トトガノート

「鍼灸治療室.トガシ」と「公文式小林教室」と「その他もろもろ」の情報を載せています。

2006年10月

 テレビは、お客様のお宅で仕事をしながら見ることのほうが多いのですが、「太田総理」の番組もそんな形でたまたま見ました。終戦記念日の頃でした。戦争を避けるためにはどうしたらよいか、というようなテーマのようでした。そこでの太田さんの発言を聞いて、非常に共感を覚えたのです。

 ポイントは2つ有りました。ひとつは「正義」ということ。「自分のかみさんを殺したやつがいたら、そいつを殺すことが自分にとって絶対的な正義だ!」と叫んでおられました。もうひとつは、「戦争賛成論」について。「戦死していった人たちの手記を読んだ。みんな戦争を嫌がりながらも我慢して死んでいったのだと思ったら、戦争に賛同しお国のために喜んで死んでいった兵士の手記もあるということが、その本のあとがきに書いてあった。再び戦争が起こることがないように削除したと書いてあったけれども、それでは戦争をしっかりと反省することにはならないと思う。両方の意見があったことをしっかりと踏まえて、見つめ直さなければいけないと思う。でも、ひとつだけ気になることがある。自分がその「戦争賛成論」を読んだときに、果たして戦争反対の気持ちを持ち続けられるかどうか、自信がない。」というようなことをおっしゃいました。仕事をしながら聞きましたので、細部は精確ではないかもしれませんが、だいたいこのようなことでした。

 わたしもかねがね思っていたことですが、戦争を起こすのは「正義」の心なのではないかということです。「正義」が常に世界にたったひとつしかないものならば問題は起きないのですが、大抵の場合「正義」はひとつではありません。それなのに、そう信じて疑わなくなるような魔力が「正義」にはあるし、殉ずることさえいとわないことが美しく見えてしまいます。

 そして、大日本帝国にも「正義」があったと思うのです。青空文庫で石原莞爾の論文を少しだけ読んだのですが、頭を冷やしながら読まないとなかなか危険な文章だと思いました。太平洋戦争前夜、アメリカで日本人が迫害されていたことを考えると、わたしも戦争に反対していたかどうか自信がありません。

 「正義」を押し通さなければ平和は訪れないという考え方と、それぞれの「正義」を抑えて全体の「和」を尊重しなければならないという考え方があると思います。後者の考え方が、聖徳太子の十七条憲法だと思います(日本に「平和憲法」の呼び名に値する立派な憲法があるとすれば、それは憲法9条ではなくて、十七条憲法だとわたしは思います)。でも、これは構成員全てがある程度の水準に達した人たち(いわゆる「おとな」)でなければ成り立たないのではないかと思います。つまり、融和(宥和)はヒトラーの再来を許すということです。

 戦国時代から太平の世に移行したわが国の歴史をかんがみても、平和実現のために武力を用いた家康たちの選択は間違いではなかったのかもしれないと、わたしは思わざるを得ません。拉致したり、ミサイルを打ち上げたり、脅迫のための核実験を行う国が存在するものだから、なおさらです。

 とにかく難しい問題だと思います。武力放棄と武力行使のアンビバレントな状態を温かい心で保ち続けるしかないのでしょう。熱くなってはダメですね。相手につかみかからんばかりのけんまくで「憲法9条を守れ!」と叫んでいる人を見ると、本当に戦争反対なのか分からなくなります。このアンビバレントが、いいのかもしれませんが。

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 自習問題3に、昨日から取りかかりました。2と同様に大学生の就職が話題になっています。2では、インタビューを受けている人が「ムカつく」という言葉を使ったりしていて、けっこう新しい取材のようだと感心しました。

 テープを文字に置き換えていく作業は、とても楽しくて、自分はテープ起こしが好きらしいとそのつど思います。添削課題をいつ提出すればいいか分からず、ずっと自習問題をしているので、教育センターさんにはご無沙汰が続いております。このブログには気づいていないだろうしなぁ…

目次(その1)を見る

 メール便配達は、ただ玄関の郵便受(もっとも我がメール便には「郵便ではない」といちいち明記されているが・・・)に入れてくるだけです。それでも、家の人と接することは時々あります。その時に感じるその人の雰囲気がさまざまで、楽しいものです。と言ったら不謹慎でしょうか?

