玲瓏たる諸相(=「浄法」)を無尽蔵にそなえている。それらの「浄法」が、「心真如」の自己分節という形で、限りない現象的存在者として顕現してくるのだ。「心真如」のこの側面を「不空」と名づけるのである。《引用終わり》

「アラヤ識」については、『起信論』と唯識哲学とで見解が違うようですが、このブログでは前者を取り上げます。
《以下引用》…(「心真如」と「心生滅」)の関係は本性的に流動的、浮動的であり、柔軟であって、単純に此処までがA領域、此処からはB領域、という具合にキッパリ区画して固定できるようなものではない。両者は現に、不断に相互転換しているのだ。もともとBはAの自己分節態にほかならないのであるから、Aは構造的に、それ自体の本然的な現象志向性に促されてそのままBに転位し、また逆にBは、当然、己れの本源であるAに還帰しようとする。『起信論』的に表現するなら、AとBとは「非一非異」的に結ばれているのだ。A領域とB領域とのこの特異な結合、両者のこの本然的相互転換、の場所を『起信論』は思想構造的に措定して、それを「アラヤ識」と呼ぶ。《引用終わり》

この状態を略図化しています。集合Aと集合Bとその交わりMを表すベン図のような絵です。A、Bは前出のA、B領域に対応し、Mが「アラヤ識」ということになります。更にこのM領域をM1「如来蔵」とM2「(狭義の)アラヤ識」に分けています。
《以下引用》…M1(「如来蔵」)は無限に豊饒な存在生起の源泉。M2(「アラヤ識」狭義)は、限りない妄念的「仮有」の生産の源泉。この両方が同じ一つの「アラヤ識」(広義)の相反する二つの「顔」をなす。…B領域の存在分節態を、Aの本体そのものの自己展開と見るとき、M領域は「如来蔵」(=「如来の宝庫」、存在現出の限りなき可能体)としてポジティブな価値づけを受け、逆にBを全一的Aの分裂的汚染態として見るとき、同じM領域が、「妄念」的存在世界への第一歩というネガティブな性格を帯びて現れる。そして、およそこのようなものが、『起信論』の考想する「衆生心」の真相なのである。《引用終わり》

とにかく、どこまでも双面的なのですね…(^_^;)

《つづく》

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NHK に参加中!
NHK「ためしてガッテン」(11月19日放送分)を見ました。痛み病(慢性痛)の最新情報でした。

怪我や病気で神経が傷むことがありますが、傷んだ神経が再生するとき、混線してしまうことがあります。神経には、単に触られたことを伝える触覚の神経、交感神経、痛みの神経などがありますが、これらの神経が傷んだ後に再生するとき、こんがらかってしまうのです。触覚の神経や交感神経の信号が、痛みの神経に伝わっていくと、本来は痛くない刺激が痛みとして感じられるのです。

こういうことが脳内のネットワークで起こるのが、線維筋痛症です。強い痛みを何度も繰り返し感じていると、その痛みの記憶が脳にできあがってしまう。言い換えると、脳の中に小さな痛みも激痛に感じてしまう回路が出来上がってしまうのです。この病気に悩む人は全国に200万人もいるそうです。

慢性痛の原因としては、感染(帯状疱疹、神経炎など)、物理的圧迫(外傷、脊柱管狭窄症、手術後の傷など)、その他(糖尿病、脳梗塞など)があるそうです。

《つづく》

アレルギーの話を見て、家畜小屋や肥え溜めが散在し、エンドトキシンが飛び交っていただろう昔の日本…とイメージしていたのですが、中世のヨーロッパはもっと凄かったらしい。アレルギー予防という観点からすると、昔の日本よりずっと恵まれていたらしい。

「ハイヒールの起源は?」というクイズをテレビで見ました。「もともとは外見ではなくて、実用的な目的で作られたらしい。それは何か?」という問題だったのですが、道端に落ちている排泄物を踏まないで歩くため!という答えを聞いてビックリ!