 不審者として警戒する人、不快感をあらわにする人、「ご苦労様」と言ってくださるかた、封筒の中身を詳しく尋ねる人、世間話をしたがる人、などなど。暖かく接してくださるかたと、事務的に淡々と接するかたと、2つに大別できそうです。これまでの自分は後者のタイプだったのですが、前者になりたいと最近は思います。客商売をしているとなれば、なおさらですね。

 わたしの担当エリアには、花屋さんが二軒あります。一軒は、花を買いに来たわけでもないわたしに対しても、お客さんが来たかのように笑顔で接してくれて、「ご苦労様」と言ってくださいます。もう一軒は、「こんなの要らない!持って帰って!」とものすごい形相でにらみます。2キロも離れていないのに、とても対照的なお店です。先日、仏様に供える花を買うことになったのですが、もちろん前者のお店に買いに行きました。

 長女は、最近お姉ちゃんとしての自覚(?)ができたようです。

「あら、かわいいわね!これあげるね」
と言われて、お菓子とかオモチャとかいただくことがあります。黙ったまま何も言わないので、

「あれ?こういう時、何て言うんだっけ?」
と、お礼を言わせようとしたら、

「チャンクン(妹のこと)も」

「コラ、そんなこと・・・」
と娘の口を押さえても、出てしまった言葉は元には戻りません。

「そうだよね、ひとつだけじゃ喧嘩になっちゃうもんねぇ〜」
と相手の方は言ってくれて、もうひとつ催促した格好になってしまいます。

 決して、そんな教育をしているわけではないのですが・・・。

 今日は11月の価格を決定しました。8月の消費者物価指数(生鮮を除く)は100.3で、前月比で0.2ポイント上がりました。一律3円上げさせていただくことにしました。触察料1677円となります。

 娘が言うことを聞かない時、妻は「アンポンタンになっちゃったみたいだね。よーし、アンポンタン飛んでけー!ほーら、アンポンタン飛んで行ったから、もうお利口ちゃんになったよ。ねっ?」と言います。すると、娘も言うことを聞くようになります。本当はいい子なんだけれど、たまたまアンポンタンのせいで悪い子になってしまった。「あなたは悪い子!」というレッテルを貼らずに、娘のプライドを保ったまま変心させるという妙技に、我が妻ながら感心しました。

 細木数子さんの番組で、話し方に嫌味のある相談者が出てきた時に、「あなたに邪気がある」と細木さんがおっしゃいました。「なるほど、これを邪気というのか」と、これまた感心しました。邪気というのは、霊感がある特別な人だけが感じるものだとばかり思っていました。言葉の選び方でも感じられるとすると、かなりとらえどころのあるものなのかもしれない!

 学生時代に、宮本武蔵のドラマをテレビで見ました。そこでは、「殺気」という言葉が出てきました。「殺気をビリビリと感じた」というようなセリフがあったように思います。それは、剣の達人しか感じないものだと思っていたのですが、「邪気」のように自分も感じたり発したりできるものなのではないか?と思ったら、思い当たるものがありました。それは、車の運転です。

 対向車と出会った時、まさに剣士が敵と対峙するような緊張が生じるときがあります。私は、機嫌が悪いとわざと意地悪な運転をすることが多々あります。とても危険なことなので、その都度反省するのですが、ついまたやってしまうのです。この意地悪運転は、殺気を発していることにならないだろうか?逆に、ドキッとするような危険な運転をする車に出会ったときの緊張感は殺気と呼んでいいのではないだろうか?

 武蔵は、自分の殺気を消そうと修行しました。細木先生は、邪気を無くしなさいとおっしゃいます。そして妻は、アンポンタン飛んでいけと言います。子供に限らず、大人にも人間としての成長があるはずです。そして、だんだん丸くなっていくのだと、私が子供の頃はみんな漠然と思っていたような気がします。でも、今は・・・。

 私たちは、いつからアンポンタンを飛ばさなくなったのだろう?

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