確か、ベルサイユ宮殿辺りで宴が繰り広げられていた頃、下水が完備されておらず、排泄物を窓から道路に捨てていたらしい、と聞いたことがあります。気を付けて歩かないと頭からかぶることになったとか。当然、路上はひどいもので、女王様のようなとんがったハイヒールが必要だったことでしょう。

街はエンドトキシンに溢れ、アレルギーになる人などいなかったことでしょう。その代りペストが大流行したわけですけど…

女王様と言えばブタ。ブタ小屋は汚い所の代名詞のように使われます。ブタさんは決して汚い所が好きなわけではないのでしょうが、昔の中国ではトイレにブタを飼っていて、人糞を餌にしていたことなどがあるからかもしれません。

以前、日本人は「ウサギ小屋の働き蜂」と呼ばれ、からかわれていました。あの頃にハイヒールの起源を知っていたら…と悔しくなります。そうしたら、こう言い返してやるんだった。

「あなたたちの祖先はブタ小屋のような街に住んでいたじゃないか!」

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爆笑問題 に参加中!
NHK「爆笑問題のニッポンの教養#57」(12月9日放送分)を見ました。海洋生物学の窪寺恒己先生でした。

この番組は、太田さんが特有の哲学的問題に持っていくのが面白いのですが、この先生はそういう方向に乗ってくれませんでした。だから、まあ、言いにくいけど、つまんなかった。HPに掲載されている先生の感想に「疲れました」とありますが、そうでしょうね…

私もイカとタコは大好きです。刺身がいいですね。ちょっと味が付いてるのもありますが、それは大嫌いです。

回転寿司で出てくるイカは身が薄くて、物足りないです。身が厚いのがいい。でも、ダイオウイカ(無脊椎動物最大の生き物)は、「食べられなくはない」という程度の味らしい。

残念です。

《つづく》

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憂国 に参加中!
派遣切りが社会問題化していますが、マスコミの取り上げ方に違和感を感じています。そういう違和感を誰も言っていないようなので、書いてみます。

私がニュースで見かけたもので、まず気になったのは…
「何年も正規社員と一緒に働いてきたのに、切られるのは私たちが先というのは納得いかない。」
これには耳を疑いました。字幕入りだったので目も疑いました。会社が苦しくなったら真っ先に切られる人のことを派遣と呼ぶのだと思っていたので。そういう覚悟がなくて派遣をやっている人がいることにビックリしました。企業が派遣切りに走っていることよりも、こっちの方がニュースなんじゃないだろうか?

次に気になったのは…
「何年も私たちがこの会社で働いてきたお陰でこの会社の今日があるんじゃないですか!」
そうかもしれませんが、会社が何年もあなた方に仕事を提供し賃金を与えていたからこそ、あなた方の今日もあるんじゃないでしょうか?

それから黙って門を閉じる会社側に対して…
「派遣の意見なんか聞く耳持たないのか!」
聞こえているから、可哀そうで何も言えないのだと思います。

ニュースでは、こういう発言を字幕付きで紹介した上で、この意見が正しいとか間違っているとかコメントすることはせずに、「気の毒だ、可哀そうだ」を繰り返す、という報道の仕方です。

私としては、「この主張はちょっと違うんじゃないでしょうか?」というコメントくらいは欲しいところです。それともこういう主張は正しいのでしょうか?

リスクを負って起業し、雇用を創出するという形で社会貢献しているのが、各企業です。労働者はこのリスクをほとんど負っていません。それでも、労働基準法に決められた条件で働き、給料がもらえるのです。

派遣は、正規の労働者よりも条件は悪いわけですが、状況に合わせて仕事を変えられるというメリットがあり、フリーランス(個人事業主)に近い立場だと私は思っています。一つの会社あるいは職種に依存しない独立心の強い人がなっていると思っていたし、そういうプライドを持っている人たちなのだろうと思っていました。だから、今回の報道を見て、少しがっかりしています。

会社が傾いてきたときに従業員を整理するのは、全体を守るために仕方がないことであり、「カルネアデスの板」と同様に許される行為だと私は思います。

「解雇するな!」と拳を振り上げて、会社を罵倒するのはおかしいのではないでしょうか?「このままでは生きていけませんから、どうか助けて下さい。」と頭を下げるのが本当ではないでしょうか?

私のような個人事業者の場合、「仕事をキャンセルするな!」とお客様に殴り込みに行ったら、間違いなく警察に逮捕されます。そうならないだけでも、労働者は恵まれているのかも。

半年前は原油高で音を上げた人もいました。もちろん、私も、最大限、派遣の方々が会社や政府から救済されることを祈りますが…

程度の差はあっても皆が苦しいんです。会社も苦しいし、国も苦しいし。中小企業の社長さんや個人事業者は、もっともっと苦しい人がいっぱいいるんじゃないかな…

私も苦しいな…

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